中核派が“党の革命”で揺れている(らしい?)。
われわれは単なる“外野”だから詳しいことは分からないし、詮索するつもりもないのだが、ここで闘わされている議論は、日本共産党の1950年代やマルクス主義労働者同盟(社会主義労働者党)の1970年代を想起させるものである。
(残念ながらロシアのボルシェビキはこの“革命政党”いつかはたどらなければならない進化の過程をたどることができなかった。われわれはこれを当時のロシアの情況から避けることができなかった不幸な出来事であると考えている。ボルシェビキは陰謀的秘密組織からいきなり単独の支配政党になってしまったので、労働者党にとって何が必要な資質であり、何が重要なことがらなのか、ということを労働者のなかで自らの行動を通じて学ぶことができなかった。そういう点では、労働者党は、公然たる政治闘争という“塩の海”でゴシゴシと洗われて、鍛えられなければならないものなのかもしれない。スネにキズをもつ者が痛くて逃げ出してしまうような苛酷な環境のなかでこそ、労働者党は真に労働者の党として育っていくのである。)
卑近の例からいうならば、われわれの青春時代、全国社研はマルクス主義労働者同盟に進化し、労働者の政党になろうとして、“社会主義と労働運動の結合”と“公然たる政治闘争への参加”を掲げた。
しかし、誕生したばかりのマルクス主義労働者同盟は、単なる新左翼の元活動家の寄せ集めでしかなかった。だから、まだ“陰謀家集団”により近く、同盟員は自分の名前のほかに“組織名”という一種のペンネームを持っていた。
そして、この“組織名”で国政選挙に参加しようとしていたから、選挙のたびにマスコミと一悶着あった。「なぜ偽名で立候補するのか?」「そういうことは有権者をだます行為ではないか?」「君たちは何かを隠している政党であると有権者に見られてもいいのか」等々という質問というよりも批判があった。はっきり言ってこの場合、われわれよりもマスコミの皆さんの方が正しかった。(特に愛知で立候補した人は「2、4が8朗」というとってつけたような“組織名”だったので、立候補を表明するための記者会見の場はまるで「テロリスト」のつるし上げ会場のようだった。そのとばっちりはこっちまで飛んできて、名前を聞かれたので、「夏に山にいくと樹が繁っているという夏山繁樹」と答えたら、「2、4が8朗」と同じじゃないか、「君たちは遊びのつもりで選挙をやろうとしている」と食ってかかって来た新聞記者がいたので、『大鏡』で話の進行役をやっているおじいさんとおばあさんのうち、昔のことは何でも知っているおじいさんの名前も夏山繁樹というんだよと答えたら、それは何の解答にもなっていないと言われた。)
それで、「それならばいっそ」ということで、われわれは“組織名”を全部廃止することにした。公然たる政治闘争は政治組織の公然化を前提とすると考えたからである。
もちろん、機関紙の読者であるとかシンパや支持者、特別の職業に就いている党員や経験の少ない新しい党員など、名前を秘匿することが正当であると認められる場合はあるにしても、各級機関の指導的な地位にある党員は自分の本名で活動しなければならないとわれわれは考えた。
しかし、こういう簡単なことですら大会では大問題となり、「党の公然化」はマル労同の代議員から評判がよくなく、けんけんがくがくの議論が行われた。
評判があまりよくないにもかかわらずこの決議案が大会を通過したのは、われわれの活動がそれを要請していたからでもある。
われわれが労働組合のなかで活動するにしても、すでに労働組合のなかで支配権を確立している“組合主義者”(この組合主義者のなかには左翼政党を自称する組合主義者もいる)であるならば、それこそ裏で画策したり、秘密裏に組合の“指導会議”(実際には指導というよりも支配という言葉が適切であるが)を開いて、組合の運動方針をあらかじめ策定するということも可能であるが、労働組合のなかで公然と労働者の利益を守るために活動するのであれば、その名前は全組合員に周知されるし、周知されなければおかしいし、そういうことを恐れるのはもっとおかしい。
また駅頭や大衆集会でビラをまいたり、演説したりすることも同様である。「あっ、あの人だ」ということは、風よりも速く周囲に広がるのであり、名前を秘匿して活動することの意味はほとんどなくなる。(もっともわれわれは管理職に昨日お前はどこそこの駅頭でアジ演説をやっていただろうといわれて「はいそうです」などということを推奨しているわけではない。正直に答える義務のない者の質問にまで答えることをわれわれは推奨しているわけではない。)
