goo blog サービス終了のお知らせ 

労働者のこだま(国内政治)

政治・経済問題を扱っています。筆者は主に横井邦彦です。

ついに自民党は分裂への道を選択

2007-09-13 02:46:04 | 政治
 安部晋三氏が突然、政権を投げ出した。われわれはすでに9月10日に、今日という日のあることを予告していたので読者の皆さんはさほど驚かれなかったと思います。
 
 なぜ今日なのかという点では、一斉に無責任だという声が上がっているが、もともと国民や議会制民主主義のことなど眼中にない総理大臣だから、いつでもいいといえば、いつでもよかったのだろう。
 
 ただ、野党の代表質問に答えてしまえば、内閣として所信表明演説に実質的な責任が生じるために、やめるのはそれ以前でなければなかった。
 
 では、なぜ安部晋三氏は内閣総辞職を選んだのか?それは新しく誕生した内閣が気に入らないからにほかならない。彼は、新内閣のもとで“飼い殺し”にされるよりも、閣内に残った“最後の小泉派”として、小泉純一郎氏に殉ずる道を選んだのである。
 
 もともと麻生―与謝野の、“庇(ひさし)を貸して母屋を乗っ取る”戦術はうまくいきそうもなかった。というのは、母屋の本当の持ち主は安部晋三氏ではなく、小泉純一郎氏だったからである。そういう点では彼は単なる借家人でしかなかったのである。
 
 参議院選挙で敗北して以来、自民党内の小泉派と反小泉派は綱引きをしていたが、反小泉派の攻勢のなかで、小泉純一郎氏は最後の一手を打って、一発逆転の大勝負に出たのである。
 
 しかし、この一手はもともと禁じ手ではなかったか?主権者である国民を無視して、国会を無視して、内閣を無視して、自分の所属する政党を無視して、「お前はオレの子分だろう、子分だったらオレのいうことを聞くのは当然じゃないか。」などと恫喝していたということが世間に知られたらどうするのか、知られる、知られない以前の問題として、われわれがここでこういうことを書いていること自体、小泉純一郎氏にとっては致命的にまずいことなのではないのか?
 
 ペテン師はペテンが分からないかぎりでペテン師なのであって、みんなの知っているウソを言いふらすのは単なる世間知らずのウソつきにすぎないのである。
 
 そして、小泉純一郎氏は安部晋三氏に内閣総理大臣をやめるといわせることによって、自民党内の“抵抗勢力”の反抗に一矢報いることができたが、しかしこれは自民党の党内闘争を激烈なものにするだけである。
 
 なぜなら、もともと小泉路線というのは、「改革」を掲げて、大資本の政治支配を強化し、同時に反動的な政治を推し進めようとするもので、それ自体に矛盾を含んでいた。
 
 例えば、小泉が靖国神社を公式参拝してアジア諸国との関係を悪化させることは、大資本が渇望しているグローバル化と明らかに相反するものであるし、労働者階級や社会的弱者に犠牲を押しつけて推し進められる「改革」は社会を不安定化させ、労働者階級の政治的な自覚を増進させるという点で、必ずしも大資本の政治支配の強化につながるものでもない。
 
 そして、今回の参議院選挙で自民党が大敗したことは、何よりも人々が安部晋三氏の政治のなかに小泉―安部と続いた一種の詐欺的な自民党の“新路線”の本質を見たからではないのか?だからこそ、麻生―与謝野(彼らの背後には自民党の派閥のボスたちがいる)はここで再度路線を転換しなければ、自民党自体が衰弱化して解党してしまうと考えたのである。
 
 そうだとすると、自民党はすでに一つの党内の中で、二つの相容れない勢力が存在していることになる。
 
 さらに、小泉純一郎氏の今回のあまりにも自分勝手で強引なやり方は、結果として、自民党の公党としての資格すら疑わせるものであり、自民党の政党としての信用の失墜は計り知れないものがある。そしてこれが小泉派以外の自民党をいたく刺激している。
 
 だからもうすぐ行われる自民党の総裁選挙は、非常に激しい分派闘争の場となるであろうし、相当深い遺恨が長く残るであろう。そういう点では、自民党分裂の端緒となるべき出来事なのかも知れない。
 
 どちらが勝つのか、誰が次の首相になるのかは、まだ未定であるが、今回の暴挙は小泉純一郎氏が追いつめられた結果であり、確固たる展望も勝算もあってやっているわけではないので、自ずと勝敗は決まるであろう。
 
 
 

1991年と2007年                        ゛゜

2007-09-11 02:08:04 | 政治
 1991年に宮沢内閣が誕生して、小泉純一郎氏は郵政大臣として初入閣している。
 
 したがって、彼は宮沢内閣が誕生した原因となった「海部おろし」をよく見ているし、「海部おろし」の遠因となった“衆参のねじれ現象”のなかでの政治の混迷もよく見ている。
 
 小泉が制定したテロ特措法や郵政民営化、その他の“改革法案”はこの時期の彼の政治的経験をもとにしている。
 
 この「安部おろし」の仕掛け人は、当時、自民党の幹事長だった小沢一郎氏(現民主党委員長)である。
 
 「御輿(みこし)を担ぐには、パアを上にのせたほうがいい」というのは当時の小沢氏の発言で、この「パア」というクラッシックな言葉の意味はどうもよく分からないのだが、当時「御輿(みこし)」の上に乗せられていたのは海部氏であり、彼には自民党における影響力も、指導力もなかった。そして小沢氏がそのような海部氏を首相に担ぎ上げたのは、彼が御しやすいからであった。
 
 この年には、湾岸戦争があったが、海部内閣はPKO法という自衛隊を国連の平和維持軍に参加させようという法律は国会を通過させられなかった。それで日本は90億ドルの拠出を行っただけであった。
 
 この時の、「日本は金を出すだけで血を流さない」というアメリカの批判(本当は世界のどこからも公式にそのような発言をした政府はアメリカ合衆国を含めてなかったし、そのような内政干渉的な発言がなされるはずもなかった)は、アメリカ追従をこととする自民党の政治家(当然、小泉純一郎氏も小沢一郎氏もそのなかに含まれる)のなかにトラウマとして残った。
 
 「海部おろし」の直接の原因は、海部首相が政治改革法案が流産したことに対して「重大な決意」があると語ったことだ。もちろん海部氏自身は、内閣総辞職も、衆議院の解散総選挙も、想定はしていなかったのだろうが、彼がこの言葉を言ってしまったので、自民党内では、どちらかをやらなければならないという意見が強まり、衆議院を解散するだけの力のなかった海部氏は、総辞職に追い込まれた。
 
 自民党が海部内閣を支えることに熱意を失ったのは、彼があまりにも軽いからという面と、この湾岸戦争のトラウマが原因であろう。
 
 そこで、今回の「職を賭して」という安部晋三氏の発言であるが、彼がこの言葉を発するまでに6秒間もかかっている。つまり、この言葉を言うことに対するためらいの時間があった(つまり、このような発言が重大な波紋を呼ぶだろうという自覚が当人にはあった)わけだ。そういう点では海部氏の「重大な決意」うんぬんの発言とは明らかに違っている。
 
 もっと違うのは、自民党はこぞって、これは単なる言葉のあやであり、取り立てて深い意味はないのだと言い立てていることだ。それに昨日(9月10日)の所信表明でも安部晋三氏は「職責をまっとうする」といい、「職を賭して」発言を事実上、否定している。
 
 ということは、この言葉は誰かのサジェスチョン(示唆)によるものであり、安部晋三氏は、一端、それに乗りかかったが、途中で気が変わって引き返してきたのであろう。
 
 そして安部晋三氏にこのような入れ知恵をした人物は、ここで「海部おろし」の再現を狙っていたのだが、当人が内閣総理大臣の地位に未練たっぷりだし、自民党内も今ここで「政局」になってしまったら、それこそ本当にどちらかを選ばなければならなくなるし、当人にやめる意志がない以上、解散総選挙しか事実上選択肢はなくなるのであれば、自民党は本当にここで解体するしかないので事態を収束させる方向で動くしかないだろう。
 
 もちろんこれにはまだ解散総選挙の準備ができていない民主党も賛成だろう。
 
 だから、事態は一見すると、終息に向かっているかのように思えるが、当事者たちは重要なことを二つ忘れている。
 
 一つは、この91年というのはソ連邦が崩壊した年でもあったので、世界中の左翼運動が混乱しており、政治闘争どころではなかったということ。
 
 それともう一つは、当時は「べた凪政局」とも呼ばれていたように、自民党の相次ぐ、金権腐敗の政治の露見により、一般的な政治不信が根強くあり、人々が政治にたいする信頼と関心をなくしていた時代であり、「海部おろし」は自民党のコップのなかだけの小さな出来事でしかなかったということだ。ところが、現在は、「内閣総辞職」か「解散総選挙」、あるいはその両方をというのは多くの人々の声であり、動かすことのできない世論となっている。だから、自民党や民主党が必死になって火消しに走っても、世論が、「やめたいというならやめろよ」、「どうせやめるなら衆議院を解散してやめろ」というように動くのかも知れない。そうなったらこの動きは誰にも止められないだろう。     

訃告(ふこく)

2007-09-10 15:37:40 | 政治
 われらの領袖(りょうしゅう)にして、大将軍であらせられる安部晋三氏(日本国総理大臣)が、ついに、ついに、ジハード(聖戦)の殉教者たるべく、爆弾を抱えて、醜敵ひしめく日本国の国会に対して自爆テロを敢行をなされる決意をなされました。
 
 この崇高にして偉大なる、犠牲的、英雄的精神の発露に対して、すべての日本国民はアッラー・ブッシュ(Bush is the great = ブッシュは偉大なり)を三度大声で称えなければなりません。そうしなければわれらの偉大なるキリストの殉教者、対イスラム聖戦の先がけ戦士の魂は永遠に天国に行くことができません。
 
 偉大なる戦士のご冥福をお祈りいたします。
 
 (われわれは何百人もの政治家を見てきたが、安部晋三氏ほど愚かで、情緒的に不安定な政治家を見たことがない。まるで子どもが夜店の前で、「あれを買ってくれなければ、死んでやる」とだだをこねているようなものである。おそらく、安部晋三氏は、だだをこねれば、何でも買ってもらえるような少年時代を過ごしてきたのであろう。しかし、残念ながら日本国民は、安部晋三氏の親ではないのだ。そういう点すら理解できないところにこの男の救いがたさがある。
 
 そして、安部晋三氏がついに「内閣総辞職」という言葉を口にしたことによって、否応なしに政治は流動化の局面を迎えようとしている。(安部晋三氏は総理大臣が内閣総辞職を口にすることの重大さを理解していない。かつての海部内閣は不用意に「内閣総辞職」口にしたために、本人の意図とはまったく別に、その通りになってしまった。)
 
 しかもこの流動化は誰も予期しなかった流動化であり、あらかじめ絵を描いた人が誰もいない、ことの張本人である安部晋三氏すら何かもくろみがあってやっているわけではないのだから、どうなるのかは誰も分からない。実際、われわれもこの政治的な流動化の先に何が待っているのかすら予測がつかなくなり始めている。
 
 しかし同時に、こういう常識外れの人間のおつきあいをするのは、もううんざりだという思いもある。それに、爆弾の破片がこっちまで飛んでこないともかぎらないし・・・) 

西部遇氏と林紘義氏の憂鬱(ゆううつ)

2007-09-08 01:47:01 | 政治
 西部遇氏が、雑誌『正論』でいろいろ書いている。
 
 この人は、われらのマルクス主義同志会の会長様である林紘義氏の“ご学友”というか、先輩なのだそうだが、片や“道徳的左翼”の雄であり、片や“道徳的右翼”の雄であるという点で、二人はよく似ている。
 
 二人とも東京大学のご出身だそうだが、右翼であれ、左翼であれ、すべからく人は道徳的であらねばならないという教育を行い、実際そのような教育を受けたものがそうであるというのは、いかにも日本の大学の規範たるべきこの大学の特徴をよく表しているともいえる。
 
 そして同時にわれわれは政治における“道徳主義的な立場”というものがどのようなものかを知ることができるのである。
 
 道徳的左翼としての林紘義氏は、一方において、“左翼”として資本主義を否定して社会主義を求めるという立場に立ちながら、他方においては道徳主義者として、この社会に道徳を求める立場に立っている。しかし、この場合、この社会というのは資本主義社会のことであるから、資本主義社会に道徳を求めることは、とりもなおさずより健全な資本主義を求めるという立場であり、この立場は資本主義を否定して社会主義を求めるという立場とかなり矛盾することになる。
 
 そこで林紘義氏にあっては、前者、すなわち、資本主義を否定して社会主義を求めるという立場はたんに口先だけのものとして取り扱うことによって何とか自己分裂を免れている。
 
 これに対して、西部遇氏は“道徳的右翼”として、この社会における秩序と“国柄”を求めているが、この社会とは資本主義社会のことであり、その政治的、イデオロギー的な表現としての民主主義のことである。
 
 そして、西部遇氏の考える道徳とは、アリストテレスであり、カントであり、エドマント・バークの思想、つまり、貴族政治であり、神の道徳であり、民主主義の否定である。
ここから自由を希求しながら自由を否定するという西部遇氏のジレンマが生まれる。
 
 この尊敬すべき道徳的政治人間たちは、そもそもがこの社会を道徳的にとらえることから出発していた。そして資本主義的生産様式の一般的等式は、G(貨幣)―W(商品)―G(貨幣)であり、この等式の目的は“より多くの貨幣を手に入れる”ことである。
 
 ところがわれらの尊敬すべき道徳的政治人間たちは、資本主義という生産様式そのものが、人々をして、より多くの貨幣の獲得に向かわせることを強要していると見ないで、逆に、人々の心に潜む私利私欲が資本主義という私的欲望の体系を生み出していると考えるのである。
 
 この私的欲望の体系に道徳的悪の根源を見いだしている道徳的政治人間諸氏は貨幣を攻撃し、この社会を資本主義社会以前の社会に戻すように要求する。
 
 しかし、このことは西部遇氏にあっては、“保守政治”の概念と明らかに矛盾する。というのは“保守政治”というのは、この社会(資本主義社会)を保ち、守ることを第一理念とする政治なのであって、西部遇氏のようにこの社会を“改革”(西部遇氏は資本主義的原理を否定することを“改革”と呼んでいる)するためなら、爆弾闘争だって、テロリズムだってオレは否定しないぞ、などというのは復古主義なのであって、保守の概念とは相容れないからである。
 
 それに、失礼ながら、西部遇氏と林紘義氏が尊敬してやまないエドマンド・バークは彼らが思っているような人ではない。
 
 この点についてはおもしろい逸話がある。社会主義労働者党時代にある学習会で横井が「エドマンド・バークは無節操な追従屋である」といったら、林紘義氏は烈火のごとく怒りだして、「バークの評価がちがう!!」と絶叫した。そこで横井が「どう違うのか?」と聞いたら、林紘義氏は何も答えず横を向いてしまった。
 
 こういうことでは論争にならないから、われわれがそのように判断した根拠を示しておこう。
 
 「『労働貧民』という表現は、イギリスの法律のなかでは、賃金労働者階級が注目に値するようになる瞬間から見いだされる。この『労働貧民」は、一方では『怠情な貧民』すなわち乞食などに相当するものであり、他方ではまだ羽をむしられた鶏(にわとり)になっていないで自分の労働手段の所有者である労働者に相対するものである。この『労働貧民』という表現は法律から経済学に移されて、カルペパーやJ・チャイルドなどからアダム・スミスやイーデンに至るまでの人々に用いられている。このことから『労働貧民』という言葉を『いやな政治的流行語』だと言う『いやな政治的流行語屋』エドマンド・バークの善意を評価してもらいたい。この追従屋は、かつてはアメリカの動乱の初期に北アメリカ植民地に雇われてイギリスの寡頭政府にたいして自由主義者の役割を演じたことがあり、それとまったく同様に、イギリスの寡頭政府に雇われてはフランス革命に対してロマン主義者の役割を演じたこともあったが、どこまでも平凡なブルジョアであった。『商業の法則は自然の法則であり、したがって神の法則である』(E・バーク『穀物不足に関する意見と評論』)彼が、忠実に神と自然の法則にしたがって、いつでも自分を最上の市場で売ったということは、少しも不思議ではない!タッカー師の著書のなかには――タッカー師は牧師でトーリー党員であったが、その点ではまじめな人物で有名な経済学者だった――このエドマンド・バークが自由主義者であった時代の彼の非常にみごとな性格描写が見いだされる。恥を知らない無節操が横行して『商業の法則』が最も厚く信仰される今日では、その後継者たちとはただ才能の点だけが違っているだけのバークのようなやからには、何度でも繰り返して焼き印を押すことが義務なのだ!」(マルクス、『資本論』、第1巻、大月文庫版第3分冊、P434)
 
 これを読むと、林紘義氏の無知以上に、エドマンド・バークによって、エドマンド・バークを批判しようとする林紘義氏の“ご学友” 西部遇氏の錯乱ぶりと荒唐無稽さが分かるであろう。
 
 それにしても不思議なのは、フランス革命のようなブルジョア民主主義革命すらがまんできないとありとあらゆる悪態をこいているバークのようなその場かぎりの“ロマン主義者”を絶賛している西部遇氏と林紘義氏は、単なる“ご学友”ではなく、二人とも、1960年当時は、安保全学連の輝ける先進的闘士たちであり、とびきりの革命家を自称していた連中なのである。
 
 その答えは、どうも西部遇氏と林紘義氏の“貴族趣味”にありそうだ。
 
 エドマンド・バークの民主主義にたいする嫌悪は、民主主義が古き良き貴族政治を破壊するという点にある。西部遇氏はこれをさらに発展させて、アリストテレスから“衆愚政治”の概念を付け加える。
 
 ここでも西部遇氏は、歴史的な人物の思想を理解するためには、その人が生きた時代的な背景を考えなければならないのだがそれを行っていないという、一つの重大な誤りを犯している。
 
 アリストテレスの時代、西部遇氏が絶賛してやまないペリクレスの民主制はすでに衰退し、衆愚政治と呼ばれる民主主義の堕落した形態が生まれていた。
 
 しかし、これは奴隷制に基礎を置く古代の民主主義がもっていた特有の狭さのせいであった。古代の民主主義は支配的な共同体に所属する農民に土地が平等に分配され、彼らの多くが自営農民として、戦争の時には重装歩兵や軍船のこぎ手として参加し、彼らは共同体の平等な一員として政治にも携わっていたので、彼らの自由で平等な関係が古代ギリシアの民主主義の基礎をなしていたが、古代ギリシアに貨幣経済と商業が発達すると、農民のなかには土地を失い無産市民に転落するものと大土地を所有するものに分裂し、さらに無産市民が富裕な人々やポリスに雇われて傭兵になっていくと、民主主義そのものの基礎が失われ、政治は買収やワイロ、さらには人気取りのデマゴーグによって動かされるようになる。アリストテレスが生きた時代にはすでに古代ギリシアのポリス社会の基礎そのものが崩れており、彼は書物や人々の話によってしか昔のことを知りえなかったので、古代ギリシアの民主主義を成立させていた条件を知らなかったのである。
 
 これは古代ローマでも同様で、奴隷制に基礎を置く古代の民主主義は『商業の法則』によって滅んでいったが、近代の民主主義は、ぎゃくに、『商業の法則』によって生まれ、『商業の法則』を法律的に表現したものにほかならない。だから同じ民主主義をかかげていても古代の民主主義とは異なるものである。
 
 民主主義は衆愚であり、資本主義は『商業の法則』(金儲け第一主義)であるがゆえに、爆弾闘争によってでも、テロリズムによってでも、これを破壊しなければならないという西部遇氏の焦燥感の裏には、民主政治以前の政治形態である貴族政治への強い慕情がある。
 
 林紘義氏もある点では、西部遇氏の貴族政治への慕情を共有している部分があるのだが、このような慕情こそ、1960年当時は、安保全学連の輝ける先進的闘士たちであり、とびきりの革命家を自称していた連中の根底に流れていた心情だったのである。
 
 自分たちを何か特別のものと思いこみ、自分たちは特別な人間であるがゆえに、特別な政治的発言力が保障されるべきだと考えた彼らは、“新左翼”を名乗り、セクトと呼ばれるいくつもの細分された小党派を形成し、それぞれがそのセクトの“お山の大将”になっていった。その結果生まれたのは、日本共産党に対抗する、いくつもの小日本共産党でしかなく、日本の左翼運動は特有の狭さを持ち続け、労働者階級と融合して本当の意味での左翼政党になることに成功はしなかった。
 
 西部遇氏はもちろん林紘義氏のように“お山の大将”になる道は選ばなかったのだが、それでも1960年当時は、安保全学連の輝ける闘士たちであり、とびきりの革命家を自称していた連中の心情は持ち続けている。
 
 そして、現在問題になりつつあるのは、こういった連中に「鬼籍が近づきつつある」(「棺桶に片足つっこんでいる」という表現は非常に悪意のある表現なので西部遇氏自身の表見をそのまま使わせてもらいます)ことだ。
 
 「鬼籍が近づく」年になって、いまだにわけの分からないことを絶叫している自分はいったい何なのか?西部遇氏はふとそう考える。こういう点では、何の自覚もなく、いまだに白髪をふりみだして“青春時代”をやっている安保世代の右翼と左翼よりは彼はましだといえるだろう。
 
 明らかに、安保世代の右翼も左翼も後継者を生み出すことに失敗しているのである。例えば、この『正論』という雑誌には、西部遇氏に続いて「右翼」の論客といわれる人々がいろいろ書いているが、彼らの政治的な稚拙さは覆い隠すことすらできない。(したがってわれわれの論評の対象外である)これを見れば、西部遇氏の憂鬱も分かろうというものである。
 
 こういう左右の両極端が、動脈硬化を引き起こし、次世代を担う人々が途絶し、彼ら自身が齢(よわい)のみを積み重ねていくという事態は、確かに、もうすぐ生物学的な破綻の時代を迎えるであろうが、われわれはそういったことはあまり心配するようなことではないような気がする。これは単に一つの特異な時代が完全に過去のことになることしか意味しないし、過去の歴史を見ても、社会に必要な人々は、どこからでも生まれてきたし、そういったことはこれからも変わらないであろうからだ。
 

信用は貨幣か?

2007-09-07 03:45:17 | 政治
 われらのマルクス主義同志会が、会の名前とはうらはらに本当に信奉しているのは、リカードの貨幣論である。
 
 そのリカードの貨幣論の特徴は、貨幣をもっぱら流通手段としてのみとらえて、支払手段としての貨幣と流通手段としての貨幣を混同するところにあるといわれている。だから、われらのマルクス主義同志会も流通手段としての貨幣と支払手段としての貨幣を合体させるために「流通手段としての支払手段の貨幣」という意味不明な言葉をつくりださなければならなかった。
 
 ところが、支払い手段としての貨幣の機能からは信用紙幣が生まれ、流通手段としての貨幣の機能からは価値章標と呼ばれる流通紙幣が生まれる。
 
 信用貨幣というのは、売られた商品に対する債務証書そのものが、債権の移転のために、再び流通することから生じるが、マルクスは銀行券もこの信用貨幣の一種であると考えていた。
 
 一方、流通手段としての貨幣の機能からは、強制通用力を持つ国家紙幣が生じる。これは流通の過程で金貨幣が摩耗してその重量を減らしても、その金貨幣の名目の価値で流通することから、商品の等価物としての貨幣の形骸化が進み、流通はその形骸化を許容する(形骸化された商品の等価物、すなわち、木・石・紙などのそれ自体として価値物でないものが、その商品の等価物として流通する)ことから、ただ昔の金の重量名を書いた紙片でさえもその金の重量分の価値を持つものとして流通することを許容するからである。
 
 しかし、紙切れが流通するなどということはマルクス主義同志会には絶対に容認できないことなのである。なぜなら、マルクス主義同志会にあっては、価値は“物質”でなければならないのであるから、商品は変態によって、価値そのもの、すなわち一般等価物としての金に、物質であるところの純金もしくは金貨幣に姿を変える必要があるからである。(金を価値そのものとしてみるという点で、マルクス主義同志会は重金主義の流れをくんでいる。これはリカードの貨幣論が隠された重金主義の表明であることと同じである。)
 
 そこでわれらの“道徳的左翼”は、それ自体として無価値な紙切れである紙幣が流通することは許せない、この世の許すことができないものは存在を認めることはできない、存在が許されないものは存在しない、という、例の三段論法で紙幣の流通という現象、価値章標が流通するという現象が存在するという、そのこと自体を否定する。
 
 では、マルクス主義同志会は現在、日本で使われている紙幣をどうとらえるのか?それは日本銀行券を自称しているがゆえに銀行券、すなわち信用貨幣であると考えるのである。
 
 ここで注意しなければならないのは、マルクスが『資本論』を書いた頃の銀行券というのは、現在の銀行券とは大きな違いがあるということである。
 
 その違いの第一は、それが金との兌換、すなわち、銀行が、銀行に銀行券を持参したものに対して、その額面での金貨幣の支払いを約束していることにある。銀行が金での支払いを約束している証券の一種という点で、それは信用貨幣であったということである。
 
 そして第二の違いは、これは案外見落とされているのだが、当時の銀行券は最低でも5ポンドという高額の額面に限られていたということである。当時の労働者の月給が1ポンド程度であったことを考えると、5ポンドは現在の50万円ぐらいと仮に考えることもできる。
 
 現在の50万円札とか、100万円札とか、500万円札とかを考えれば分かると思うが、そのような高額の銀行券は流通に不向きである。例えば、コンビニでパンを買って50万円札を出したとして、お釣りの出せるコンビニが何軒あるであろうか?たいていのコンビニの店長は50万円札での取引を拒否し、銀行でもっと細かい紙幣と交換してくれというに違いないであろう。
 
 だから、このような高額の銀行券はもっぱら諸取引の決済に使われるのみで、取引の諸支払に使われたあとは流通せずに、すぐに銀行に環流することになる。『資本論』の1巻でも、支払い手段としての貨幣の説明で、マルクスは、支払手段としての銀行券は、取引の決済という“特殊な機能”を果たしたら、すぐに、銀行に環流してくるというフラートンの著書を引用したあとで、「理解を助けるために付け加えれば、スコットランドでは、フラートンの著書が出た当時は、預金にたいして、小切手ではなく、銀行券だけが発行されたのである」といっている。
 
 では、マルクス主義同志会がこのように、流通手段としての貨幣(強制通用力がある国家紙幣)と支払手段としての貨幣(ある金額の支払いを約束するだけの“信用貨幣”としての銀行券)を混同することによって、どんな不都合な点が生じるのであろうか?
 
