我々の神経系統は積極心を発動すると 健康方面だけでなく精神面でもあらゆる人生苦を排除出来る様に出来ている。
それが本来の人間の姿なのだ。その様に造物主は人間を創られたのだ。
にもかかわらず、健康や運命に問題をかかえている人の多いのはどうしたことか。
精神の力が心の力が惨めなほど弱くなっているからだ。
生活している周囲は消極的な暗示で充満している。
暗示というやつは理屈抜きでその人の判断も、感情も巻き込んでしまう。
諸君は言語も行動も現象も、周囲に積極的な暗示のない世界に生きているのだ。
しかし、信念が強くなればそんなのへいちゃらだ。
例えば、私は昔ある朝突然声が出なくなったことがある。
コーヒーをもう一杯頼もうとして「もう一杯」という言葉が出ない。「うっ」だけしか出ない。
3日後に北海道に行く予定があった。
そこで、野崎さんが私のことだから医者へ行けと言っても行かないだろうと思って友人である医者に連絡をしたらしい。とぼけた顔をして、遊びに来たような振りをしてその友人の医者が訪ねてきた。
「どうした」と言いながら私の口の中を見た。最初は笑いながら見ていたが、 やがてだんだん険しい顔になってきた。
「先生どうですか?」と家内等が訊ねると、「こりゃ、癌だ、それも相当ひどい癌だ」と言う。
「90%助かる見込みがない、仮に治って命は助かっても、声は出ないだろう」と言われた。
有名な医者にこんな風に言われたら諸君ならどうだい。
私はその時側にあった紙に「入院はしない、北海道に行く」と書いた。
すると医者は「行ったら死ぬ」と書いた。私は「俺は耳が聞こえる」と書いてやった。
そうして北海道へ行った。北海道では会場に溢れんばかりの聴衆であった。
会の責任者が「天風先生は声が出ないので講演は出来ない」と説明をした。
すると「顔だけでも見せろ」と皆が騒いだ。
それを聞いて、そこまで言ってくれるならと胆をきめて演壇へ出て行った。
クンバハカ体制をしてから「諸君!」と叫んだところ、声と共に大きな血の固まりが喉から飛び出した。
後は、話しながら血がとめどなく出てきた。
聞いていた連中も「先生、もう結構ですからお休み下さい」とみんなで止めに入った。
私は「心配するな、出ているのは俺の血だ、お前の血ではない。どうせ死ぬまでは生きているのだ。
悪い血が出てしまえば、自然に止まる。」と言ってとうとう講演を最後までした。
その夜は39度の高熱を出して寝た。それから4.5日寝ていたらすっかり良くなってしまった。
諸君なら「癌だ」と言われた途端にヘナヘナとなってしまわないかい。
君等は誰かが「あっち向け」とか「こっち向け」と命令したら 「ハイ!ハイ!」って喜んで言うことをきくかい。「何だこの野郎!」って言うだろう。
それぐらいの根性を持っていながら、暗示に対しては何でも同調して少しのためらいもない。
こんなおかしいことをおかしいと思わないおかしい事をしている。
誰にでもある本能心の中には人類の古い時代の記憶が残っている。
動物的欲望とか感情情念が多くある。古い時代は自分の命は自分で守らなきゃならない。
そんな切羽詰まったことが日常的な時代には すぐに怒ったり憎んだり妬んだりそねんだりするという事も止むを得なかった。
しかし、現代ではそんな感情は必要ないのだ。そんな感情はむしろマイナスなのだ。
私だって怒ったり、悲しむことは人並みにある。
ただ、諸君と少し違うのは、たとえ怒ってもすぐに止める。パタッと止める。
諸君は違う。一旦怒りだしたら、もうそりゃ、念を入れて怒るぜ。
猿の手に取り餅を掴ませたようなものだ。
何度もやっちゃいけないが、いっぺん動物園へ行って誰もいないときやってみたら判る。
取り餅があっちに付き、こっちに付きどうしようもなくなる。諸君もそうだ。
何かの感情心にとらわれると今までニコニコしていた奴の顔色がころっと変わる。
本能心は肉体を守るために与えられたもので古代では必要な感情ではあるが 現代ではそんなものは必要ないのに、今だにそんな古い感情に振り回されているのだ。
この感情は必要、この感情は不必要なんていう分別は出来ない。見えないんだから。
何か諸君の心を暗くするものがあった時に考えて見ろ。
それはあなた方の本当の心が言っているのではない。本能心の中に整理されていない本能心がある。