このように、われわれは“気分は新左翼”だが、すでに実質的には別のものになっていたので比較的小さな動揺で「党の公然化」をなしとげたのに対して、日本共産党の「党の公然化」は、分派闘争と大量の党員の除名、脱落という長く続く大きな苦痛をともなう過程として行われている。
周知のように、日本共産党は1951年の四全協(日本共産党の規約では全国協議会は大会に代わって中央委員会が地方の代表を招集することになっているが、この時は中央委員会の主流派のメンバーのみによる不正規な招集であった。もっとも後日、主流派の徳田球一と国際派の袴田里見はモスクワに呼び出されて、スターリンの前で論争をさせられ、スターリンは主流派の見解を支持したので、袴田里見はその場で自己批判書を書き、その後、反主流派であった国際派全体が主流派に寝返った。したがって、四全協は不当であるという現在の日本共産党の見解は当てはまらない。)以来、日本共産党は「軍事方針」を掲げ、「ストライキの武装化、遊撃隊の組織化、パルチザン人民軍の創設」を基本方針に掲げて、極左冒険主義の時代へと入っていく。この頃の共産党は公然面の指導部と地下で非合法な軍事部門を指導する地下指導部の二重の指導部が存在していた。
しかし、日本共産党の武装闘争は労働者の支持を得ることができず、52年の総選挙では、かつて300万票あった全国での獲得票が89万票にまで激減し、衆議院の議席をすべて失った。53年の「バカヤロウ解散」ではようやく大阪で川上貫一が当選を果たしたが、全国での得票数はさらに減少して65万票にまで落ち込んでしまった。
労働者から完全に見捨てられて日本共産党は政党として存亡の危機のなかにあったのだが、この時ようやくスターリンが3月に、徳田球一が10月に死んでくれた(徳田は53年前半には病気が悪化して党の指導が不可能になっていた)ので、9月に地下指導部の伊藤律を「スパイ・裏切り者」として処分し、以後、日本共産党内では「第二次総点検運動」が提起され、敵のスパイや挑発者、堕落・不純分子の摘発運動が行われた。
党内で密告や告発が奨励され、告発を受けたものには厳しい「査問」が行われた。この「点検運動」は共産党のすべての機関、すべての地方組織で行われたので、全国で共産党の監禁事件、リンチ事件が相次いだ。この時、「査問」を受けて処分された党員は1200人を越えており、その半数近くは共産党の各級機関の中堅党員であった。
このように共産党は1年以上も「党内闘争」に全勢力を傾注した後で、1955年1月1日の『アカハタ』紙上でようやく、極左冒険主義を自己批判し、このような誤りは二度とおかさないと誓っている。
以後、地下活動に従事していた党員が続々と公然面に復帰し、7月には「六全協」が開かれこれまでの軍事方針を正式に放棄したことを決定している。
しかし、話はこれだけでは終わらなかった。というのは翌56年1月に共産党の最高幹部である志田重男が突然、失踪してしまったのである。これは志田重男の党費の使い込みやその党費を使っての頽廃した生活、女性とのスキャンダルなどが発覚しそうになったために、党から逃げ出してしまったのである。
そして志田重男の失跡とともにこの間の共産党の事情も次第に明らかになっていった。
つまり、志田重男は共産党の地下指導部の最高責任者であったが、共産党の極左冒険主義が完全に行き詰まるなかで、方向転換を模索していたが、その方向転換によって自分たち地下指導部が失脚するのを恐れて、「党の公然化」の前提条件作りとして、表の指導部を弱体化させ、自分たち地下指導部が共産党の実権を握った上で、地下指導部を解消して、自分たちが表の指導部と入れ替わることを画策し、そのための「査問活動」であったということである。
ところが、公然面に出てきた志田指導部に対して、一般党員の反発が強く、地下活動時代の自分たちの「悪行」まで暴露されそうになったので、志田はたまらず逃げ出してしまったのである。
こうして志田の権力闘争はまったくの徒労に終わったが、それにしても共産党が「軍事方針」というまったく間違った方針を掲げてから、その間違いを修正するまでになんと5年以上もかかり、この間多くの共産党員が犠牲になったのである。
そして現在、革共同中核派は、不思議なことに、この共産党の四全協から六全協への歩みと同じ道を歩いているように思う。
「不思議なことに」というのは、この四全協から六全協への歩みは日本共産党が典型的なスターリン主義の党であったから起こりえたことであるからだ。ところが革共同中核派は「反スターリン主義」を掲げる政党であったはずだからである。
しかしよく考えてみると、これは不思議なことではないのかも知れない。というのは、この政党のかつての代表者であった本多延嘉氏は昔、こんなことを言っていた。
彼は革命家になる決意で共産党に入ったきっかけは四全協だったそうである。