 両者の混同から直接的に出てくることは、信用の膨張と“通貨”の膨張を直接的に同一視するという非常に愚かしい見解であり、これはわれらの『海つばめ』(マルクス主義同志会の機関紙)の十八番(おはこ)である。
 
 この見解は、リカードの貨幣論を受けついだ“通貨学派”の主張でもある。彼ら“通貨学派”は物価が上がるのは、通貨が多すぎるために通貨の価値が下落したのであると考え、物価が下がるのは通貨が少ないために、貨幣価値が上がったためである、と主張する。マルクスはこのような“通貨学派”の主張を「無知と完全な事実誤認」であるというのだが、マルクス主義同志会はこの“通貨学派”の主張に固執し続けている。
 
 だから、マルクス主義同志会の諸君には、金利の下落→銀行貸し出しの増加→過剰流動性の発生(遊休貨幣資本の増大)→金融・資本・商品市場の活況→金融商品の見かけ上の“価格”の上昇という、信用が過大に膨張してバブルが発生する過程が、通貨を過剰に発行したためにインフレになったように見えるのである。  
 
 もちろん、信用の過度の膨張はそれ自体として直接的にインフレの原因ではないが、それはやがてインフレにつながらざるをえない側面をもっている。すなわち、例えば株で儲けた人が株の一部を処分して高級外車を買うとか、株で儲けた株屋が、利益確定売りをして得たキャピタルゲインで新しい社屋の建築を建設会社に発注するとかいうような場合、それまで貨幣資本として主に資本市場で機能していた日銀信用は取り崩されて、貨幣として流通に入っていくのであるが、この場合にも、結果として、日銀が低金利を利用して通貨を過剰発行したということになるため、インフレにつながっていく。
 
 しかしそれでも、信用の膨張と“通貨”の膨張は区別されなければならないであろう。というのは、信用の膨張、すなわち、支払約束の増加は必ずしも実体経済を反映したものではないからだ。特に、膨大な量の遊休貨幣資本が流入して、金融・資本・商品市場が活況を呈しているときには、海のものとも山のものとも分からない債権や信用が高金利であるとか、値上がりによってキャピタルゲインを期待できるという理由だけで売買され、持ち手を転々と変えて流通するのであるが、当然こういう信用のなかには、詐欺まがいのものや、架空の取引や、実現不可能な“果実”を約束したものも含まれてくることになる。しかし、こういったものは支払期限が来れば、その正体がたちまち明らかになり、信用そのものが収縮してしまうことになる。
 
 マルクスの時代には、これらの信用は商業手形や銀行手形によって構成されていたが、現在では、より重層的な信用の上に信用を築き上げるようなことがおこなわれている。
 
 今回のアメリカのサブプライムローンでも、住宅ローン会社は「ノーインカム(無収入)でもノージョブ(無職)でもOKだ」ということで、相当むちゃくちゃな融資をやっていたことが今になって明らかにされているが、このような支払い能力のない人の債務はいつか行き詰まる(信用が崩れる)のは目に見えているが、それが証券化されて、その債務をもとに、さらにCP(コマーシャル・ペーパー)や投資信託が設置されていくということになれば1カ所で生じた、信用不安は際限もなく拡大していかざるをえない。(アメリカの担保つきCP市場は今日に至っても機能マヒの状態である)
 
 このような信用の収縮が昔のように恐慌にならない大きな原因は、各国の中央銀行が公的な信用を拡大して、収縮した信用を補完している(中央銀行がその信用力を行使して、市場に紙幣を供給することはそれ自体としてインフレの原因になる)からであるが、“通貨学派”の理論からはこれとはまったく正反対の政策が出てくる。
 
 彼ら“通貨学派”によれば、金融・資本・商品市場が活況を呈しているときはインフレすなわち、貨幣が過剰発行されているのだから、インフレを収縮させるために金利を上げて、銀行は貸し出しを減少させる必要があるというのである。(彼ら“通貨学派”はそのための理論的な粉飾として、好況によって金の国外流出が起こっているから、金の流出にともなって流通から銀行券を引き上げなければならないと主張していた。)
 
 マルクスの時代には、“通貨学派”のこのような主張は「ピール条例」として法制化されていたが、この活況から恐慌にいたる時期に市場から信用を強制的に引き上げさせることは恐慌を誘発させるとともに、信用が欠乏して貨幣飢饉が起きかけているときに流通から貨幣を引き上げることは恐慌を激化させる結果しかもたらさなかったので、彼らの主張は次第に説得力を失っていった。
 
 それで、現在では“通貨学派”はほとんど姿を消したし、通貨学派の後継者を辞任しているマネタリズムもこのような主張をしていない。ただわれらのマルクス主義同志会のみがリカードに殉じて、このような見解を死守しているのみである。(アメリカのレーガンの時代、“レーガノミックス”と呼ばれたマネタリズムは、一方で減税や大軍拡によってインフレ的な政策を採用するとともに、他方ではそのインフレを抑制するために高金利政策を採用していたが、この高金利はドル高をもたらし、むしろアメリカ国内の産業の疲弊と空洞化を促進させたので、現在ではこの理論はあまり人気がない。現在のマネタリズムは、ケインズ主義的に修正されたマネタリズムである。)
 
 

自壊する安倍内閣

2007-09-04 21:01:21 | 政治
 誕生したばかりの安部晋三改造内閣の農林水産大臣が、補助金の不正受給で辞任をした。
 
 「かくすれば、かくなるものと知りつつも、やむにやまれぬ安倍内閣」などと笑ってばかりはいられない。「政治とカネ」の問題で参議院選挙に敗北したと総括しながら、クリーンな内閣一つつくれないというのは、重大な問題だ。「わが党は悪人ばかりで、善人を見つけ出すことがむずかしい」というのであれば、そのような団体が政党を名乗り、政権の座にあること自体がおかしなことといわなければならない。
 
 これはもう右とか左とかいう政治や政策の問題ではなくて、それ以前の問題であり、政権を運営する能力、すなわち、統治能力の問題であろう。その点からいうなら、まともな内閣を構成できない安部晋三政権はすでに統治能力を喪失しているといわなければならないだろう。政権党がしかるべき部署にしかるべき人を配置することによって、官僚機構を統治して、自らの政治を行っていくから、政党政治であるが、その一番簡単なことすら満足にできないというのでは、何もできないと言っているのとおなじであろう。
 
 どうしてこうなってしまったのかはわれわれの知るところではないし、また知る必要もないことであるが、起きている結果を見れば、安部晋三はすでに単なる政権の看板にすぎなかったものが、もう看板としても使えないのではないか?という疑念があちこちから吹き出しているのが現状だ。
 
 しかし、ここで問題は、看板をかえるにしても、その代えるべき看板がまだないということである。それは麻生派にしても、津島派にしても、谷垣派にしても、小沢民主党にしても同じである。だれもこんなにはやく看板が腐るなどとは思ってもいなかっただけに、どこも政権交代の準備ができていないのが実情である。
 
 だから秋の臨時国会へ向けて、政治はかなり流動化していく可能性があり、解散総選挙へ向けた動きも出てくるであろう。      

分裂よりも溶解を選択

2007-09-01 23:58:57 | 政治
 去就が注目されている“小泉派”を麻生幹事長が挑発的に揺さぶっている。いわく、平沼赳夫を無条件で復党させてもよい、いわく、選挙区の候補者は当選しそうな人を選ぶべきであり、“小泉チルドレン”だからといって特別扱いしない等々。
 
 これだけ突っついても動かないところを見ると、ひょっとしたら死んだふりをしているのではなく、本当に、突然、権力を失ったショックのあまり仮死状態にあるのかも知れない。
 
 もともと7年間も権力の中枢にあって甘い汁を吸い続けていた連中だから、ぎりぎりの権力闘争を闘うというのは無理であったのであろう。多くの政治家が立たされたであろう政治家としての別れ道で、損得を度外視して、決然として立つという道を選択できなかったところに小泉純一郎の政治家としてのインチキ性が端的に表れている。
 
 “小泉派”が闘うべき時を逃し、なすすべもなく時間を空費しているうちに、自民党も民主党も着々と彼ら抜きの体制を固めつつある。こうなってしまえば彼らはもう社会にとっても、自民党にとっても用なしであり、社会的に無用となった政治勢力は氷山が大海で次第に溶けていくように自然消滅の道をたどるしかない。
 
 そして時代は、すでに昔懐かしい「ばらまき」政治復活の時代に入っており、各省庁の概算要求も膨らんでいる。50兆円程度の収入(税収)しかないのに、85兆円もの予算を組もうとするのは、正気の沙汰ではないと言おうものなら、それこそ、それなら消費税を上げればいいじゃないか、という声が与野党を問わず聞こえてきそうな昨今である。
 
 もしこの7年あまりの小泉支配に意味があったとしたら、それは彼ら“小泉派”が財政危機という日本資本主義が抱えている根本的な矛盾を、彼らなりに真正面から捕らえており、言葉の上だけでも、旧態依然のことをやっていれば、日本資本主義は早晩行き詰まるであろうということを認めていたからであろう。
 
 そうであるなら、昔懐かしい「ばらまき」政治復活の時代は、現実に日本の財政を破綻に導いていくのであろう。
 
    

自民党は分裂含み

2007-08-29 00:29:21 | 政治
 内閣改造の日、閣僚として生き残れなかった小池百合子氏は、「アイ・シャル・リターン」という言葉を残して去っていった。
 
 もちろんこの言葉は、1942年、日本軍国主義に敗北して、フィリピンを去らなければならなくなったマッカーサーが残した言葉である。
 
 はて?現代日本における「マニラ攻略戦」は、いつ、どこで、誰と誰のあいだでおこなわれたのだろうか?
 
