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戦争責任…(5)日露戦争と太平洋戦争への道

2018年10月20日 | 国際政治
戦争責任…(5)日露戦争と太平洋戦争への道
伊藤博文・山縣有朋は第一線を退いたが、元老として天皇に対し内閣総理大臣の奏薦(推薦)等を行い国政に院政を敷いた。
彼等が最初に選んだのが山縣の下で軍制を学び陸軍次官や台湾総督を歴任した山縣子飼いの桂太郎である(1901年(明治34)5月第一次桂内閣)。
桂内閣の最大の事跡は日露戦争であった。1894年(明治27年)日清戦争が起こり翌年これに勝利したが(仏・独・ロシアの列強3国)の干渉を受け清国との講和条約で勝ち取った遼東半島(大連・旅順がある)の放棄を余儀なくされたうえ、この日本の譲歩に乗じてロシアは遼東半島を占拠し仏・独・英の列強は強引に中国各地を租借し中国分割に乗り出したのである。このロシアの暴挙に日本の国論は「租税(地租)アップも止む無し,政争は回避等々」一挙に国家主義思想に傾き、ロシア打倒と強兵・軍備増強の機運が一挙に高まった。これに拍車をかけ国民を熱狂させたのが「東大7教授事件」である。
戸水寛人・寺尾亨・金井延・富井政章・小野塚喜平次(後の東大総長)・高橋作衛・中村進午(学習院)の7人が桂太郎首相を訪れ「ロシアの満州からの完全撤退の為、断固開戦すべし」という極めて強硬な路線の選択を迫るものであった。
伊藤博文元老は「我々は諸先生の卓見ではなく、大砲の数と相談しているのだ」と語り、又桂太郎首相は「学者の本分を守り政治に口出しして貰いたくない、国民を煽らないで欲しい」と要請したが、彼等はこれに耳を傾けず、筆を揃えて主戦論だった新聞にこれを提供・掲載させ国民を煽った。列強の動きや国家財政の詳しい状況も知らずロシアの強硬な態度だけを報道で知らされていた国民世論が打倒ロシアで一挙に燃え上がったのである。

日清戦争が終わった明治28年の戦時下の総歳出が9千160万円だったのに対し翌29年は平和裡にも拘らず二億円強に跳ね上がっている。(当時ロシアは世界五大強国の一つでその歳出額は20億円、銑鉄生産量…日本‐2万トン、ロシア‐2百94万トンで日本の百倍強である。)
日本国中に蔓延した「恐ロ病」によって軍部は国家予算の半分を使って軍備増強を行い陸軍は7個師団から13個師団に増強され、海軍も日清戦争開戦時に比べ戦艦総トン数を2.5倍に増強した。その財源は増税と日清戦争の賠償金が当てられ国民は重税に大変な苦しみを味わった。
富国強兵ではなく、貧国強兵・増税強兵が実態で、明治の栄光など上流階級だけの話、国民生活は悲惨極まりなかった。明治29年、24歳の若さで結核で亡くなった樋口一葉の「赤貧洗うが如し」と言われた極貧ぶりが「樋口一葉日記」に記されている。

この様な状況を勘案し伊藤博文は慎重で、話し合いでの解決を主張、ロシアの満州支配を認め日本の韓国支配を認めさせれば良いという「日露協商論、満州交換論」を唱えた。
昭和と異なり明治の軍部や政府は多少冷静な判断力があった。国力・戦力から言って戦争はすべきでない、妥協点があるのではないか と日露交渉を進めていたが其の時のロシアの要求は「朝鮮半島、満州から日本軍は手を曳け」というもので、この情報が新聞に掲載され日本国民の戦争意識に火を点け政府弱腰論が蔓延した。
此処に至って桂首相や元老山縣は伊藤の話には耳を貸さず、対ロ開戦不可避として対外的な準備を開始した。「日英同盟」の締結である(1902年)。二等国日本としては一等国英国との帝国主義軍事同盟だけが頼りの対露開戦であった。
新たな艦船の購入や戦争の為の外債発行も英国頼り、とりわけ同盟条約に盛られたロシアに他国が協力参戦した場合は英国が日本を援助参戦するという条項によりロシアの同盟国フランスを完全に抑止することが出来たのは大きかった。これによりロシアの黒海艦隊は動きが取れず、バルチック艦隊も英国の基地回避を余儀なくされた為、大きく戦力が削がれることとなって、日本海海戦では日本に極めて有利に作用した。英国が日本に期待したのはロシアの南下政策阻止と英国利権である中国等極東に芽生えつつあった反帝国主義運動に対する番犬としての役割である。
1904年2月8日、旅順港にいたロシア旅順艦隊に対する日本海軍の奇襲攻撃に始まった日露戦争は総額17億2千万円(内8億は外債)の戦費と百8万9千人の出兵、8万4千4百人の戦死者、14万人の戦傷を出して一応勝利はしたが惨憺たる結果に終わった。陸軍には戦争継続の余力は全く無くなっていた。
日本海海戦での日本大勝により外務大臣小村寿太郎から要請を受け、1905年6月6日に米国セオドア・ルーズベルト大統領による日本・ロシア両国に対する講和勧告が行われ、ロシア側は12日に公式に勧告を受諾した。日本軍は和平交渉の進む中、7月に樺太攻略作戦を実施し、全島を占領した。この占領が後の講和条約で南樺太の日本への割譲をもたらすこととなる。

連戦連勝という官製報道ににも拘らず実態は上記の通りで日本には戦争継続の余力は殆ど無くなっていた。ロシアも国内に革命の大きな動きという大問題を抱えていたがロシア皇帝は表面上は強気で「土地の割譲、賠償金支払いは一切応じない」としていた。
この様な両国内情を背景に米国仲介によるポーツマス講和会議は「関東州(満州)租借地の譲渡、南満州鉄道の譲渡、日本による韓国「保護国化」という所期の目的と樺太の南半分を日本に割譲することで決着した。 大正から昭和初期に懸けこの前半の権益保持・拡大に日本は悪戦苦闘することになる。
一方、莫大な犠牲者、重税と生活苦に耐えてきた国民が連戦連勝の報を受け描いてきた巨額の賠償金取得という講和の夢が打ち砕かれ、講和反対「日比谷焼き討ち事件」…内務大臣官邸・外務省・国民新聞社・キリスト教会等々…となって国民の怒りが爆発した。    「10万の英霊と20億の国費」を投じて得た満州、これがスローガンとなり太平洋戦争に繋がっていくことになる。
日露戦争開戦を煽った東大教授7人の内、シベリア占領を強硬に主張しバイカル博士の異名をとった戸水は戦争末期又もや懲りずに「賠償金30億円と樺太・沿海州・カムチャッカ半島割譲」を講和条件とする様に主張、宮内省にポーツマス条約を拒否すべしとの上奏文を提出した為、東大総長の解任迄発展する「戸水事件」を引き起こした。これが日比谷焼き討ち事件の引き金になったことは間違いない。
東大・京大の教授達の言論弾圧反対という抗議で復職したが実態を調べもしないお気楽な誇大妄想狂であったことは間違いない。戸水はその後政界に進出、更に経済界に転じ詐欺等の事件を犯している。
戦争責任は政治家・軍人だけではなかったことを表しているが、太平洋戦争でも東条や近衛、更には若手将校を煽り洗脳した東大教授が居た。戦争責任は何も問われ無かったが極東国際軍事裁判ではなく日本人による戦争責任裁判が行われて居れば東条と同程度の重罰を科せられるような狂的な扇動行為を行った人物がいたのである(次回)。


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