その彼が共産党の活動に疑問を感じたのは六全協がきっかけであったという。
その後本多氏はハンガリー事件をきっかけに黒田寛一氏と合流し、59年に革命的共産主義者同盟全国委員会を設立しているのだが、本多氏が、四全協に共産党の革命性を見て、六全協に共産党の前衛性、革命性の喪失を見、この前衛性、革命性の喪失をスターリン主義と規定するなら、それは大きな事実誤認があるといわなければならない。
というのは、四全協こそスターリン主義そのものであり、スターリン自らが朝鮮戦争時に、日本共産党に後方攪乱のために武装闘争を行えと指示し、権威にしたがうことしか知らない共産党は、武装闘争のための条件もないところで、武装闘争を行い党を破滅の淵まで持っていったのである。
そしてその誤りの修正のしかたもスターリン主義的なもので、非合法活動時の指導部は極左冒険主義は間違いであるといった後も責任を取らず、むしろ路線転換を決意した後も指導権を維持するために無意味な「査問」活動を党員に強要し、自らの競争相手をあらかじめ「粛清」という卑劣な手段で排除した後で、公然面に登場してかたちだけの自己批判を行い党の指導権を握り続けようとしたのである。
六全協に積極的な意味があるとしたら、それは党の指導部の意向とは違って、党員が六全協を契機にして「党の公然化」を本当に望み、全国各地で志田指導部に対する批判の声が上がったことであろう。
四全協こそ革命の原点であると考えていた本多氏によってつくられた革共同中核派は、組織の全歴史をこの共産党の分裂時代に依存している。すなわち、共産党に起こったと同じことをやらなければならないのである。
革共同中核派はすでにかつて掲げた、革命軍の創設という極左冒険主義的な方針を何年も前から実行できなくなっている。自分たちの掲げた方針が実行できなければ、方針を転換するほかないのだが、スターリン主義的な組織原則をいまだ保持し続けているこの「反スターリン主義の党」は、何ごとも「粛清」なしには変えることができない。
それで大規模な「点検運動」と処分者を排出し、「党の革命」を現在遂行中だが、日本共産党が六全協によって死の淵からかろうじて救われたように、革共同中核派にも六全協がなければ、この先待っているのは垂直に切り立った崖なのだから、諸君たちはあと少しで終わりだ。死の淵というのはそういうものであろう。。
われわれは単なる“外野”だから詳しいことは分からないし、詮索するつもりもないのだが、ここで闘わされている議論は、日本共産党の1950年代やマルクス主義労働者同盟(社会主義労働者党)の1970年代を想起させるものである。
(残念ながらロシアのボルシェビキはこの“革命政党”いつかはたどらなければならない進化の過程をたどることができなかった。われわれはこれを当時のロシアの情況から避けることができなかった不幸な出来事であると考えている。ボルシェビキは陰謀的秘密組織からいきなり単独の支配政党になってしまったので、労働者党にとって何が必要な資質であり、何が重要なことがらなのか、ということを労働者のなかで自らの行動を通じて学ぶことができなかった。そういう点では、労働者党は、公然たる政治闘争という“塩の海”でゴシゴシと洗われて、鍛えられなければならないものなのかもしれない。スネにキズをもつ者が痛くて逃げ出してしまうような苛酷な環境のなかでこそ、労働者党は真に労働者の党として育っていくのである。)
卑近の例からいうならば、われわれの青春時代、全国社研はマルクス主義労働者同盟に進化し、労働者の政党になろうとして、“社会主義と労働運動の結合”と“公然たる政治闘争への参加”を掲げた。
しかし、誕生したばかりのマルクス主義労働者同盟は、単なる新左翼の元活動家の寄せ集めでしかなかった。だから、まだ“陰謀家集団”により近く、同盟員は自分の名前のほかに“組織名”という一種のペンネームを持っていた。
そして、この“組織名”で国政選挙に参加しようとしていたから、選挙のたびにマスコミと一悶着あった。「なぜ偽名で立候補するのか?」「そういうことは有権者をだます行為ではないか?」「君たちは何かを隠している政党であると有権者に見られてもいいのか」等々という質問というよりも批判があった。はっきり言ってこの場合、われわれよりもマスコミの皆さんの方が正しかった。(特に愛知で立候補した人は「2、4が8朗」というとってつけたような“組織名”だったので、立候補を表明するための記者会見の場はまるで「テロリスト」のつるし上げ会場のようだった。そのとばっちりはこっちまで飛んできて、名前を聞かれたので、「夏に山にいくと樹が繁っているという夏山繁樹」と答えたら、「2、4が8朗」と同じじゃないか、「君たちは遊びのつもりで選挙をやろうとしている」と食ってかかって来た新聞記者がいたので、『大鏡』で話の進行役をやっているおじいさんとおばあさんのうち、昔のことは何でも知っているおじいさんの名前も夏山繁樹というんだよと答えたら、それは何の解答にもなっていないと言われた。)