 これも同じ日の出来事であるが、新しく自民党の幹事長に就任した麻生太郎氏は、「誰かが自民党をぶっ壊すといって、自民党はみごとにぶっ壊れてしまったので、新しく再生しなければならない」といって、この内閣の旗印の一つが“反小泉”であることを隠さなかった。
 
 つい半月前までは、今度の内閣改造は小泉主導でおこなわれるものと見られていただけに、この変わりようには驚くほかはない。
 
 そしてそれと同時に、改革派を自称しているが、右翼とも、ファシストとも区別できないような連中が閣内や党内の役職からあいついで姿を消すことになった。かろうじて残った石原政調会長は石原慎太郎が反乱軍に合流するのを防止するための人質であり、太田弘子経済財政担当相は、財界に対して、政策転換を隠蔽するための“イチジクの葉っぱ”である。
 
 その代わり官邸に乗り込んできたのは、“古き、悪き自民党”の面々であり、派閥の大ボス、小ボス連中である。たしかにこれは占領軍であり、政府と党の中枢は再び“古き、悪き自民党”によって占領されたようである。(彼らはもともと自民党の支配者たちであるから、占領軍という言い方は適切ではないのだろうが、少なくとも小泉ー安倍政権下では日陰者になっていたという点では、彼らにとって党と政府は再占領しなければならない対象ではあったであろう。)
 
 では、水面下で、隠然と、多くの人々に隠されて行われた自民党内の党内闘争に敗れた、改革派を自称しているが、右翼とも、ファシストとも区別できないような連中、実質的にブルジョア民主主義の枠内からすでに脱落してしまっている連中は今後どうするのか?
 
 党と政府の中枢を“統制派”によって握られてしまったのなら、かつての「2・26事件」の青年将校たちのように、離党覚悟で決起するほかあるまい。
 
 その点で、気になるのは、これら政権から去っていく“青年将校”諸氏の笑顔だ、安部晋三氏も、中川昭一氏も、高市早苗氏も、小池百合子氏も、みなさん作り笑いではない安堵の笑顔がある。(塩崎氏の笑顔は、残念ながら、ようやく面倒な仕事から解放されたという笑顔であり、反乱を決意した笑顔ではない。)
 
 こういうことはいいたくないが、社労党の大分裂の直前の“反乱軍”の皆さんもやけに明るかった。だから大げんかして別れた後で、もう会うことがなくなっても、心に残っているのは皆さんの笑っている顔だけだから、あまりうらむ気にもならない。

 それから、これは後から思い出したことなのだが、昔、写真週刊誌で、自民党幹事長として渡米した小沢一郎氏が、ポトマック川の桜を見て満面の笑みを見せている記事があった。小沢一郎氏もこの直後、決起して自民党を去っている。
 
 笑って別れるというのは、これまでの生き方を過去のものとして決然と別れる、いちばん良い方法なのだろう。     

小泉純一郎を参議院へ証人喚問せよ

2007-08-23 02:57:37 | 政治
 イラクに派遣された自衛隊の隊長氏(この人は今回の参議院選挙で自民党の比例区で当選した)が、駆けつけ警護(攻撃された友好国の応援に駆けつけて戦闘行為に参加すること)をしようとしたことが問題となっている。

 ここで問題となるのは、刑法第81条の「外国に通牒して日本国に対して武力を行使するに至らしめたるものは死刑に処す」という外患誘致罪である。

 通牒というのは意志の連絡であり、単に口約束であってもそれは通牒したということになる。

 この81条は国外で犯された犯罪についても処罰することになっている。

 また外国というのは、外国の政府、軍隊、外交使節などの公的な機関をさしており、例えば、海外に派遣された自衛隊の現地部隊と現地の外国部隊との間でそのような約束がかわされ、そのような行為が行われたということでも同罪は成立する。

 さらに、別にアルカイダに頼んで日本の自衛隊を攻撃してくれといったわけではないといったところで、この法律は「外患誘致」、すなわち、日本が武力攻撃を受け、また武力行使をしなければならないような情況をつくりだした者を処罰する規定なので、現に戦闘が行われている場所に、武装した日本の軍事力を投入すれば、敵対勢力から攻撃されることは分かっており、また投入しようとする者も戦闘になることを認識して、あえてそのような行為を行うというのであれば、それは外国の武装勢力をして「日本国に対して武力を行使するに至らしめる」明確な意図があったということであろう。

 もちろん現実にはそのような行為はなかったのであるから、罪に問うといっても未遂犯でしかない。しかしいくら未遂犯といっても、破壊活動防止法の38条では「外患誘致を実行させる目的をもって、その実行の正当性または必要性を主張した文書・図画を印刷、頒布し、または公然掲示し、あるいは無線通信、有線放送した者は、5年以下の懲役または禁固に処せられる。」と規定している。

 だからテレビで愚にもつかないことをペラペラとしゃべるというだけでも破防法には抵触する。

 昔の帝国陸軍でさえも、現地の出先部隊が許可なく外国の武装勢力と戦闘行為になるおそれのある行為をとることを厳しく処罰していた。(ということは、満州事変にしろ、露溝橋事件にしろ、偶発的なものではなく、戦闘に入るにあたって軍の上層部の承諾があったということを意味している。)

 それにもかかわらず新日本軍(自衛隊)の指揮官はあまりにも軽はずみである。戦闘が起きるかもしれないが、その時は自分が罪に服すればいいのだから、それでもいいや、などというふざけた人間を海外の武装部隊の指揮官として派兵した者の責任は、当然、追及されるべきだろう。

 当時、首相であった小泉純一郎は国会で、自衛隊がいるところが非武装地域である、すなわち、自衛隊が戦闘行為に巻き込まれることはありえないという説明をしていたが、派兵された現地軍の指揮官が、イラクで自衛隊が自らの意志で戦闘行為に参加することがあるかもしれないが、それはそれでいい、という認識を持っていたとするなら、ことは重大だ。

 なぜなら自衛隊はイラクでは戦闘行為を行わないという前提で派遣されており、これがもしそうでなかったとするなら小泉純一郎は日本国民に対して、許し難いウソをついていたことになるからである。

 そして、もしこれが本当に自衛隊の指揮官の独断専行であったとするなら、自衛隊の上級士官を全員解雇するなどして、自衛隊の指揮系統をそのものを、一から立て直す必要がある。

 国民と政府の意思に、従う意志のない武装勢力は日本では存在そのものが許されないのだということをはっきりと、事実でもって自衛隊に対してしめす必要がある。

 いずれにせよ、この自衛隊の元現地軍指揮官の戦闘行為になってもいいやという意識は、果たしてどこから生まれたのか、日本国政府は自衛隊をイラクに派兵するにあたってどのような教育をし、どのような指針を与えたのか、明確にする必要がある。

 そのためには、事実関係を明確にする必要があり、事実関係を明確にするには小泉純一郎の国会での証人喚問はどうしても必要だ。
 

「泡沫政党ウォッチャー」という方へ

2007-08-20 00:13:58 | 政治
 「泡沫政党ウォッチャー」という方が、日本共産党が、どうの、こうの、というコメントを書いています。
 
 最初に、「泡沫政党」という概念自体が、現行の選挙制度のもとでは成立し得ない概念です。
 
 選挙の供託金が100万円程度であれば、いわゆる「泡沫政党」も選挙に参加できたでしょうが、300万円、600万円、ということになれば、選挙に政党として立候補するだけで3000万円、6000万円かかります。
 
 つまり現在の日本の選挙制度は「泡沫政党」なるものを選挙戦から閉め出して、絶滅するためのものになっており、現実の日本の政治もそのようなものとして進行しました。
 
 したがって「泡沫政党ウォッチャー」という人が何をウォッチしているのか、いまいち分かりません。むしろ、本当に「泡沫政党」をウォッチしたいというのであれば、スコップとシャベル、ツルハシを持って地表ではなく地面の中を探すべきでしょう。
 
 ですから、「泡沫政党」であった社会主義労働者党も選挙闘争に参加できなくなって絶滅しました。われわれはこれをブルジョア、小ブルジョア諸政党との政治闘争に敗北した結果としてとらえています。(一部で言われているように、われわれは当選者を出せなかったから解党したのではなく、貧乏政党であるわれわれは、金欠のために、また選挙戦を闘うだけの組織力もなくなったので、公然たる政治闘争である国政選挙に参加できなくなったので解党したのです。)
 
 そしてわれわれ赤星マルクス研究会はその社会主義労働者党の燃え尽きた灰のなかから生まれでたのですが、われわれ自身は自分たちのことをもう「社会主義労働者党再建委員会」とは考えていません。一時期はそういうことを真剣に考えたこともありましたが、すぐにそういう考えは放棄しました。ですから、われわれは社労党の闘いを継承する団体であるとは考えていませんし、かつての社労党がやったような選挙闘争はしないだろうと思います。(われわれは相当な無理をして選挙を行っていました)むしろ、われわれが行うとしたら、選挙闘争を通じて党を建設するのではなく、党を建設して選挙を闘うというスタイルになると思います。
 
 ところで、この「泡沫政党ウォッチャー」氏がよくわからないのは、この人もまた共産党とわれわれを結びつけて何かをいいたがっているからです。
 
 深化の系統からいっても、われわれと共産党を結びつけるものは何もありません。社会主義労働者党自体が、社会党、共産党、新左翼とは区別された、まったく別のところで独自に発展してきた政党(全国社研→マルクス主義労働者同盟→社会主義労働者党)ですから、その死骸の中から生まれたわれわれが、いわゆる「左翼」とか「新左翼」とか呼ばれている人たちと何らかの関係にあるということはありえないことです。「トンビがタカを生んだ」という話ではなく、もともと違うものから、もっと違うものが生まれたという話なのです。だからわれわれは自分たちのことを異端者の中の異端者になったと言っているのです。
 
 異端者の中の異端者に正教のことを聞かれても、正直言って答えようがないですよ。われわれとしては、わかりませんとか、共産党の人に直接聞かれたらいかがですかとか、われわれは現在、他党派とことを構えるつもりはありませんからコメントを差し控えますとかしか言えません。悪しからず。
  

「そまん」さんへ

2007-08-18 02:04:40 | 政治
 われわれは、しばらくの間、他の左翼的な政治組織(日本共産党、中核派、革マル派等々)とは事を構える、つまり、対立するつもりはないといいました。
 
 同じように、われわれは、キリスト教徒とも、イスラム教徒とも、仏教徒、その他のもろもろの宗教ともことを構えるつもりはありません。
 
 これはわれわれが、自分たちの仕事を、マルクスやレーニンの思想を広く人々に知ってもらうという仕事に限定しているためで、このような限定はわれわれが真の意味での政治党派にはまだなっていないし、そのようなものになるにはかなりの年月が必要であると自覚しているためです。
 
 もちろん、マルクスの思想は唯物論ですから、存在するものは物質とその運動だけで、意識、思考と呼ばれるものは物質の働き(人間の脳髄の働き)によって生まれたものであるという観点に立つなら、意識や思考の産物である神とか仏とか、幽霊とか、お化けといったものは人間がつくりだしたものということになります。
 
 しかし、同時に、マルクスは宗教は「私事」であるとも言っています。イデオロギーや思想、宗教といったものは社会的な意識形態であり、一人の人間の頭の中だけではなく、多くの人々の頭の中に住んでいるものです。
 
 日本でも毎年、何百万人もの労働者が正月に神社に初詣に出かけ、何百万人もの労働者がお葬式という仏教儀式に参加し、何百万人という労働者がキリスト教式の結婚式に参加しています。
 
 お前ら、何やってんだ!という言い方も可能でしょうが、労働者がよかれと思ってやっており、宗教を信じることによってささやかな幸福を感じているというのであれば、別に目くじらを立てるようなことでもないと思います。
 
 オウム真理教だとか、創価学会とか、靖国神社とか、勝共連合とかのような、存在そのものが反社会的であったり、人々に実質的な害を与えているとか、政治的にも反動的な行為を行っているなど労働者にとって見逃すことができない悪質な宗教団体に対しては、われわれは断固として闘いますが、そうでなければ、何も言うことはないと思います。
 
 また「超越者」ということですけど、現在進行している、地球の温暖化にしても、世界的な株安にしても、それは人々の人智を越えたものとして、人々がそれを支配するものではなく、それに支配されるものとして現れていますが、これはつまるところ人間がまだ社会を支配しておらず、逆に社会に支配されていることを表しているのではないでしょうか。
 
 特に資本主義的生産様式の特有な性格である生産の無政府性、すなわち、生産が誰によっても統御されていないという現実、たえざる競争によって生産が無秩序に増大していくという現実は、社会の矛盾が誰にも統御できない災いとして現象するしかないことを教えています。
 
 だからこそわれわれは、労働者が生産手段を共有することによって、生産をわがものとし、生産をわがものにすることによって社会をわがものとする、すなわち、盲目的な力として、避けられない災害として、人間に対峙している「超越者」を「超越者」でなくすことが可能であると信じていますし、多くの人々のなかでそのような考えはますます広がっていくものであると考えています。
 
 つまり、われわれは「そまん」さんがいう「超越者」、つまり、人間の意志と能力を越えたもの、圧倒的な力で人間に対峙し、人々の心を支配し命令するもの、人間に許されるのはただ従うだけであるような盲目的な力は確かに存在すると考えています。これを「神」と呼ぼうが、スピノザのようにフォルク(運命、宿命)と呼ぼうが、法則もしくは必然性と呼ぼうが、それは単なる名前の違いにすぎないと考えています。  

KY内閣のKY大臣

2007-08-11 21:00:09 | 政治
 労働者にとってKYといえば(危険予知活動)のことだが、最近の政界では、K(空気が)Y(読めない)というのだそうである。
 
 空気が読めない、すなわち、自分の置かれている状況がまるで分かっていないというのは安部晋三政権を評するのに適切な言葉ではあろう。
 
 そのKY内閣で、KYといえば、言わずとしれたK(小池)Y(百合子)氏のことだが、どうやらこのKY氏も、相当な、K(空気が)Y(読めない)人であるらしい。それに危険予知能力にも疑問符がつきそうだ。
 
 ところで、このKY氏は、いくつかの意味で“時の人”になりつつある。
 
 一つは、今秋のテロ特措法の延長問題の担当大臣という意味であるが、この点ではどうも、やる気はまったくないらしい。アメリカのシーファー大使でさえ、アメリカの立場を説明したいと民主党の小沢氏のもとを訪れているのに、このKY防衛相は、アメリカで参議院選挙で大敗し、第一党の地位を奪われた野党の党首を「時計が止まっている」などと嘲笑しているのである。
 
 どうやらテロ特措法はこのKY防衛相にとって、延長されなくて廃案になってもいい法案のようであるが、そもそも、KY氏にとって、防衛大臣というポスト自体がすでにどうでもいいもののようである。
 
 つまり、KY氏の心はすでに大日本帝国の外務大臣であり、復活した日本軍国主義の威光を全世界に示すために、一緒に横暴な支那(中国)を懲らしめて、中華人民共和国を日本とアメリカ合衆国共同の占領地としませんか?などとライス氏に持ちかけ、あまり刺激的なことはいわない方がいいとたしなめられている。
 
 ところで、どうしてKY氏は、自分はもうすぐ大日本帝国の外務大臣になるということを勝手に思いこむことができたのだろうか?もちろん、それはKY内閣の長であるKY首相の何らかのサジェスチョン(示唆)があったからであろう。
 
 同じような示唆は、自由民主党の幹事長のポストについても、すでに麻生太郎氏の名前が取りざたされている。
 
 ところでこのKY首相は、先の参議院選挙に大敗して、「人心一新」を掲げてこの難局を乗り切ろうという人である。「人心一新」というからには、内閣が変わったと人々に思わせる必要があるが、出てくる名前は皆さん「昔の名前で出ています」という人ばかりであり、言っていること、やっていることも昔のままだ。
 
 特にKY防衛相は人の脳内時計の進み具合を心配する前に、自分の脳内時計の進み具合を心配した方がよくはないだろうか?日本の国民は小泉時代から足かけ7年もこのような見たくもない自画自賛の田舎芝居を見せられて、いいかげんにうんざりして、「お前たちの顔なんぞは、見たくもないから、どこかへ失せろ」といっているのに、このざまではどうしょうもないではないではないか。
 
 そういう点では、第二次KY内閣は、生まれる前にもう半分ぐらい死んでいる状態である。そして、組閣の日を待たずして自由民主党の大分裂へのカウントダウンは開始されたと見るべきであろう。
 
 やはり、今年の秋には解散総選挙がありそうだ。
 
    

朝日新聞のヘンな「民主集中制」批判

2007-08-08 02:01:00 | 政治
 いつものことながら、賢いのか賢くないのかよくわからないわれらの「朝日新聞」が、参議院選挙に“惨敗した”日本共産党に「民主集中制」を捨てよ、とお説教をたれている。
 
 しかし、これもいつものことだが、「朝日新聞」がいっていることはまったく筋が通らないし、安部晋三氏の演説のように何が言いたいのかさえ分からない。これは評論を書いている立花隆氏とその解説をしている「朝日新聞」の編集者のあいだで「民主集中制」についての考え方がぜんぜん違っているからだ。だから彼ら(「朝日新聞」)のいっていることはまったくトンチンカンなものになっているのである。
 
 そこで今回はこの問題について考えたいのだが、その前に“共産党の惨敗”について、少しふれておきたい。
 
 今回の参議院選挙で共産党が苦戦するであろうということは、われわれが予測していたとおりである。またわれわれは、共産党の選挙戦の闘い方がうまくないということを、選挙中に何度も忠告していた。
 
 しかし、どのように工夫してもやはり、今回の参議院選挙では彼らの苦戦はまぬがれなかったであろう。
 
 というのは、今回の選挙で問題となったのは、安部自民党をいかにして追いつめるのかということであり、こういう観点から、自分の選挙権が“死票”になることを恐れて、多くの労働者がよりましな野党の候補に投票したからである。
 
 こういう潮の流れに抗して船を前に進めるには、強固な党派性が必要なのだが、そういうことは現在の共産党には望むべくもないことであるし、日本のブルジョア的、小ブルジョア的な政治潮流はそれを望まないからこそ、ここで共産党を叩いておこうと共産党の攻撃に必死になっているのであろう。
 
 それに日本のブルジョア的、小ブルジョア的な政治潮流の諸君たちは、どういうわけか日本共産党にわれわれ赤星マルクス研究会を重ね合わせて見ている。(特に最近の朝日系列の新聞やテレビはこの点で露骨である)彼らにはわれわれが馬にまたがって全軍に前進の合図をするナポレオンに見えるのだろうか?「将を射んと欲すれば、まず馬を射よ」とばかりに、彼らが勝手にわれわれの“お馬さん”であると思っている日本共産党に一斉射撃を加えている。(共産党がわれわれ赤星マルクス研究会の“お馬さん”などというのは共産党に対して、大変失礼な話であるし、われわれが現代のナポレオンであるという見立てもまったくまちがっている。われわれは現在のわれわれが置かれている状況のもとではそういう役割は引き受けないと何度も明言している。)
 
