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労働者のこだま(国内政治)

政治・経済問題を扱っています。筆者は主に横井邦彦です。

自民党の惨敗の後

2007-07-30 02:10:42 | 政治
 今回の参議院選挙の結果は労働者のだれもが予想していたものであった。
 
 しかし、安部晋三氏の予想は違ったようで、彼はこの結果の意味をまだ理解できていない。
 
 このずれが自民党が今回の選挙で大敗北した原因の一つでもあるのだが、賢い、青木氏と中川秀直氏はいち早く辞職するという。これは賢明な判断だ。
 
 なぜなら、日本国の首相官邸はほどなく魑魅魍魎(ちみもうりょう=山の怪物や川の怪物などのさまざまなばけもの)の跋扈(ばっこ=のさばりはびこること)する化け物屋敷となって行くかもしれないからである。
 
 1933年にヒトラーが政権を掌握したとき、ナチス党は前年の総選挙で33.1%の得票しかできず、ヒトラーは保守派のヒンデンブルク大統領にすり寄ることによってかろうじて首相に就任した。だからヒトラー政権ははじめは少数与党として出発し、彼の内閣にはナチス党は2名の閣僚しか送ることができなかった。
 
 しかしそれでも、官邸に入ったヒトラーは、「いったん首相官邸に入ったからには、棺桶に入ってでなければここから出て行くことはない」と決意を語り、直後に議会を強行に解散させる。
 
 この選挙中に有名な国会炎上事件が起こり、犯人は共産主義者であるとして、猛烈な反共キャンペーンと親衛隊を使ったテロや選挙妨害を行う。しかし、3月に行われた投票でもナチス党は過半数をえることができなかった。
 
 そこで全権委任法という最後の手段に訴え、ナチスの独裁体制の確立していくのだが、この時期特徴的なのはナチス党の政治闘争は単に選挙闘争だけではなく、それ以外の闘争手段(謀略、テロ、脅迫、陰謀、等々の非合法活動を含むもの)に訴えている。
 
 『美しい国』建設の使命感に燃えたファシストとしてヒトラーは、なりふり構わずナチスの独裁体制確立に突き進んでいくのだが、われらの安部晋三氏もどうやらこの時のヒトラーの心境になりつつあるようである。
 
 しかし、ここで注意しなければならないのは、当時のドイツと現在の日本では状況がまったく異なることであり、当時ナチス党がやったようなことを行える政治環境にはまったくないということだ。しかも首相に全権を委任する法案など現在の国会で通過するはずがない。
 
 その辺を理解できないからこそ、安部晋三氏の政治はますます荒唐無稽になっていくしかないのだが、それでも彼は首相であり、居座ると言えば、後2年(衆議院の任期は後2年だから)は居座り続けることが可能である。
 
 自民党もそれを許容するというのであるから、自民党はどうやら安部晋三氏と心中する決意ができたらしい。
 
 こういう状態では、日本の政治が今後グチャグチャに混乱していくのは必至である。
 
  

資本主義的生産様式の廃止について

2007-07-28 00:52:09 | 政治
 共産党の志位氏が出演している選挙のテレビ討論会(『サンデー・プロジェクト』)で、突然、話が資本主義的生産様式の話になって、コメンテーターと呼ばれる人々が異口同音に、資本主義的生産様式の廃止というのはちょっとね、といっていた。
 
 失礼ながら、こういう質問を共産党にするのは何かおかしいのではないか?なぜなら、現在の共産党は資本主義の枠内での改革を掲げており、必ずしも資本主義的生産様式の廃絶というスローガンを掲げていないからだ。
 
 現在、資本主義的生産様式の廃止というスローガンを公然と掲げているのは、われわれ赤星マルクス研究会ぐらいなもので、そのわれわれは今回の参議院選挙には参加していない。
 
 そういう点からすると、資本主義的生産様式は、なんら参議院選挙の争点にはなっていないにもかかわらず、デレビを使って、そういう話をあえてするこれらのコメンテーターたちの発言はひどく場違いな気がするし、われわれにたいする大きな誤解を生じさせかねないこのスローガンを、欠席裁判のようにわれわれ抜きで議論することに対してわれわれは大きな憤りを感じている。
 
 そもそもわれわれはこのスローガンを単独では掲げていない。われわれが言っているのは次のようなことである。
 
 われわれ赤星マルクス研究会は、最初に、労働者階級が社会の多数を占めるようになったこの社会の変革は、労働者の「多数派革命」というかたちをとるだろうし、とらざるをえないだろうという見通しを述べている。
 
 そして、その上で、政権を獲得した労働者階級は、資本主義的生産様式を廃止して、生産手段の共有にもとづく、実質的な民主主義の社会、真に自由で平等な人間関係に基礎をおく社会を建設するであろうといい、だからこそわれわれは「労働者の民主主義派」なのであるといったのである。
 
 われわれは社会の成員の多くが納得した上で、資本主義的生産様式から新しい生産様式に移行していくべきであると言っているのだが、資本主義的生産様式の廃絶だけが切り離されて主張されることによって、何か、われわれがこの社会(資本主義社会)の転覆だけをめざしている団体であるかのような印象を与えており、ここで語られなければならない本当に大切なこと、すなわち、生産諸力がある段階まで発展すると、既存の生産関係(資本主義生産様式)と矛盾するようになり、このままではいけない、社会を変えなければならないという意識が人々のなかに自然に生まれてくるのだということが忘れられているのである。
 
 つまり、われわれは資本主義的生産様式の廃絶というスローガンを、けっしてあれやこれやの選択の問題として提起しているわけではないのである。
 
 また、われわれが社会の基本的なあり方を変えようという意識は、この社会の物質的生活の諸矛盾から生まれるのだと主張していることは、裏を返せば、一つの社会構成体は、すべて発展しきるまでは変わることはないだろうと言うことを承認していると言うことでもある。つまり、われわれは、資本主義社会がその可能性のすべてを汲みつくすまでは他の社会に転化することはないだろうという見通しをもっているが、資本主義の可能性の泉がどの程度の水量になっており、あとどのぐらい残っているのかということをいるのか、ということをまだ語ってはいないのである。これはわれわれが、資本主義の可能性の泉はある程度浅くはなってはいるだろうが、枯渇してしまったという判断をまだくだしていないからでもある。
 
 だからわれわれ(赤星マルクス研究会)は何度も、時が至れば、われわれは多数派になるのだから、しばらくの間は極少数派で結構だ、と言明しているのである。
 
 これはわれわれが資本主義的生産様式の廃絶を今日の問題として提起していないということでもある。
 
 少し前に、われわれはプロレタリア日本革命は今日の問題ではないかもしれないが、明日の問題になるかもしれない、といったことがある。それはその時に、安部晋三政権によるブルジョア民主主義破壊が止めどもなく進行していたからである。
 
 安部晋三政権によってブルジョア民主主義が廃墟にされ、その上に軍国主義政権が誕生すれば、労働者階級は持てる力をすべて使ってこの政権を打倒しなければならないが、労働者階級が安部晋三政権を打倒することになれば、労働者はいやがうえでも権力を掌握しなければならなくなり、多くの人が望まないかたちで資本主義的生産様式から脱落していくという可能性も考えられたからである。
 
 しかし、このような愚行は継続不可能な政策であることがすぐ明らかになった。ブルジョア民主主義はこの一年間に大きな損害を被り、その一部は修復不能なものであったが、とにかく生き延びることには成功したのである。
 
 したがってプロレタリア日本革命は明日の問題でもならなくなりつつある。
 
 こういう状況のもとでは、われわれのスローガンである資本主義的生産様式の廃絶を、おもしろ半分に語ってもらいたくはないのである。          

何をご「所望」でしょうか?