それで、「それならばいっそ」ということで、われわれは“組織名”を全部廃止することにした。公然たる政治闘争は政治組織の公然化を前提とすると考えたからである。
もちろん、機関紙の読者であるとかシンパや支持者、特別の職業に就いている党員や経験の少ない新しい党員など、名前を秘匿することが正当であると認められる場合はあるにしても、各級機関の指導的な地位にある党員は自分の本名で活動しなければならないとわれわれは考えた。
しかし、こういう簡単なことですら大会では大問題となり、「党の公然化」はマル労同の代議員から評判がよくなく、けんけんがくがくの議論が行われた。
評判があまりよくないにもかかわらずこの決議案が大会を通過したのは、われわれの活動がそれを要請していたからでもある。
われわれが労働組合のなかで活動するにしても、すでに労働組合のなかで支配権を確立している“組合主義者”(この組合主義者のなかには左翼政党を自称する組合主義者もいる)であるならば、それこそ裏で画策したり、秘密裏に組合の“指導会議”(実際には指導というよりも支配という言葉が適切であるが)を開いて、組合の運動方針をあらかじめ策定するということも可能であるが、労働組合のなかで公然と労働者の利益を守るために活動するのであれば、その名前は全組合員に周知されるし、周知されなければおかしいし、そういうことを恐れるのはもっとおかしい。
また駅頭や大衆集会でビラをまいたり、演説したりすることも同様である。「あっ、あの人だ」ということは、風よりも速く周囲に広がるのであり、名前を秘匿して活動することの意味はほとんどなくなる。(もっともわれわれは管理職に昨日お前はどこそこの駅頭でアジ演説をやっていただろうといわれて「はいそうです」などということを推奨しているわけではない。正直に答える義務のない者の質問にまで答えることをわれわれは推奨しているわけではない。)
このように、われわれは“気分は新左翼”だが、すでに実質的には別のものになっていたので比較的小さな動揺で「党の公然化」をなしとげたのに対して、日本共産党の「党の公然化」は、分派闘争と大量の党員の除名、脱落という長く続く大きな苦痛をともなう過程として行われている。
周知のように、日本共産党は1951年の四全協(日本共産党の規約では全国協議会は大会に代わって中央委員会が地方の代表を招集することになっているが、この時は中央委員会の主流派のメンバーのみによる不正規な招集であった。もっとも後日、主流派の徳田球一と国際派の袴田里見はモスクワに呼び出されて、スターリンの前で論争をさせられ、スターリンは主流派の見解を支持したので、袴田里見はその場で自己批判書を書き、その後、反主流派であった国際派全体が主流派に寝返った。したがって、四全協は不当であるという現在の日本共産党の見解は当てはまらない。)以来、日本共産党は「軍事方針」を掲げ、「ストライキの武装化、遊撃隊の組織化、パルチザン人民軍の創設」を基本方針に掲げて、極左冒険主義の時代へと入っていく。この頃の共産党は公然面の指導部と地下で非合法な軍事部門を指導する地下指導部の二重の指導部が存在していた。
しかし、日本共産党の武装闘争は労働者の支持を得ることができず、52年の総選挙では、かつて300万票あった全国での獲得票が89万票にまで激減し、衆議院の議席をすべて失った。53年の「バカヤロウ解散」ではようやく大阪で川上貫一が当選を果たしたが、全国での得票数はさらに減少して65万票にまで落ち込んでしまった。
労働者から完全に見捨てられて日本共産党は政党として存亡の危機のなかにあったのだが、この時ようやくスターリンが3月に、徳田球一が10月に死んでくれた(徳田は53年前半には病気が悪化して党の指導が不可能になっていた)ので、9月に地下指導部の伊藤律を「スパイ・裏切り者」として処分し、以後、日本共産党内では「第二次総点検運動」が提起され、敵のスパイや挑発者、堕落・不純分子の摘発運動が行われた。
党内で密告や告発が奨励され、告発を受けたものには厳しい「査問」が行われた。この「点検運動」は共産党のすべての機関、すべての地方組織で行われたので、全国で共産党の監禁事件、リンチ事件が相次いだ。この時、「査問」を受けて処分された党員は1200人を越えており、その半数近くは共産党の各級機関の中堅党員であった。
このように共産党は1年以上も「党内闘争」に全勢力を傾注した後で、1955年1月1日の『アカハタ』紙上でようやく、極左冒険主義を自己批判し、このような誤りは二度とおかさないと誓っている。
以後、地下活動に従事していた党員が続々と公然面に復帰し、7月には「六全協」が開かれこれまでの軍事方針を正式に放棄したことを決定している。
しかし、話はこれだけでは終わらなかった。というのは翌56年1月に共産党の最高幹部である志田重男が突然、失踪してしまったのである。これは志田重男の党費の使い込みやその党費を使っての頽廃した生活、女性とのスキャンダルなどが発覚しそうになったために、党から逃げ出してしまったのである。
そして志田重男の失跡とともにこの間の共産党の事情も次第に明らかになっていった。
つまり、志田重男は共産党の地下指導部の最高責任者であったが、共産党の極左冒険主義が完全に行き詰まるなかで、方向転換を模索していたが、その方向転換によって自分たち地下指導部が失脚するのを恐れて、「党の公然化」の前提条件作りとして、表の指導部を弱体化させ、自分たち地下指導部が共産党の実権を握った上で、地下指導部を解消して、自分たちが表の指導部と入れ替わることを画策し、そのための「査問活動」であったということである。
ところが、公然面に出てきた志田指導部に対して、一般党員の反発が強く、地下活動時代の自分たちの「悪行」まで暴露されそうになったので、志田はたまらず逃げ出してしまったのである。
こうして志田の権力闘争はまったくの徒労に終わったが、それにしても共産党が「軍事方針」というまったく間違った方針を掲げてから、その間違いを修正するまでになんと5年以上もかかり、この間多くの共産党員が犠牲になったのである。
そして現在、革共同中核派は、不思議なことに、この共産党の四全協から六全協への歩みと同じ道を歩いているように思う。
「不思議なことに」というのは、この四全協から六全協への歩みは日本共産党が典型的なスターリン主義の党であったから起こりえたことであるからだ。ところが革共同中核派は「反スターリン主義」を掲げる政党であったはずだからである。
しかしよく考えてみると、これは不思議なことではないのかも知れない。というのは、この政党のかつての代表者であった本多延嘉氏は昔、こんなことを言っていた。
彼は革命家になる決意で共産党に入ったきっかけは四全協だったそうである。
その彼が共産党の活動に疑問を感じたのは六全協がきっかけであったという。
その後本多氏はハンガリー事件をきっかけに黒田寛一氏と合流し、59年に革命的共産主義者同盟全国委員会を設立しているのだが、本多氏が、四全協に共産党の革命性を見て、六全協に共産党の前衛性、革命性の喪失を見、この前衛性、革命性の喪失をスターリン主義と規定するなら、それは大きな事実誤認があるといわなければならない。
というのは、四全協こそスターリン主義そのものであり、スターリン自らが朝鮮戦争時に、日本共産党に後方攪乱のために武装闘争を行えと指示し、権威にしたがうことしか知らない共産党は、武装闘争のための条件もないところで、武装闘争を行い党を破滅の淵まで持っていったのである。
そしてその誤りの修正のしかたもスターリン主義的なもので、非合法活動時の指導部は極左冒険主義は間違いであるといった後も責任を取らず、むしろ路線転換を決意した後も指導権を維持するために無意味な「査問」活動を党員に強要し、自らの競争相手をあらかじめ「粛清」という卑劣な手段で排除した後で、公然面に登場してかたちだけの自己批判を行い党の指導権を握り続けようとしたのである。
六全協に積極的な意味があるとしたら、それは党の指導部の意向とは違って、党員が六全協を契機にして「党の公然化」を本当に望み、全国各地で志田指導部に対する批判の声が上がったことであろう。
四全協こそ革命の原点であると考えていた本多氏によってつくられた革共同中核派は、組織の全歴史をこの共産党の分裂時代に依存している。すなわち、共産党に起こったと同じことをやらなければならないのである。
革共同中核派はすでにかつて掲げた、革命軍の創設という極左冒険主義的な方針を何年も前から実行できなくなっている。自分たちの掲げた方針が実行できなければ、方針を転換するほかないのだが、スターリン主義的な組織原則をいまだ保持し続けているこの「反スターリン主義の党」は、何ごとも「粛清」なしには変えることができない。
それで大規模な「点検運動」と処分者を排出し、「党の革命」を現在遂行中だが、日本共産党が六全協によって死の淵からかろうじて救われたように、革共同中核派にも六全協がなければ、この先待っているのは垂直に切り立った崖なのだから、諸君たちはあと少しで終わりだ。死の淵というのはそういうものであろう。。