 われわれ赤星マルクス研究会にマルクス主義を見て、日本共産党に赤星マルクス研究会を見ている彼らは、つまるところ何重もの偏光ガラスを経てものごとを見ているのであり、知らないうちに現実からかけ離れている幻影を現実と錯覚しているのである。
 
 こういったブルジョア的、小ブルジョア的な政治潮流は、われわれの活動に深刻な憎悪と危機感を抱きながらも、不思議なことに、われわれの名前を口にすることすら、存在を認めることすら、できないでいる。そうであるなら何も言わなければいいものを、その代わりにわれわれに見立てて、われわれとはまったく関係のない政治団体をわれわれに見立てて攻撃するから、ますます他の左翼団体のなかで、赤星マルクス研究会は、存在自体が近所迷惑という社会的通念が形成されてしまうことになるのである。こういうことはいいかげんにやめてほしい。
 
 たしかにわれわれは自らを異端者の中の異端者であると規定しているが、同時に、当面のあいだ、他の左翼団体と事を構える気持ちはまったくないことも明言している。もちろん、左翼運動全体にとって不利益なこと、また、労働者階級の利益に反することについては、それが他の左翼団体であっても、われわれは言うべきことを言うであろうし、現に言っているが、それはけっして彼らに敵対するためではないのである。
 
 さて、われらの「朝日新聞」の「民主集中制」であるが、「朝日新聞」は「民主集中制」の定義として5つあげている。
 
① 党の意志決定は、民主的な議論をつくし、最終的には多数決で決める。
 
② 決定されたことは、みんなで実行にあたる。行動の統一は、国民に対する公党の責任である。
 
③ すべての指導機関は選挙によってつくられる。
 
④ 党内に派閥、分派はつくらない。
 
⑤ 意見が違うことによって、組織的な排除を行ってはならない。
 
 このうち、①から③までは、民主主義的な政党としては当たり前のことだ。われらの「朝日新聞」は、この組織原則の何が気に入らないというのであろうか?このような民主主義的な原則をうち立てて、それにしたがって政党を運営しようということ自体がまちがっているというのであれば、こういう議論全体がまったくバカげているとしかいいようがない。
 
 また④についても、党内に派閥やら分派が存在する政党が果たしてよい政党であろうか?われらの「朝日新聞」は、常日頃、自民党には派閥があるから前近代的な政党だと言い、民主党には分派があって、分派によって見解がまったく異なるから、民主党は政党として体をなしていないなどと誹謗中傷している。その「朝日新聞」が、共産党の「民主集中制」は「党内で派閥や分派を禁止している」からけしからんとしたり顔をしてお説教をたれるのである。
 
 党内に派閥や分派をつくることはけしからんことだし、つくらないことはもっといけないことであるというのであれば、よりよい政党になろうとする政党はどうすればいいのか?こういう点を「朝日新聞」ははっきりと説明する必要がある。
 
 こういう「分派の禁止」の規定は次の⑤とあわせるとおかしな規定になる。つまり、共産党は党内に異なる見解を持った党員が存在することは認めながら、その党員が集合して一定の潮流を形成することを禁止しているのである。こういう意見の異なる党員を飼い殺しにする党規則もおかしなことだが、われらの「朝日新聞」は、「意見が違うことによって、組織的な排除を行ってはならない」という規定も民主集中制なのだから、捨てなければならないというのであるからもっとバカげた話となる。これでは「朝日新聞」の諸君は意見の違う党員を反革命としてチェカ(全ロシア非常委員会)や革命裁判所が銃殺刑に処することに賛成なのか?という話になる。「朝日新聞」はいつのまにかスターリンの独裁政治の翼賛新聞になってしまっているのである。
 
 われわれはこの④と⑤は逆でなければならないと考えている。つまり、党内に見解の違う党員がいて、分派なり、派閥をつくるのは勝手だが、許容される見解の相違にも限界があり、党の許容限度を超える党員に対して、組織的な排除をすることを必ずしも否定しないという立場である。
 
 これは政党がある政治的な立場を同じくする人々によって構成されるものである以上避けられないことではないだろうか?
 
 例えば、われわれ赤星マルクス研究会は、資本主義的生産様式の揚棄をめざしているが、会員のなかで、資本主義的生産様式の廃棄という過激な主張では誰もついてこない、資本主義の枠内での改良でいいのではないかという人がいたとすれば、われわれは迷うことなく答えるだろう。民主社会では人は政党を選択する権利があり、各人が自由な意志で自らの所属する政党を選ぶことができるし、自らの選択が間違えたと考えたならば、自由な意志で政党を離脱することもできるのだから、君にあった政党を再度選択し直したらどうかと。
 
 こういう党員が一人ではなく、何人もいて分派を結成したとしても同じである。われわれは彼らと誠実に議論し、彼らを説得しようと務めるだろうが、どうしても合意に達しなければ、彼らに党外に出ることを推奨し、それでも分かってもらえなければ、決議をもって彼らを党外の人とするだろう。また不幸にしてわれわれが決議に敗れれば、われわれは喜んで党外に出て、新しい政治組織を作るであろう。
 
 こういうことを否定できると考える人は事実上「結社の自由」を否定しているのである。
 
 「朝日新聞」は政党の責任を云々しながら、こういう当たり前のことを否定するのであるから、ますますわけが分からないのである。
 
 例えば、赤星マルクス研究会のなかで、「うちの指導部は口先だけで行動しないからダメだ」というグループが登場し、赤星マルクス研究会(革命派)などという分派をつくって、われわれ赤星マルクス研究会の名前で無差別な爆弾テロなどを始めたらどうするのか?「朝日新聞」は赤星マルクス研究会と赤星マルクス研究会(革命派)をちゃんと区別してくれるであろうか?
 
 そうではないだろう。これ幸いとばかりに、赤星マルクス研究会はテロリストに転落したとして、連日、われわれについてあることないこと書きまくるのではないか?
 
 政党が社会に対して責任を持つ集団であるなら、政党の指導部のコントロールがおよばない「党外党」のような派閥や分派を認めることができないのは当然であろう。彼らはわれわれの言うことを聞かないと決めている集団なのだから、われわれは彼らの行動に責任を負うことができない。そして自分たちがその行動に対して責任を負うことができないと考えている集団をそのまま党内に残していることこそ、実際には社会的に無責任な行為ではなかろうか?
 
 結局、われらの「朝日新聞」は、「民主集中制」と呼ばれる制度について、何も知ってはいないで、民主集中制と社会主義を同一視して誹謗中傷しているだけではないか?
 
 現実には、「民主集中制」は「朝日新聞」があげた近代的な政党の原則にではなく、その原則を履行する細部の規則にあらわれているのである。「悪魔は細部に宿る」という言葉はここでも正しいものとして現れている。
 
 組織原則で言えば、ピラミッド型の組織が悪いのではなく、このピラミッド型の組織のなかで、上部機関が下部機関に対して広汎で専一的な「指導権」を持っているというという規則に現れる。
 
 例えば、③の「すべての指導機関は選挙によってつくられる」という規定があっても、この規定よりも上部機関の下部機関の「指導権」が優越されれば、③の規定はまったく無意味なものになるのだし、事実、多くの左翼団体でそうなっている。
 
 つまり、政党の下部機関の指導部は、その下部機関の所属党員の無記名秘密投票で選出されるのが望ましいのだが、上部機関がある特定の党員を指導部に入れるために、根回しをしたり、ある党員が指導部に入ることを排除するために圧力をかけたり、秘密投票をやめて、拍手による信任というインチキなやり方を採用したり、なかには下部党員が選挙で自分たちの指導部を選出すること自体が無意味だと公言する某左翼団体(○共同○核派)のような非常識なところまでまで出てきている。
 
 これはわれわれの社会主義労働者党のなかでも行われていたことで、社労党の中央委員や地方組織の責任者は党委員長であった林紘義氏のお気に入りであることが第一の条件であった。
 
 これは実に笑えることなのだが、われわれの「大分裂時代」に、“反乱軍”の中核を形成していたのは、こういう林紘義氏のお気に入り連中、すなわち、当時の現中央委員や前中央委員、旧中央委員諸君たちであった。彼らは新しいもの好きの林紘義氏の個人的な抜擢により、さほど党活動の経験もないのに地方組織の指導をまかされたり、党の中央指導部に引き上げられ、自分たちが何か特別な人間になったかのような錯覚に陥り、やがて飽きっぽい林紘義氏に飽きられて捨てられる(党の指導的な地位から外される)と林紘義氏に個人的な恨みを持ち、党を分裂させて自分たちの王国を建設しようと画策したのである。(こういう点で林紘義氏が大分裂の種をまいたという“反乱軍”の主張はそれなりに正当であったのかもしれない)
 
 またこういうのもある。これはレーニンの時代の非合法活動の名残りであるが、分派の禁止を確保する規則として、「横の連絡の禁止」というのもある。つまり、社労党名古屋支部と社労党大阪支部が直接連絡を取り合って合同で学習会をしたり、どこかにピクニックに行くということを禁止する規定である。
 