役に立つものと害を与えるものの2つがある。人間の心の中に低級な動物的欲望がある限りは、 平静な心を乱してしまう。最初に言うた様に本来は穏やかに生きれるのだ。
その様に出来ているのだ。1960年、もうそろそろこのように生きよう。
ある時坊さんに檀家の人が尋ねた。「安心立命を心に味わって生きるにはどうしたらよろしいか」と。
「簡単なことだが、今聞いたのでは有り難みがないので7日間塩断ち、茶断ちをし、 六根清浄けがれをとって来なさい」と言われた。
いよいよその日を迎えたらご本尊の前で教えてくれた。
「安心立命を自分のものにするには"らしく"生きなさい」と答えられた。
どんなに時代が変わっても犬は犬らしく、馬は馬らしく生きている。
ところが人間は本当に人間らしく生きているだろうか。
これは本当の人間の思うこと、考えることなのかと内省してみたら判る。
"らしく"生きないから、生命力の弱った生き方になるのだ。
さて、それではどうしたら自己陶冶ということが出来るか。
よく人は「そんなことを考えたらいけない」というような教え方をするが しかしそうは簡単にいかない。
何故なら、いけないとかいいとかの善悪を判断するのは理性心なのだが理性心には、 本能心を統御する力はない。本能心はわがままな学生で、理性心は家庭教師のようなものだ。
言うことなんか聞くかい。理性心で本能心が統御出来るならば何の苦労もない。
それが出来ないから「学んでいよいよ苦しむ、極めていよいよ迷う」という心の状態になるのだ。
一つの例を話す。神経過敏な人には為になる話だから良く聞きなさい。
知り合いに青山という患者思いのいい医者がいた。
常々「死ぬ時は心臓病かなんかでコロッと逝くのがいい、癌だけは嫌だ」と言って いつもそれを気にしていた。その医者が癌で死んだ。それも偽癌だった。
つまり、いつも「癌で死にたくない」「癌で死にたくない」と気にしていたら 本当に癌になってしまった。本人が自分は癌だと信じていた。
そして死後解剖をしたら脂肪瘤が出来ているだけだった。コブだった。
神経というものは恐ろしいものだなあとつくづくその時に思った。
本人が癌だと信じているということは、 大家といわれる医者でも本能心の中のつまらぬ事を気にするよくない心が残っていたんだね。
自己というのが出来ていなかったんだね。
それでは、自己陶冶の方法を教えるが、先ず第一にすでに教わっている観念要素の更改、 積極観念養成、神経反射の調節の3つをしっかり行うことである。
次に、言葉に注意すること。「俺は酒に弱い」なんて言う言葉も良くない。
「強くない」と言えばいいのだ。私はどんな場合でもマイナスな言葉は使わない。
私はあなた方が聞いていて心が暗くなるような事を決して口にしない。
ところであなた方はどうだい。言葉はどんなに気を付けても気を付け過ぎることは無い。
言わなくてもいい言葉を随分言っているぜ。
そして同時に必要なのは態度。芝居ひとつ見ても判る。
心中に行く奴がお祭りに行くような態度をとったら芝居になるかい。
同様に祭りに行く奴が心中しに行くような態度をするかい。
態度はそのまま心に映る鏡のようなものだ。
嘘でもいいから「真理に目覚めた人間としての態度」で生きろ。
「真理に目覚めて生きよう」と思ったらもう真理に目覚めて生きているのだという プライドを持っていきりゃいいんだ。
東京へ向かって歩くつもりで歩いていればいつかは東京に着くんだ。
そんな気持ちで5年、10年やってみろ。
態度によって暗示の同化を受けちゃうんだ。
笑ってご覧、決して腹は立たない。態度と言葉、これは大切だよ。
それからもう一つ必要なことは「つぶやき」の自己暗示法である。観念で独り言を言えばよい。
「こんな事で悲しくない。こんなのに負けるものか。」と独り言をつぶやけばよいのだ。
終わりにもう一つ、良い心がけを教える。平素努めて心の中で行う想像を積極的なものにする。
始終心の中を百花繚乱とする。
日常、一寸した時間がある時でも、自分が楽しめる、喜べる、楽しみを心に描くようにする。
やらなきゃ駄目だよ。自分の命に対して親切心を出しなさい。
他人の命じゃない。子供の頃から長い間何の手当もせずきたのだからサビついてしまった心の態度を なおすのだから大変だ。失敗しても悔やまなくっていいんだ。
100編に1回でも出来りゃ、そのうちいつでも出来るようになる。