2007-07-25 01:52:15 | 政治
 「所望」という人がよく分からないコメントを書いています。
 
 何でも原子力という難物は不完全な人間には統御できないそうです。
 
 こういう思想の根底には、「神のみが自然を統御しうる」というキリスト教的な宗教観があるのですが、不思議なことにこの人はジャパニーズ・右翼です。右翼または民族派と呼ばれる人は、普通は、反キリスト教的であり、原発推進派なのですが、どういうわけかこの人はエコロジックな右翼です。またエコロジストと呼ばれる人々は「地球にもやさしく、人間にもやさしい」人が多いのですが、どういうわけかこの人は極端な人間不信と人間嫌いに陥っていて、少しも人間にやさしくないし、日本の前途にも悲観的な滅亡論者です。そして日本が滅びることが「主権者の御心(みこころ)」だともいいます。ここで「主権者」というのはブルジョア民主主義における「主権者」のことではなく、宇宙の「主権者」としての神のことでしょう。
 
 何か暗澹(あんたん)たる滅亡の宗教です。
 
 またこの人はマルクス主義と原子力関係者を同一視していますが、原子物理学をうち立てたアインシュタインにせよ、ボーアにせよ、ハイゼンベルクにせよ、マルクス主義者ではありません。また現在、原子力を研究したり、原子力施設を設計したり、運用している人のなかにもマルクス主義者はいないと思います。(いるかもしれませんが、少なくともマルクス主義者と認定された人は機関の根幹的な部分からははずされることになっています。その理由については、われわれが答えるべき筋合いでもないので、警察庁の公安部か原子力保安院にでも聞いてください)
 
 つまり、現在の日本の原子力の研究や開発、建設、運用は基本的にブルジョアジーによって運用されているのであり、こういう点でわれわれマルクス主義者にたいしてどうこう言うこと自体がおかしいのです。
 
 ただわれわれマルクス主義者は人類の未来について責任を持っていると考えているので、原子力の利用の必要性を主張し、原子力に関する諸科学や諸技術を擁護しているのです。
 
 そして原子力について、われわれは、それが安全であるなどということは一言も言ってはいません。反対に、核分裂によって非常に大きなエネルギーが生み出されること。また人為的に核反応を起こさせる物質の多くが放射線を放出しており、これは生命的な致命的なダメージを与えるということから、原子力は潜在的に大きな危険性をもっていることはまったく明らかで、われわれはそのことをつねに明言しています。
 
 われわれが主張しているのは、原子力がこのような危険性をもっているのであれば、それは厳重に管理する必要があり、利潤が最優先され、直接的生産者(つまり、原発を実際に稼働させている人々)が賃金労働者として資本に搾取されるという資本主義的な生産様式のもとでは、原子力の安全な利用は一つの大きな社会的な制限をもっているだろうということです。
 
 だから、チェルノブイリのような事故が起こるかと問われれば、このような「社会的な制限」を取り払わなければ、つまり、利潤よりも安全が最優先されるような体制が確立されなければ、それは日本で起きても不思議はないといっているのです。
 
 もう少し自己の思想を整理することと、ものごとを前向きに考えること、情緒的にではなく論理的に見ることをお勧めいたしますが、せっかくですので「神のみが自然を統御しうる」という見解についてもう少しいいます。
 
 中世のキリスト教神学では、神は無限であり、人間は有限であるというという思想は、人間の無力を強調することによって、人々を万能の神の前にひれ伏させ、神に救いを求めさせるための思想として説かれていました。
 
 これが17世紀の自然科学の勃興期には、神=自然となります。自然は自らを統御するがゆえに神であるというわけです。こういう理神論にはニュートンもかなり傾倒していますが、ニュートンは自然の法則性のなかに神の法則性を見ていたのです。
 
 理神論は自然を神と見立てているという点では、いまだに宗教から脱してはいないのですが、他方では自然は自らを統御している(自然は自らの法則にしたがって自己運動している)という点ではもう宗教から抜け出しています。
 
 自然は自らを統御している(法則に従って運動している)のですから、もちろん人間は自然を統御することはできません。人間にできることはその法則を認識し、それを人間のために利用することだけです。
 
 人間には、冬を春にする能力はありませんが、天体の運行の法則を認識することによって、いつ春が来るのかということを知り、いつ種をまけば穀物が生育するのかを決めることができます。
 
 これは原子の世界でも変わりません。原子の世界には原子の法則があり、電子も原子核も法則にしたがって運動しています。法則にしたがって運動しているというのは、こうであって、それ以外ではないというかたちで運動しているということですから、人間が人為的に原子核に中性子をぶつけて、核分裂を引き起こさせる場合にも、原子核がどのように分裂して、どのくらいのエネルギーが生み出されるのかということはあらかじめ決まっているのです。ですからこの法則を理解し、それを人間のために充用すれば、そこから原子のエネルギーを取り出すことも可能です。
 
 しかし原子力の応用は最初から、人類にとって災いとしてあらわれました。この技術が生まれたのは第二次世界大戦中で兵器として開発され、それは広島・長崎に投下されました。地上で解放された膨大な原子のエネルギーは都市を破壊し、人々を焼き殺し、また長く放射線障害を人々に引き起こしました。
 
 原子力は呪われるべきものであるというのが、日本人の多くがもっている素朴な感情ですが、この感情の基礎には、広島・長崎の悲劇があるだけに、われわれはこれを無視することはできません。
 
 その後、はじまった原子力の平和利用についても、日本は世界唯一の被爆国であるということから、安全にたいしては他の国よりもいっそう配慮しなければならないはずですが、政府も電力会社も経済性ばかり優先させて、その結果、大きな原子力事故があいつぎました。
 
 こういうなかで原子力は恐ろしい、自然を統御しようとすること自体がまちがいなのではないか、という自然を神と見立て、畏敬の対象にして、神の領域には立ち入らないようにしようという宗教への退行現象が一部の人々のなかに生まれてきています。
 
 もちろんこういうものは一時的な病気のようなものでしょうが、残念ながら、政府と原子力関係者のなかにも自分たちのやっていること(自分たちの原子力政策)に確信を失いつつある人が増えているので、この病気はますます広がる傾向にあります。
 