 この規定は、社会主義労働者党にも存在していた。林紘義氏の経済学がおかしいと最初に言い出したのは、兵庫のS中央委員だったが、このS中央委員に対して党中央は彼を中央委員から外すだけではなく、党中央の許可なく他の地方組織の党員に「電子メール」を送った罪で彼を処分した。結局、彼は自ら党を去っていったが、林紘義氏は彼に「分派活動」のレッテルを貼りたかったのである。
 
 そしてこれも笑い話なのだが、われわれの「大分裂時代」に、“反乱軍”はこの規定を最大限利用した。つまり社労党の善良な一般党員はこの「横の連絡の禁止」という党規定を忠実に守っていたが、“反乱軍”は最初から党を分裂させることが目的だったので、この規定を無視して、横の連絡を取り合い、短期間のうちに全国の各組織の不満分子を統合して大きな勢力になっていったが、林紘義氏の中央指導部はかなり後になるまで、“反乱軍”はもとを正せば自分の子飼いだから、説得できるだろうと考えて、社労党に深刻な亀裂が走っており、党は分裂状態であることを一般党員に公表しなかった。
 
 したがって、一般党員が党内分派の存在を知ったときには、彼らはすでに全国的な規模での“反乱軍”となっており、事態は大火となっていたのである。
 
 結局、このような党規定、つまりわれわれが「民主集中制」と呼んでいる、党の上級機関に大きな権限を与えるような規定は、何のために存在するのかという大きな疑問をわれわれに残しただけであった。
 
 分派の禁止のために予防措置としての「横の連絡の禁止」という規定自体が、われわれがすでに述べたように、分派の発生を食い止める手段とはならず、むしろ党員を党中央に縛り付けるだけの役割をし、または、指導部に異を唱える党員を弾圧する手段となっている。
 
 そしてこのような「民主集中制」と呼ばれる、党の上級機関に専一的な支配権を保証する規定全体が、基本的には、党員を同志としてではなく、自分たちのしもべとしてしか見ていない、そういう党の体質に起因するものではないのだろうか?
 
 そしてもちろん労働者の信頼のもとに党を建設しようとするわれわれはこのような組織原則のいくつかを放棄する必要があると考えている。               

小池百合子氏に汚職疑惑

2007-08-04 18:00:04 | 政治
 参議院選挙で惨敗した現在の自由民主党のなかで、自分は人一倍人をペテンにかける能力があるから、まだまだ策を弄(ろう)して、労働者を愚弄する余地があると、浅はかにも思い込んでいるのは、小泉純一郎氏ぐらいのものである。
 
 だからこそ安部晋三氏は、ワラにもすがみつく思いで、小泉純一郎氏に寄りかかっていくことになるのだが、これはわれわれにとって歓迎すべきことでもある。
 
 というのは、われわれ赤星マルクス研究会が、公然と政治の舞台に登場したのが、2005年の6月で、われわれ赤星マルクス研究会は小泉政権とわずか3ヶ月しか、切り結んではいないからである。(二ヶ月あまりのわれわれの助走期間を考慮すれば、8月15日の靖国参拝以来、正味一ヶ月程度ぐらいしかないが、この時はもう小泉は政権を投げ出すことを決めていた。)
 
 これは、われわれにとっても、小泉氏にとっても、心残りな出来事なのであり、今一度お相手できるのは、僥倖(ぎょうこう=思いがけないしあわせ)というべきものであろう。
 
 ところが、安部第二次内閣=小泉の傀儡(かいらい=あやつり人形)内閣は組閣する前に、もう暗雲が立ちこめ始めている。
 
 それはこの小泉傀儡内閣で中心的な役割を果たすことが期待されている小池百合子氏に、致命的なスキャンダルが勃発したからである。
 
 8月4日の『赤旗』が伝えるところによると、小池百合子氏は環境相時代に同省主催のシンポジウムを随意契約で受注した企業(コングレ)から、総選挙公示4日前の8月26日に、100万円献金を受け取っていたという。
 
 小池百合子氏の事務所はこのコングレからの献金を認めた上で、「環境省と随意契約をしている企業であるかは承知していなかった。献金と随意契約の因果関係はない」、などと理由にならない理由をあげて疑惑の追及をかわそうとしているが、そんなに事態を甘く見ていていいのだろうか?
 
 この問題はいくつもの重大な問題をはらんでいるのである。
 
 その第一が、これが環境省で起きていることだ。昨年より、環境省の随意契約が他の省庁より、92%と群を抜いて高いことが問題となっており、この「労働者のこだま」のなかでも、われわれはこの問題(環境省の随意契約が90%を越えているという問題)を取り上げ、こういうことは絶対におかしいと指摘していた。
 
 あの時、小池百合子氏はやましいことは何もないと答えていたのだが、それは、まったく事実でなかった(つまり、国民を欺いてペテンにかけていた)ことが今回はっきりと明らかになった。
 
 競争入札ではなく、ある特定の事業主だけを優遇して仕事を請け負わせる随意契約は、汚職の温床となっており、また契約金がつり上げられるために税金の無駄づかいの温床ともなっている。小池百合子氏はこのような官と民の腐った癒着を放置していたばかりではなく、自らも業者から献金を受けていたというのだからあきれるしかないであろう。
 
 実際、コングレは5年間で計10件、総額3億8700万円の契約を受けており、コングレにとってはこの100万円は安いワイロであったであろうが、このことは国民の血税をコングレと小池百合子氏が一緒になって食い物にしたということでしかないであろう。小池百合子氏はこういう国民に対する公然たる背信行為を行って恥ずかしくはないのだろうか?
 
 第2は、この100万円の使い道である。コングレが小池百合子氏に100万円の献金をしたのが、05年総選挙公示前の8月26日であったということは、当然、この金は総選挙で使われたものであろう。そしてこの総選挙では、小池百合子氏は衆議院東京10区から刺客として立候補している。
 
 この選挙で小池百合子氏は、政(政治)・財(財界)・官(役所)の癒着を「抵抗勢力」として攻撃し、「改革」を訴えていたのである。つまり、小池百合子氏は、自らが政(政治)・財(財界)・官(役所)の癒着から不正に得た資金を使って、政(政治)・財(財界)・官(役所)の癒着を批判し、「改革」訴え、当選したのである。
 
 自らの汚れた手を隠して、相手を「あなたの手は汚れている」などと誹謗中傷するのはこれは有権者に対する究極の詐欺行為であろう。
                                      
 小池百合子氏は、まったく不当な行為によって、国会議員の議席を盗んだのだから、今すぐ国会議員を辞めるべきだ。これは小池百合子氏に投票した有権者の当然な要求であろう。
 
      

敗戦によって明らかになったこと

2007-08-01 00:32:04 | 政治
 自民党が惨敗して、明らかになった、陰謀がいくつも明らかになりつつある。
 
 その第一は、消費税の問題、選挙の間、自由民主党は消費税の問題については、口を閉ざしてきたが、今日、尾見財務相は、来年、消費税を上げる陰謀があったことをはじめて告白し、それは見送らざるをえなくなったという。自由民主党は選挙で負けなかったら、消費税を上げるつもりだったというのであるから、なにおかいわんやである。
 
 その第2が、竹中平蔵を日銀総裁にする謀略があったということである。
 
 はっきり言って、日本資本主義は破滅の淵(ふち)に立っていたのである。そして愚かしくも日本のブルジョアはそのことにまったく気がつかない。日本の反動勢力が、日本軍国主義の暴走に果たしたと同じような役割を果たすであろう竹中平蔵を現代の高橋是清に仕立て上げようとして、彼を日銀総裁にしようと画策していた理由はまったく明らかである。
 
 自らの理論というものは何もなく、ただ時の権力におもねることしか知らない現代の“お茶坊主”竹中平蔵に期待されていることは、“小泉時代”の再現=超金融緩和の時代の再現であり、日銀に再現もなく通貨を膨張させることである。
 
 これによって、国内におけるインフレの昂進と円安誘導によって、日本の大企業に利潤を約束しようというのであるが、むしろこのような無謀な政策は日本資本主義に壊滅的な打撃を与えるのみであろう。
 
 日本資本主義が国際的にも、国内的にも行き詰まり、階級闘争が激化するような時代はすばらしい時代ではないか、そういう時代を将来させるためにも竹中平蔵の日銀総裁就任を歓迎するべきだという人もいるかもしれないが、冗談ではない!われわれは労働者が困難に陥るような道を選択することなど絶対にありえない。
 
 竹中平蔵の日銀総裁就任は絶対にだめだ。労働者はブルジョアがいかなる理由を持ち出したとしてもそれを許容しない。われわれは“調整インフレ論者”のバーナンキがアメリカ連邦準備委員会の委員長に就任したとき、アメリカの金融政策の今後に杞憂を示したが、以来、バーナンキは節度を持って行動し、持論を封じ込めている。
 
 竹中平蔵はバーナンキが持っている節度、(これこそ通貨当局者にもっとも必要とされる資質である)を持ってはいない。だから彼にはそもそも候補者としてあげられる資格すらないのである。
 
 しかも彼は世界的に悪名が知れわたっており、彼の名前が日銀総裁候補として取りざたされること自体、不安定な日本の株式市場と為替相場に悪影響を与える。