それが本来の人間の姿なのだ。その様に造物主は人間を創られたのだ。
にもかかわらず、健康や運命に問題をかかえている人の多いのはどうしたことか。
精神の力が心の力が惨めなほど弱くなっているからだ。
生活している周囲は消極的な暗示で充満している。
暗示というやつは理屈抜きでその人の判断も、感情も巻き込んでしまう。
諸君は言語も行動も現象も、周囲に積極的な暗示のない世界に生きているのだ。
しかし、信念が強くなればそんなのへいちゃらだ。
例えば、私は昔ある朝突然声が出なくなったことがある。
コーヒーをもう一杯頼もうとして「もう一杯」という言葉が出ない。「うっ」だけしか出ない。
3日後に北海道に行く予定があった。
そこで、野崎さんが私のことだから医者へ行けと言っても行かないだろうと思って友人である医者に連絡をしたらしい。とぼけた顔をして、遊びに来たような振りをしてその友人の医者が訪ねてきた。
「どうした」と言いながら私の口の中を見た。最初は笑いながら見ていたが、 やがてだんだん険しい顔になってきた。
「先生どうですか?」と家内等が訊ねると、「こりゃ、癌だ、それも相当ひどい癌だ」と言う。
「90%助かる見込みがない、仮に治って命は助かっても、声は出ないだろう」と言われた。
有名な医者にこんな風に言われたら諸君ならどうだい。
私はその時側にあった紙に「入院はしない、北海道に行く」と書いた。
すると医者は「行ったら死ぬ」と書いた。私は「俺は耳が聞こえる」と書いてやった。
そうして北海道へ行った。北海道では会場に溢れんばかりの聴衆であった。
会の責任者が「天風先生は声が出ないので講演は出来ない」と説明をした。
すると「顔だけでも見せろ」と皆が騒いだ。
それを聞いて、そこまで言ってくれるならと胆をきめて演壇へ出て行った。
クンバハカ体制をしてから「諸君!」と叫んだところ、声と共に大きな血の固まりが喉から飛び出した。
後は、話しながら血がとめどなく出てきた。
聞いていた連中も「先生、もう結構ですからお休み下さい」とみんなで止めに入った。
私は「心配するな、出ているのは俺の血だ、お前の血ではない。どうせ死ぬまでは生きているのだ。
悪い血が出てしまえば、自然に止まる。」と言ってとうとう講演を最後までした。
その夜は39度の高熱を出して寝た。それから4.5日寝ていたらすっかり良くなってしまった。
諸君なら「癌だ」と言われた途端にヘナヘナとなってしまわないかい。
君等は誰かが「あっち向け」とか「こっち向け」と命令したら 「ハイ!ハイ!」って喜んで言うことをきくかい。「何だこの野郎!」って言うだろう。
それぐらいの根性を持っていながら、暗示に対しては何でも同調して少しのためらいもない。
こんなおかしいことをおかしいと思わないおかしい事をしている。
誰にでもある本能心の中には人類の古い時代の記憶が残っている。
動物的欲望とか感情情念が多くある。古い時代は自分の命は自分で守らなきゃならない。
そんな切羽詰まったことが日常的な時代には すぐに怒ったり憎んだり妬んだりそねんだりするという事も止むを得なかった。
しかし、現代ではそんな感情は必要ないのだ。そんな感情はむしろマイナスなのだ。
私だって怒ったり、悲しむことは人並みにある。
ただ、諸君と少し違うのは、たとえ怒ってもすぐに止める。パタッと止める。
諸君は違う。一旦怒りだしたら、もうそりゃ、念を入れて怒るぜ。
猿の手に取り餅を掴ませたようなものだ。
何度もやっちゃいけないが、いっぺん動物園へ行って誰もいないときやってみたら判る。
取り餅があっちに付き、こっちに付きどうしようもなくなる。諸君もそうだ。
何かの感情心にとらわれると今までニコニコしていた奴の顔色がころっと変わる。
本能心は肉体を守るために与えられたもので古代では必要な感情ではあるが 現代ではそんなものは必要ないのに、今だにそんな古い感情に振り回されているのだ。
この感情は必要、この感情は不必要なんていう分別は出来ない。見えないんだから。
何か諸君の心を暗くするものがあった時に考えて見ろ。
それはあなた方の本当の心が言っているのではない。本能心の中に整理されていない本能心がある。
役に立つものと害を与えるものの2つがある。人間の心の中に低級な動物的欲望がある限りは、 平静な心を乱してしまう。最初に言うた様に本来は穏やかに生きれるのだ。
