この前高校同期会の二次会の席で「お墓は必要なのか?」ということが話題になった。何がきっかけだったのかは知らないが、還暦ともなれば出ても不思議はない話題である。誰かが「君(私のこと)のところは実家がお寺さんだよね。どう思う?」と振ってきた。この時お酒もかなり入っており、長い話をするのは面倒なので「純粋に仏教的にいうとお墓はいらない」と短く回答した。
だがこれは余りに素っ気無い答でもう少し筋道を立てた説明が必要な話である(同期会のメンバーがこのブログを読むかどうかは知らないが)。
お墓が要るかいらないか?はひとえに死生観あるいは宗教観の問題である。イスラム圏の村を旅したことのある人ならお気付きだろうが、イスラム教のお墓は実に簡素だ。人が死んだら村の郊外にメッカの方を頭にして土をかぶせておしまいという感じ。
これはイスラム教が人の死を現世からあの世(天国か地獄)に行く通過点に過ぎないと考えているからだ(ただし火葬すると地獄に落ちると信じているので火葬はしない)。
冒頭「純粋に仏教的にいうとお墓はいらない」といったが、この意味は釈尊が死生観による。釈尊は死後の世界があるともないとも述べていない。有名な毒矢の譬えで釈尊は「毒矢に当って苦しんでいる人がいると家族や医者はまず毒矢を抜いて治療する。その毒矢を射た人だ誰だとか詮索する前に。もしそのような詮索をしていたら、毒矢に当った人は死んでしまうだろう」と述べている。つまり死後の世界があるかないかなどということを考えるより、生きている今のことを考えなさいと教えている。だから墓がどうだのこうだのとは述べていない。また仏教とある意味では縁戚関係にあるヒンズー教では死者を火葬してその灰をガンジス川に流すのが最高の葬礼である。
釈尊の教えをもっとも忠実に継承している道元禅師も今を生きることの重要性を強調されている。正法眼蔵は「仏道を習うというは自己を習うなり 自己を習うというは自己を忘るるなり」と述べるが、お墓の重要性を説くところはない(と思う。正法眼蔵は難解かつ膨大な本なので総て読み通している訳ではないので)。
また歴史的に見ても、日本の庶民が石の墓を作り出したのは江戸中期以降の話だ。死んだら「戒名(浄土真宗では法名)をつける」「立派な墓を作って法事を行う」というのは、檀家制度をシステム化して収入の安定を図ろうとした寺院のビジネスモデルであり、釈尊の教えとは無縁なのである。
もっとも私はだから「お墓はいらない」と断言するつもりはない。お墓は東アジア特有の祖霊信仰と結びついている(韓国などもお墓は立派)。家族や先祖のお墓にお参りして今生きている自分のルーツやつながりを再確認する時間を持つことは良いことだと思う。お墓とはいわばその中継地点なのである。そして私は人の子として人の子の夫として自分の祖父母や妻の父母の墓参りは定期的に行っている。
ただしである。自分の墓が必要であるとは今のところ考えていない。私にとって重要なことは大袈裟にいうとこの世で神を見ること、もう少し分かり易くいうと人と自然の美しさにふれて魂の感動を覚えることなのである。墓は私の子供達が親を思う「場」として必要なら作ればよいし、必要としないのであれば作らなくても良いと考えている。墓の有無や良し悪しは来世(そもそも来世があるかどうかについても不明だが)のあり方に全く関係ないと私は考えているのである。
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