 『日本経済新聞』が24日の社説でIAEAの調査を受け入れたことを論評して、なぜIAEAの調査に頼って、自分たちの手で安全性を論証し、人々を説得するように努力をしないのかと嘆いていますが、まったくその通りです。
 
 今回の原子力発電所の地震災害では、政府の顔がまったく見えません。政府が今後、原子力施設の安全をどう確保するのかすら明らかにできないのですから、人々を説得することなどできるはずがありません。だから日本の原子力発電所は赤星マルクス研究会が維持・管理・運営をやっているのではないかという、ヘンな誤解をする人も出てくるのですが、これは政府が参議院選挙で忙しいというだけではすまない問題です。    

投票済

2007-07-25 00:52:58 | 政治
 28日土曜日から夜勤で日曜日は帰れないので、期日前投票に行った。
 
 まずは、選挙公報を読んで候補者選び。
 
 選挙公報を開いてまず目に入ってきたのは、「即金35万円可」の文字、愛知県選挙管理委員会は資金繰りに困って、マチキン業者の広告を載せるようになったのかと思いきや、実は、某宗教団体と密接な関係があるあの連立与党の候補者、なんか選挙公報にまで政党の品性があらわれるようでこれは内容を読まずにパス。
 
 つぎに読んだのは、「まちがった平等主義が生み出したイジメやニートを解消すべく徳育を進め、教育勅語の復活で日本人の心を取り戻します。」「戦後政治の不作為の象徴である現行憲法(占領基本法)の破棄、真の独立主権国家としての正統な憲法を制定します。」という某右翼団体。
 
 これを読んで不思議な感じがしたのは、われらの安部晋三氏はこの右翼団体とまったく同じ見解に立ちながらも、自由民主党の総裁であるとともに内閣総理大臣をやっていることだ。安部晋三氏は所属すべき政党を完全に間違えているのではないかということだ。
 
 ついでにいっておけば、最近、安部晋三氏が演説する場面をよくテレビで見るが、ファナチック(熱狂的)でありながら、中身がまったくない演説はだんだん公明党の候補者に似始めている。公明党の場合はあれでいい、というのは、彼らの聴衆の多くは狩り出された某宗教団体の信者で、聴衆と演説者が一体となって、宗教的な儀式に近い雰囲気をかもしだして陶酔状態になっており、こんなときに政策の説明なんぞやっていたら、それこそ場がしらけるだけだからである。
 
 しかし、自民党の聴衆はほとんどが普通の人で、安部晋三氏の政策を聞きに来ているのに、ヒトラーやゲッペルス並みの絶叫調ではあるが、何を言いたいのかよく分からないアジ演説を聞かされたら、あの人なんだろう、という話になる。選挙上手、下手以前の問題として、この人には政治活動というものの基本がまったくわかっていないような気がする。あのブッシュでさえ、自分の思っていることを人に伝える能力を持っているのに、この人の思考は頭のなかでクルクル回っているだけで、他者への伝達能力を持たない。
 
 それで投票であるが、愛知選挙区では共産党の八田ひろ子氏にしようか民主党の「帽子のおばちゃん」にしようか、最後まで悩んだが、結局、「帽子のおばちゃん」にした。
 
 本当は、八田ひろ子氏に投票するつもりだったが、前日の某新聞に、「マチキン業者」が優位で「帽子のおばちゃん」が追いかけているという報道があったので、「マチキン業者」を落とすために、「帽子のおばちゃん」を選択せざるをえなかった。
 
 実は、この新聞の当落予想は、われわれの予想とはちがっており、ホントかな~~?と首をひねるもので、それこそ本当に「誘導」ぎみなのだが、「マチキン業者」は絶対に落選させなければならないと考えたので、苦渋の選択をした。
 
 また当日(24日)の『赤旗』には、一面で「比例区4人と東京選挙区」を「絶対的防衛圏」として設定しており、愛知選挙区は「絶対的防衛圏」から外れていたので、こういう選択もありか、ということになった。
 
 そこで不思議なのは、共産党はなぜこういうことを自分たちの機関紙に載せるのか?ということ、どこの選挙区を重要視するのかということは、自分たちの党の問題であり、彼らにも党員向けの周知徹底用の党内文書はあるはずだから、そういうところでやった方がいいのではないかということだ。
 
 『赤旗』を読んでいるのは、党員だけではないはずで、そういう人々がこういう記事を読めば、「絶対的防衛圏」から外れている選挙区の相当数の共産党票が、自民党と公明党を落とすために、他党へ流れていくことは確実だからだである。
 
 共産党は政策を支持して投票してほしいと考えており、マスコミ各社にも「当落予想」はやめるように申し入れをしているが、実際には、無党派層の多くは、彼らがより現実的と考えている投票行動、すなわち、自民党や公明党を落とすために彼らと競り合っている候補者に投票しようと考えているのである。
 
 したがって、24日の赤旗の記事は、愛知選挙区の当落を事実上決定したようなものでもある。自分たちの党の候補者があと少しとおもって必死にがんばっているのに、こういうのはないな、というのが率直な感想である。
 
 比例区の投票先については、「秘密」ということにします。

コメントにお答えします

2007-07-23 12:46:17 | 政治
 安部晋三氏自身がおだてられて総理大臣になったから、彼も「被害者」であろうというコメントをいただきました。
 
 われわれのような部外者がこういうのもなんですが、内閣総理大臣という職は、おだてられてなってしまった、などという言い訳が通用する職でありましょうか?
 
 昔、宇野ナントカという無能な総理大臣が、それこそ本当におだてられて、総理大臣になってしまい、総理になったとたん女性スキャンダルが発覚して、そのまま参議院選挙に突入してしまい、自民党は歴史的大敗北を喫し、彼は参議院選挙の直後に辞職しました。
 
 安部晋三氏もこの総理大臣と同じ命運をたどろうというのでしょうか?
 
 自分には荷が重いと思われるのでしたら、一刻も早く職を辞するのがよかろう、というのが、われわれのできる最善の助言であります。

錯乱する『日本経済新聞』

2007-07-23 12:43:13 | 政治

 われわれがこういうのも何だが、『日本経済新聞』は特殊な新聞で、日本国内においても、海外においても、日本資本主義の見解を“公式に”代弁する新聞であると見られている。
 
 したがって、この新聞でわけの分からない社説を載せれば、日本はいったいどうなっているのか、という話になるし、国内的には、「日本の支配階級は混乱している、今こそ、チャンスだ、いけいけどんどん」、という話にしかならない。
 
 『日本経済新聞』はもっと自分が置かれている立場というものを自覚して、行動すべきであろう。
 
 われわれがわけが分からないというのは、7月23日の社説、『教育の未来像を示し有権者にこたえよ』のことだ。
 
 ここでは、「自民党が『円滑な実施』を約束する教員免許更新制は、実際の制度設計は文部科学省に委ねられており、本当に教師の資質向上に役立つのかどうか不透明だ。学力の向上や規範意識の育成もかけ声先行の印象が否めず、具体策がはっきりしない」といい、その議論を参議院選挙のなかでやれと各政党に要請している。
 
 しかしだ、順番がまったく逆ではないのか?
 
 教育基本法の改正も教育三法もすでに法案としては成立してしまっている。
 
 しかも、この法案は国会で十分な審議がされないまま、自民党と安部晋三によって、強行採決がなされ、数の暴力によって制定されたものである。
 
 これらの法案が提出された当時から、もっと審議を尽くすべきだという世論は強かったのだが、安部晋三と自民党はそれを無視し、話し合いや政党間の議論を深めてよりよい法案にするという努力よりも、強行採決という数の暴力に訴えるというブルジョア民主主義さえ逸脱する方法を選んだ。そして貴紙、つまり『日本経済新聞』はその自民党と安部晋三の強行採決を是としたのである。
 
 それを今になって、これらの教育法案には大きな問題があり、もっと、もっと議論しなければならないというのは筋がまったく通らない。『日本経済新聞』はいったいどういうつもりで今になってこんなことを言い出すのか?このような社説は、強行採決がなされる前に掲げられるべきものであろう?
 
 そして現在、参議院選挙で最大の争点になっているは、まさに、こういう「まず強行採決ありき」という安部晋三と自民党の主権者=有権者を愚弄するような政治手法に対してであり、この問題では、今回の選挙ではっきりと有権者の審判が下されるだろう。安部晋三も自由民主党もこの主権者=有権者の審判から逃れることはできない。
 
     

自由民主党のとるべき態度

2007-07-21 23:50:14 | 政治
 参議院選挙の投票日が近づくにつれて、ますます追いつめられている自由民主党が何を血迷っているのか、日本の主権者=有権者を恫喝しようとしはじめている。
 
 いわく、
 
 「与野党が逆転すれば、法案はすべて通らなくなる。政局は大混乱だ」
 
 「政治をガタガタにされて困るのは国民の皆さんだ」
 
等々。(この言葉は『朝日新聞』7月21日、朝刊、社説から引用)
 
 これは、自民党が敗北して参議院での与野党が逆転したと仮定した話なのだが、どうしてこういう話になるのであろうか?
 
 民主主義社会では、主権者の意志は選挙によって反映される。したがって、参議院であれ、衆議院であれ、国政選挙で有権者が自由民主党を少数派に転落させたのであれば、それは主権者の意志として、現在の与党である自由民主党に「諸君たちは信頼に値しない政党だから、政権の座から去れ」と表明しているのである。
 
 こういうときに自由民主党がとるべき道は一つしかない。それは一刻も早く国会を解散して、主権者の意志を反映させた政府を樹立することであろう。民主的な政治のあり方としてはこれ以外にはないはずだし、こうすれば、政局は混乱などしないし、政治がガタガタになることもないであろう。
 
 自由民主党と安部晋三は、参議院選挙で国民から不信任を突きつけられても、なお政権にへばりつこうなどというと考えているから、今になって、政局が混乱する、政局が混乱して困るのはお前たちだなどという脅迫めいたことを言って主権者である国民を脅しにかかっているのである。
 
 そもそも、選挙などしなくても、各種の世論調査で現在の安倍内閣の不支持率は50%を越えているのであるから、自分の身の律しかたを知っている政治家であるなら、ましてや安部晋三は総理大臣なのだから、何をなすべきか、人に言われる前に理解し、実行しなければならないはずだ。
 
 そういう点では、現在の自由民主党と安部晋三は土壇場(斬首を執行するために築いた壇)で無益にもあがいている罪人のごとしである。
 
 悪因悪果(悪い行いは悪い結果となって自分にはね返ってくる)ということは、安部晋三と自由民主党が何度も何度も、民主主義を踏みにじって、主権者である国民の意思に逆らって強行採決を行うたびに、われわれが口をすっぱくして言ってきたことである。
 
 そもそも先の総選挙は、自由民主党の小泉純一郎が「郵政選挙」と銘打って、郵政民営化賛成か反対かという点だけで争われたものであり、多くの有権者は郵政民営化賛成という点だけで自由民主党の候補者に投票したのである。
 
 だからあの総選挙の時に示された「主権者の意志」のなかには、靖国神社への公式参拝の是非も、憲法改正の是非も、教育基本法の改正の是非も、防衛庁の省への昇格の是非も、含まれてはいなかった。そういう点では非常にいびつで不自然な民意の反映でしかなく、郵政関連法案が国会を通過した時点で、再度、解散総選挙を行うべき性格の異常な選挙でしかなかった。
 
 ところが自由民主党は総選挙の大勝で、おごり高ぶり、われを忘れて、安部晋三政権などいう国民の誰も望まない政権を誕生させ、安部晋三政権のもとで国民を無視した強引な国会運営が行われた。
 
 したがって正されなければならないのは、不当な政府を生んだ現在の衆議院の構成なのである。
 
 自由民主党はこの一年あまり自分たちが行ってきた反民主主義的な政治を継続できないことをもって、「政治の混乱」というが、本当に政治を混乱させているのは、民意を反映させていない現在の政府と衆議院なのであって、これをもとに戻すこと、すなわち、人々の意向をきちんと反映している民主的な政府と議会をつくりだすことこそが「政治の混乱」を終息させる唯一の道なのであり、現在求められていることなのである。
 
 自由民主党はその党名に自由と民主主義を掲げているのであれば、このうえいたずらに悪事に悪事を重ねて恥の上塗りをするのではなく、民主主義の王道にこそ立つべきなのだ。

21世紀の泣き落とし戦術

2007-07-20 19:19:52 | 政治
 20世紀の究極の選挙戦術は、「泣き落とし」で、泣きながら、「助けてください、このままでは落選します、あと一歩、あと一票です」と絶叫しながら連呼して歩くことだった。
 
 そんなことで、と思う人がいるかもしれないが、この種の同情票はある程度あり、この手で当選した人を何人も知っている。(どういうわけか公明党の候補者が多かったが、このあたりが選挙上手の党といわれるゆえんであろう。)
 
 もちろん、こういう手が通用するのは接戦で、当落選ぎりぎりの状態であり、あとすこし得票を上乗せすれば当選するかもしれないというのが大前提なのだが、東京の自民党の女性候補者は、基礎票ゼロの状態からこの手を使っている、というか、使わざるをえなくなっている。
 
 そもそも、選挙権がなくて、4年間ずっと選挙にもいっていないフツーの(政治的経験が全くない)女子アナウンサーを候補者に仕立て上げたということが大きなまちがいだったのであり、しかも、自民党がこの候補者に自分たちの組織票を分け与えないというのであれば、こういう状態になるのは最初から目に見えていたのではないか?
 
 だから、この候補者は連日社会的好奇の目にさらされて、涙、涙の毎日で、見るからに痛々しいほどだ。
 
 しかし、かわいそうだということだけで、当選できるほど、政治の世界は甘くはないし、何も知らない一般の女性がこういうみじめな選挙戦をやっている、やらされているということ自体、東京の有権者や他の候補者にたいする侮辱(ぶじょく)であろう。
 
 「ブタもおだてりゃ木に登る」という話もあるが、ブタをおだてて、おだてられたブタが本気になって木に登ってしまい、枝の上でブーブーやりだしたら、それは喜劇ではなくて、悲劇である。
 
 「木に登ったのはブタ自身だろ」、などといまさらいうのは、「いじめっ子」の論理でしかない。何も知らないブタをおだてて、木に登らせたものが圧倒的に悪いに決まっている。これは学校のいじめと同根の“いじめ現象”の一つである。
 
 この点では、自由民主党の総裁である安部晋三と幹事長である中川秀直と前総裁の小泉純一郎には重大な責任がある。
 
 なかでも一番罪が重いのは小泉純一郎である。なぜなら政党間の厳しい政治闘争の場である選挙でこのような愚劣なこと(人気取りのためにだけ女性を候補者に引っ張り出すという戦術)を一番最初にやり始めたのは、彼だからであり、このつぎの総選挙には、“小泉チルドレン”と呼ばれる前回当選した議員の多くが、この女子アナウンサーと同じようなみじめな選挙戦を戦わざるをえないからである。
 
 小泉純一郎は、「(自由民主党の)候補者は使い捨て」ということはいったというが、言うのが遅すぎる!自分自身そう思っているのであれば、なぜ候補者にする前に、そういうことを立候補希望者に、はっきりと説明しなかったのか?
 
 また同じように、自由民主党の総裁である安部晋三と幹事長である中川秀直も同罪である。諸君たちは、甘言を弄(ろう)して、一人の前途ある若い女性の将来を狂わせてしまったのである。この責任をどうやってとるのか明確にすべきであろう。        

自民党は負け戦の仕方を知らない

2007-07-19 01:04:45 | 政治
 新聞では参議院選挙での自民党の苦戦が伝えられている。
 
 しかし、それにたいする自民党の対応は非常ににぶい。今回の戦いは、どうせ負けだと、最初からあきらめているのか、おとなしいものだ。
 
 しかし、選挙も終盤に近づいて、敵の攻勢が強いからといって、防戦に回り、負けを最小限にしようということばかり考えていたのでは、自由民主党はすべてを失うことになる。
 
 この戦いが、天下分け目の「関ヶ原の戦い」であるならば、戦いの帰趨をじっと見守っているかなりの数の「小早川軍」がいるのであり、彼らは時至れば、大勢は決したとばかりに、群れをなして山を駆け下りてくるからである。
 
 状況はすでにそういう段階にまできている。

 無策の自民党は、このままでは、競り合っているところは全部負けるかもしれないという自覚がないから(もっとも今となっては何をしても選挙戦の流れを変えることはできないかもしれない)ものごとはそのようになるしかないだろう。
 
 そういう点では、自民党は歴史的大敗北の前夜にたたされているのだが、これは日本の政治にとって非常に喜ばしいことでもある。

宮本顕治元共産党議長死す

2007-07-19 00:55:42 | 政治
 元共産党議長であった宮本顕治が静かに死去した。
 
 この、静かに、ひっそりと、という彼の亡くなった状況こそ、彼と彼の生きた時代がすでに遠い過去になってしまっていることを物語っている。
 
 日本の社会主義運動、共産主義運動が、日本共産党というスターリン主義的な政党に集約されていくなかで、この運動は独特の狭さ、独特の偏(かたよ)りをもち、解放されるべきはずの労働者階級からますます遠いものになってしまった。
 
 幸いにして、そういう陰鬱(いんうつ)で、人間不信、人間嫌いの社会主義の時代は20世紀が終わるとともに終わった。
 
 しかし、日本の社会主義運動、共産主義運動が当初めざしていた、新しい社会は未だ未到の地となっている。
 
 しかし、20世紀の社会主義にかわる、新しい社会主義はすでに自分たちの歩みを始めている。そういう点ではこの終末は新しい時代の到来をも告げているのであろう。 

生存権は餓死を救済しない

2007-07-13 01:14:21 | 政治
 飽食の国日本で餓死者が出るというのはいかにも信じられないことだが、やはりそれはわれわれが目をそらすことのできない現実だ。
 
 日本国憲法は生存権を保証しているではないかという人がいる。
 
 そういう人々ははっきりと答えるべきであろう。生存権が保証している社会でなぜ餓死者が出るのかということを。日本国憲法の第25条には「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」と宣言し、第2項で「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」と宣言している。
 
 日本の最高裁判所はこの25条について「この規定は、すべての国民が健康で文化的な最低限度の生活を営みうるように国政を運用すべきことを国の責務として宣言したにとどまり、直接個々の国民にたいして具体的権利を賦与したものではない」(朝日判決)といい、これは単なる国の責務をあらわしたものにすぎないとしている。
 
 しかし、いくら「国の責務として宣言した」と最高裁判所がいっても、その責務を放棄して、日本の軍国主義化に血眼になっている安部晋三のような「国の責任者」を逮捕して、死刑を宣告したり、無期懲役に処したりする法律はないので、安部晋三のように、内閣総理大臣が自分の無責任で国民を餓死に追いやるということが実際に起こっても、他人事のような顔をすることだってできるのであるし、テレビでヘラヘラ笑って自分は国政に責任を持っているのだという恥っさらしなことすら語ることができるのである。
 
 これに対して、この25条を条文にあるとおり『権利』であり、国民は国にたいして、立法その他の措置を要求することができるという考え方もある。
 
 しかし、この見地にたっても貧困のなかで飢えていく人々を救済するのは難しいだろう。生存権では腹はふくれないし、生存する権利は国にたいして「生存を請求する権利」、「生存を要求する権利」でしかない。
 
 この権利を具体化するために「生活保護法」のような法律もあるが、この法律を執行する裁量権は行政が持っており、些細な揚げ足取りをやって生活保護申請を却下したり、給付金を減額させたりすることも行政の「裁量権」には含まれている。
 
 全体的に現在の政府、自由民主党と公明党の政府は、国の予算のなかで社会保障費が急騰していることに危機感を抱いて、「生活保護費」を圧縮するようにしている。だから、今回の北九州での事件は起こるべくして起こったともいえる。
 
 われわれは何度もいうが護憲派ではない。むしろ今回の北九州の餓死事件は、日本国憲法というよりもブルジョア憲法一般がもっている限界が露呈したものであると考えている。権利は保障するが、その行使まで保証しているわけではないので、すべての人がそれを享受できるわけではないという点でブルジョア的な権利は致命的な欠陥をもっているのである。
 
 もちろんこのような「限定的な自由」、「限定的な平等」(最低限度の生活を維持することは自由と平等の基礎である)は、われわれの社会、資本主義社会が基本的に「持てる者」と「持たざる者」に分裂している階級社会であるからであって、この社会(資本主義的生産様式にもとづく社会)を克服することなくして、真に自由で平等な人々の関係を打ち立てることはできないのであり、人々を飢えと貧困から救い出すこともできないのである。
 
 世界を変革せよ!世界は変革を要する!
 
     

愛知選挙区がおもしろい

2007-07-05 02:19:59 | 政治
 最初に、現行の公職選挙法は、労働者階級の政治参加を阻止し、ブルジョア、小ブルジョア政党だけで選挙を独占しようというねらいから、立候補にたいして高額の供託金が要求されている。
 
 したがって、日本の選挙制度は、供託金300万円どころか3万円も持ち合わせていない貧乏な労働者は政治に口を出すな、選挙に立候補しようなどと考えるな、という、あからさまに不平等な選挙制度であり、民主主義とはまったく無縁な階級差別の選挙制度、労働者の政治闘争の機会を剥奪するという意味で、労働者弾圧法の一つにさえなっている。
 
 (社会主義労働者党の解党が提起された最後の中央委員会で、われわれと現マルクス主義同志会の林紘義氏が一致した唯一の点は、社会主義労働者党はその幼年期である1980年代に、公職選挙法の改正がつぎつぎに行われ、改正のたびに供託金が引き上げられたために、われわれは公然たる政治闘争である選挙闘争に参加することが困難となり、結果として、ブルジョア的、小ブルジョア的政治勢力との政治闘争に敗北し、名実を備えた労働者政党へと成長する道が断たれ、今では袋小路に突き進みつつあるということだった。
 
 いずれにせよ、将来の展望を切り開くことができなくなった今、全軍退却のラッパが吹かれなければならないという認識では一致していたが、この「退却」という言葉を林紘義氏はマルクス主義そのものからの退却としてとらえて、マルクス経済学の研究団体マルクス主義同志会を結成し、それに同意できないわれわれはマルクス主義同志会を去った。)
 
 したがって、無神論の科(とが)でユダヤ教会を追放されたスピノザのように、異端者のなかの異端者となってしまったわれわれ赤星マルクス研究会も、残念ながら、愛知の政治状況に多いに関心を持ちながらも、今回の参議院選挙に立候補することはできない。
 
 しかし、本来の選挙の主役を欠いているとはいえ、外野で見ていても、今回の参議院愛知選挙区はおもしろい選挙戦になりそうだ。
 
 愛知の定員は1人ふえて3人だが、少し前の下馬評では、自・民・公の当選が動かないだろうと見られてきた。
 
 しかし、安部晋三政権のもとで保守(自・公)派は労働者の支持を大きく失っており、自・公2人の同時当選は難しくなっている。生き残るのは自民が公明か、まさにそれが問われるようになって、自・公の選挙協力も絡んで、醜悪な内部党争が勃発しようとしている。
 
 何でも自民党は公明党に10万票ゆずるという裏取引があったそうであるが、今回の選挙で自民党が公明党に10万票もゆずったら自分たちの候補者の当選すらおぼつかなくなりはじめており、この裏取引を反古にしようとしている。
 
 一方の公明党にすれば、独力で自分たちの候補者を当選させるだけの力はないために、どうしても自民党の選挙協力は欠かせないために、愛知でも、中央政界でも、安部自民党に、「公明党をなめるな、約束を守れ」という猛アタックをかけている。
 
 したがって、この与党の醜悪な内部闘争の結果いかんでは共倒れという可能性も出てきた。
 
 これに対して、民主党は安泰かといえば、そうとばかりも言い切れない。それは、衆議院愛知1区の河村たかしが、『赤旗』で日本会議のメンバー(要するに安部晋三と同じ新日本軍国主義者)であることが暴露されて、愛知の、とりわけ名古屋の労働者のなかで民主党にたいして大きな怒りが吹き出しはじめているからだ。
 
 民主党愛知は労働者の票がほしかったら、河村たかしのバカたれを簀巻き(すまき)にして庄内川に投棄せよ!(もちろん、これはわれわれではなく、われわれの友人の労働者から聞いた言葉だが、われわれ赤星マルクス研究会のスローガンとしておもしろいかもしれない)
 
 ここまでいかなくとも愛知の労働者の民主党にたいする期待度は、保守(自・公)の凋落に反比例するように上昇してはいない。もちろんこれは労働者の健全な政治意識が、民主党に第2保守党的なものを感じて、民主党から遠ざけているからである。(民主党が愛知で敗北して、1議席も取れなかったら、A級戦犯は間違いなく「新日本軍国主義者、河村たけし」であることをお忘れなく。)
 
 したがって現在の愛知の政治状況はすべての政党の候補者に勝利と敗北の両方を約束しており、どちらを手にするかは候補者の今後の努力しだいということになりつつある。
 
 こういう状況は、当初不利を予想されていた社民党と共産党に有利のはずだが、社民党は最初から、勝利の栄冠がいらないそうである。
 
 まったく不思議なことだが、社民党は選挙後に民主党と参議院で統一会派を結成するそうである。だとするならば、社民党はなぜ愛知の選挙区で候補者を立てるのか、選挙が終わったら統一会派をくむ民主党の批判をやらない、できないというのであれば、社民党の候補者の存在自体は民主党の足を引っ張るだけで、選挙に立候補する意味がまったくないであろう。まったくこの党のやることは1から10まで抜けているとしかいいようがない。今からでも遅くないから社民党は選挙で恥をかく前に立候補を取り消すべきだろう。
 
 では共産党はどうか?共産党の中央はどうか知らないが、共産党愛知県委員会は当選に必要な勢いというか、覇気があまりみられない。かつては当選者まで出した県委員会なのだから、この有利な状況のなかでも情勢は流動しており、自ら街頭に打って出て、勝利をつかみ取る気概がなければ、当選などできないことぐらい分かりそうなものだが、どういうわけか、この県委員会は、うちへ、うちへと向かっているようで、何をするにしても、自信なげで、遠慮がちで、萎縮している。
 
 有権者に足し算ではなく、引き算を要求する選挙こそ、不幸であるが、それでも愛知の労働者は結果を見守っているし、われわれもまたこの選挙の結果に大きな関心を持っている。
    

二大政党時代は来ない

2007-07-05 02:17:51 | 政治
 民主党の小沢一郎氏が「二大政党時代を招来させるためにも政権の交代を」と訴えている。

 これは参議院選挙を前にして、早くも、選挙にならない、すなわち、各政党がそれぞれの主張を掲げて支持を競い合う公然たる政治闘争を行う以前の問題として、どういうわけか自由民主党がオウンゴールを重ねて、(昔なら自責失点を重ねて自滅したと表現したのだろうが)すでに敗色濃厚となっていることを受けて政権への意欲を示した発言であろう。

 しかし、日本に二大政党時代が来ることはないであろう。

 それはいうまでもなく、自由民主党という党の独自性からきている。自由民主党は結党以来、長年にわたって政権を独占してきた。これは、日本の真の支配階級である資本の勢力が自分たちの党として育成してきたためである。

 したがってこの党では、自由民主党が政権を独占している政党であるから自由民主党の党員であるという連中が党員の過半数を超えており、党員の8割以上が何の政治的な信念もないのに、自由民主党が政権政党であるという理由だけで、自由民主党の党員をやっている連中で占められている。そういう点では自由民主党はソ連時代のソビエト共産党や北朝鮮の朝鮮労働党ときわめてよく似ている。

 またこの党の政策のほとんどが各省庁の官僚が策定したものをそのまま取り入れたもので、日本資本主義の特徴である政・財・官の癒着をそのまま体現している党でもあった。

 そういう政党が政権を失ったらどういうことになるのか?自由民主党から政権をとったら何も残らない、政党として自立することすらおぼつかない、離党者が続出して瓦解するほかないみじめな“犬の党派”にすぎないことはすぐにでも明らかになるであろう。

 1990年代に、一時期政権を失った自由民主党が、首相の座を社会党(現在の社会民主党)ゆずってまで社会党と連立を組むという“離れ業”を行って政権に復帰することを熱望したのは、まさに彼ら(自由民主党の幹部)自身が自分たちの政党の特殊性をよく認識していたからにほかならない。

 しかし、続く橋本、森内閣のもとで、日本資本主義の危機、すなわちバブル経済崩壊後の深刻な経済危機の時代に、自民党は政・財・官の癒着体質をそのまま残しており、時代にたいする対応能力に欠けていたので、自由民主党の党勢はじり貧状態になっていった。

 したがって、小泉純一郎が、「自民党をぶっ壊す」といって登場したのは、一つの必然であるし、この政権は“危機管理内閣”の性格をはじめからもっていた。

 政治的な危機としては、すでに時代に適合しなくなっている利益誘導型の政治を、「改革幻想」で人々をあおり、都市の浮動層(その多くが組織されていない労働者階級)の支持をかき集めるというポピュリズム(大衆扇動政治)に転換することによって解消しようとするものであった。

 財政的な危機としては、放漫財政から緊縮財政への転換を図るもので、これは必ずしもうまくはいかなかった。当然のことであるが、財政的な危機の背後には、経済的な危機があり、景気の停滞による税収の落ち込みに対処するために、毎年、つねに一定規模の国債の発行によって財政の落ち込み分を補填するしかなかったからである。

 しかし何よりも小泉「改革」の一番の「功績」は、彼が日本資本主義の危機を「日本の危機」として演出したことだった。この時代、失業者数は300万人を超えており、労働者階級に大きな犠牲が強要されていた時期であった。このような時、改革は痛みをともなうが、その痛みをみんなで分かち合おうという小泉の主張こそ、人々の望んでいるものであった。

 現実にはそれが労働者階級に一方的に犠牲を押しつけるものであっても、労働者はそれを甘受したし、甘受するほかなかった。当然のことながら、破滅的な財政危機はこれまでの社会改良的な政策のもとでの積極財政の結果であったし、国内のいろいろな利益団体にたいする空約束の結果としての、ばらまき財政や放漫財政がもたらしたものにほかならなかったからである。

 1970年代に華々しく誕生した「革新自治体」が、構造不況と地方財政の悪化のなかで、巨額の負債だけを残してつぎつぎに姿を消したように、橋本内閣のもとでの景気の落ち込みと、銀行が抱える大量の不良債権の存在とそれにともなう信用不安の勃発は、口先だけの「改革の党」(共産党、社民党)に深刻な打撃を与え、野党の支持率は低迷するようになった。労働者自身がそのようなきれい事ばかり言う政党を信頼しなくなりつつあったのである。

 つまり、日本の労働者階級は、「資本主義を前提にした改革」を、ケインズ的な積極財政や福祉国家といった、これまでのように財政を悪化させ、後世にツケを残すようなやりかたではなく、規制を取り払って、資本の競争力を強化するというやり方をより現実的なものとして支持したのである。実際、破綻寸前の国家財政を目の前にしては、そのような政策しか支持しえなかったであろう。

 もちろん、「資本主義を前提としない改革」という、言葉の本当の意味での社会改革の道もありうるのだが、残念なことに、この時代の左翼活動は全体として沈滞しており、多くの左翼団体の構成員自身が未来にたいする確信を喪失していた。(この時、われわれも所属していた社会主義労働者党は解党、すなわち、政党を解消して、政治運動そのものから足を洗い、マルクス主義同志会というマルクス主義研究団体へと退化するという信じがたい愚行を行っていた。)船頭がいなければ、資本主義の危機という荒波を乗り越えて、新しい大陸へと船出することなどできるはずもなかったのである。

 かくして小泉の時代が始まったが、これはアメリカにおけるブッシュの時代とも重なる。ブッシュを政権の座に押し上げたのは、ネオコンと呼ばれる、新保守主義、新自由主義の潮流であり、こちらはむしろ自由資本主義を世界に広げるという意味合いが強かった。

 このネオコンのグローバリズム(地球的な規模での資本主義的発展)のもとで、BRICs諸国(ブラジル、ロシア、インド、中国等の新興工業国)の急速な資本蓄積が行われ、特に中国は日本に変わる「世界の工場」として登場した。

 この新しい何もかも飲み込み、何もかも排出するかのような巨大な工業国の登場は世界的な規模での資本主義の繁栄をもたらし、日本資本主義もこの世界的好況のなかで、短期間に深刻な過剰生産、過剰資本、過剰信用の危機から抜け出すことができた。

 したがって小泉の時代は日本資本主義が不況から抜け出し、輸出(資本の輸出と商品の輸出の両方)をテコにした景気の回復を果たした時代と重なったために、小泉政治にたいする幻想は途方もないほど膨れあがっていった。

 その頂点が2005年の郵政選挙であり、この選挙で自民党は空前の大勝利を得た。多くの有権者が小泉の郵政民営化構想に飛びつき、郵政が民営化されれば、日本の困難のすべてが解決されるかのような幻想に酔いしれた。しかし実際には、日本資本主義が陥っていた困難はすでに解決されていたのである。

 小泉に続く、安部自民党は、小泉時代につくられたいくつもの幻想を出発点にしている。

 その第一が、小泉時代の特徴の一つである民族主義的、排外主義的な傾向である。それは何よりも長く続いた不況の産物であった。停滞する日本と躍進する中国、韓国の姿は一部の若者に劣等感の裏返しである、反中国、反韓国、反北朝鮮の感情を生み出していた。

 こういう若者の多くが就職氷河期と呼ばれる若年層の失業が顕著であった時代の申し子で、日本資本主義が若年労働者に多くの困難と犠牲を押しつけ、労働組合や野党が既存の利益を守るのにきゅうきゅうとして彼らに救いの手をさしのべることができなかった時代の申し子でもあった。

 しかしこの感情は確固としたものではなく、景気の回復とともに若者の就職状況が緩和されるにつれて、雪が溶けるように、日本の社会において希薄化してしまっている。

 幻想の第2は、小泉のペテン政治である。安部晋三は小泉のそばにいて、彼のペテン政治をつぶさに見ており、人々をペテンにかける術を学んだが、彼が学ばなかったのは、小泉のペテン政治が有効であったのは、この時代に、何よりも、ペテンにかけられたいと人々自身が願っていたからであったことを忘れている。月も星もない暗闇のなかで、人々は小泉に一筋の光明を見たのである。

 しかし現在はもう暗闇ではないし、人々の視界も開けている。こういう時代には、オーロラの光のような冷たい光を人々はもう必要としないのである。

 そういう点では、安部晋三は過ぎ去った過去の追憶にのみ生きる政権であり、時代の変化から完全に取り残されてしまったのである。

 したがって今回の選挙で安部晋三が勝利するのは極めて難しいし、自民党自身も小泉選挙の大勝に酔いしれて、旧態依然の利権政治、政・財・官の癒着を復活させてしまっている。そういう点では自民党は安部晋三とは意味合いが違うが、過去の追憶にすがって現在と未来を忘れている。

 だから、小沢一郎氏がいうように自民党が権力の座から転げ落ちるようなことになれば、現実にたいする対応力を喪失した自民党の凋落はとめどもないものになるであろう。

 われわれは小泉が郵政総選挙で大勝したときに、自民党は5年をめどに、解体していくだろうと予測したが、その予測は今でも有効である。     

今日で国会は事実上閉幕?!

2007-07-01 00:07:41 | 政治
 本日、年金、社保庁法が参議院本会議で可決されて、延長国会は“事実上の閉幕”を迎えという。
 
 どうもよく分からない。
 
 安倍晋三と自由民主党は5日の延長、すなわち、6月30日までに間に合わないからといって、国会を12日延長すると言ったではなかったのか?そのために強行採決までしたのではなかったか?
 
 ところが6月30日ですべて終わってしまったとするなら、12日間も国会を延長する必要はなかったのではないか?そしてこれが最初からの予定であったとするなら、安倍晋三と自由民主党は国民をだましたことになる。
 
 しかもそのやり方は委員会採決を省略するという強引なもので、まさに独裁そのものだ。
 
 スターリン体制下のソ連や戦前の翼賛国会で与党が圧倒的多数を占めているからといって、法案の審議をろくにせずに、国会が政府の意のままに、法案を通過させていたのは果たして民主主義であったろうか?
 
 この場合、民主主義は形式的なもので、内実は独裁と判断するほかあるまい。なぜなら、デモクラシー、すなわち、デモス(民衆)のクラシー(統治)の基本は、人々が集まって、焦眉の問題を話し合いをして決めるところにあるからだ。
 
 安倍晋三と自由民主党の政治は、この“話し合い”という、民主主義のもっとも基本的なところが欠けているために、独裁政治に転落してしまっている。
 
 ではなぜ、その独裁政権は、必要性のまったくない国会延長を行ったのか?
 
 それはいうまでもなく、現在の政治状況と参議院選挙を時間的に引き離したいと考えているからにほかならない。
 
 現在の政治状況は、この独裁政権が自ら生み出したものにほかならない。国民投票法案、自衛隊の省への昇格、教育基本法の改正等、この独裁政権は、数の力によって人々の意にそわない法案をつぎつぎに強行採決してきた。このような政治手法は当然人々の反感を買い、この政権の支持率は崩落した、つまり、安倍晋三と自由民主党は完全に国民の信を失ったのである。そして当然のことながら、安倍晋三と自由民主党にたいする国民の怒りが増幅するのに比例して、野党も勢いづき、国会は怒声の飛び交う修羅場となっていった。
 
 そして参議院選挙が近づくにつれて、安倍晋三と自由民主党は、有権者である国民に、これまでの国会のできごとを忘れてもらいたいというのである。その忘却期間として一週間という時間が設定されたのだが、安倍晋三と自由民主党は、参議院選挙で実績をアピールして戦うというのであるから、よけい分からなくなる。
 
 参議院選挙で、あの法案も、この法案も全部、野党を蹴散らして、強行採決でやったんですよ、公務員法なんか、委員会採決抜きで、強行採決ですからね、すごいものでしょうなどといえば、一週間参議院選挙を延期した意味など、まったくないのと同じではないか。
 
 何かわれわれは時間軸をはるかにさかのぼって、市民社会以前の啓蒙専制君主の時代へと引き戻されてしまったような感じがする。「国民は君主のためにつくられたのではなく、君主が国民のためにつくられたのである」という有名な言葉を残したロシアのエカチェリーナ(カザリン)2世は啓蒙思想家のヴォルテテールのパトロンでもあったのだが、その開明的な君主はロシアの国民、すなわち、コサック農民が重税にたえかねて“プガチョフの反乱”とよばれる農民反乱を引き起こすと、烈火のごとく怒り狂って、ロシアの農民を苛烈に弾圧し、残虐な方法で虐殺した。
 
 われら大日本帝国の啓蒙専制君主も、臣民の代表を国会で踏みにじりながら、「朕はなんじら臣民のために生きているのであるから、朕に感謝して、服従せよ」とのたまうのである。
 
 笑えるとしか言いようがないが、これが21世紀の日本であるというのであるから、本当はこの笑い話は、笑い事ではないかもしれない。
    

まだ底値ではない

2007-06-25 00:22:44 | 政治
 自民党のエライ人によれば、安倍内閣の支持率は今が底値で、これから上向いていくそうだ。
 
 しかし、何を根拠に“底値”といいうるのか?
 
 内閣支持率を株価に例えるならば、かのバブル経済の時、株価は3万9千から8千円を割り込むまでに下落した。およそ5分の1まで落ち込んだのだが、1929年の世界恐慌時もこの程度の落ち込みようだった。
 
 現在、安倍内閣の“信用恐慌”が起きているのだから、当然、最盛期の70%÷5=14%程度までへの下落が“世間相場”というものであろう。
 
 現在、30%程度の支持率で推移しているのは、このあたりが与党の支持率だからであり、保守の岩盤にかろうじてしがみついているだけだ。
 
 しかし、本当の地殻変動はこれから始まる。
 
 すでに政治は限りなく流動化しはじめており、日本の有権者は変化を求めている。そして最近では、自分の投票行動でその変化は招来するであろうという確信すら持ち始めている。
 
 そういう点では、1989年の参議院選挙時と非常に似通った情勢になりつつある。あの時もナントカいう愚かな人間が総理大臣をやっていて、総理大臣の愚かさが日本国民を覚醒させたのであった。
 
 それが結局、自民党の単独支配の終わりを告げさせたのだが、同じようなことがまたおこるかもしれない。その可能性は日々大きくなっている。