その様に出来ているのだ。1960年、もうそろそろこのように生きよう。
ある時坊さんに檀家の人が尋ねた。「安心立命を心に味わって生きるにはどうしたらよろしいか」と。
「簡単なことだが、今聞いたのでは有り難みがないので7日間塩断ち、茶断ちをし、 六根清浄けがれをとって来なさい」と言われた。
いよいよその日を迎えたらご本尊の前で教えてくれた。
「安心立命を自分のものにするには"らしく"生きなさい」と答えられた。
どんなに時代が変わっても犬は犬らしく、馬は馬らしく生きている。
ところが人間は本当に人間らしく生きているだろうか。
これは本当の人間の思うこと、考えることなのかと内省してみたら判る。
"らしく"生きないから、生命力の弱った生き方になるのだ。
さて、それではどうしたら自己陶冶ということが出来るか。
よく人は「そんなことを考えたらいけない」というような教え方をするが しかしそうは簡単にいかない。
何故なら、いけないとかいいとかの善悪を判断するのは理性心なのだが理性心には、 本能心を統御する力はない。本能心はわがままな学生で、理性心は家庭教師のようなものだ。
言うことなんか聞くかい。理性心で本能心が統御出来るならば何の苦労もない。
それが出来ないから「学んでいよいよ苦しむ、極めていよいよ迷う」という心の状態になるのだ。
一つの例を話す。神経過敏な人には為になる話だから良く聞きなさい。
知り合いに青山という患者思いのいい医者がいた。
常々「死ぬ時は心臓病かなんかでコロッと逝くのがいい、癌だけは嫌だ」と言って いつもそれを気にしていた。その医者が癌で死んだ。それも偽癌だった。
つまり、いつも「癌で死にたくない」「癌で死にたくない」と気にしていたら 本当に癌になってしまった。本人が自分は癌だと信じていた。
そして死後解剖をしたら脂肪瘤が出来ているだけだった。コブだった。
神経というものは恐ろしいものだなあとつくづくその時に思った。
本人が癌だと信じているということは、 大家といわれる医者でも本能心の中のつまらぬ事を気にするよくない心が残っていたんだね。
自己というのが出来ていなかったんだね。
それでは、自己陶冶の方法を教えるが、先ず第一にすでに教わっている観念要素の更改、 積極観念養成、神経反射の調節の3つをしっかり行うことである。
次に、言葉に注意すること。「俺は酒に弱い」なんて言う言葉も良くない。
「強くない」と言えばいいのだ。私はどんな場合でもマイナスな言葉は使わない。
私はあなた方が聞いていて心が暗くなるような事を決して口にしない。
ところであなた方はどうだい。言葉はどんなに気を付けても気を付け過ぎることは無い。
言わなくてもいい言葉を随分言っているぜ。
そして同時に必要なのは態度。芝居ひとつ見ても判る。
心中に行く奴がお祭りに行くような態度をとったら芝居になるかい。
同様に祭りに行く奴が心中しに行くような態度をするかい。
態度はそのまま心に映る鏡のようなものだ。
嘘でもいいから「真理に目覚めた人間としての態度」で生きろ。
「真理に目覚めて生きよう」と思ったらもう真理に目覚めて生きているのだという プライドを持っていきりゃいいんだ。
東京へ向かって歩くつもりで歩いていればいつかは東京に着くんだ。
そんな気持ちで5年、10年やってみろ。
態度によって暗示の同化を受けちゃうんだ。
笑ってご覧、決して腹は立たない。態度と言葉、これは大切だよ。
それからもう一つ必要なことは「つぶやき」の自己暗示法である。観念で独り言を言えばよい。
「こんな事で悲しくない。こんなのに負けるものか。」と独り言をつぶやけばよいのだ。
終わりにもう一つ、良い心がけを教える。平素努めて心の中で行う想像を積極的なものにする。
始終心の中を百花繚乱とする。
日常、一寸した時間がある時でも、自分が楽しめる、喜べる、楽しみを心に描くようにする。
やらなきゃ駄目だよ。自分の命に対して親切心を出しなさい。
他人の命じゃない。子供の頃から長い間何の手当もせずきたのだからサビついてしまった心の態度を なおすのだから大変だ。失敗しても悔やまなくっていいんだ。
100編に1回でも出来りゃ、そのうちいつでも出来るようになる。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます