脚本がしっかりしていたのと映像も丁寧に作られていたので、
いつも聞いているpodcastの番組に著者の工藤勇一さん(千代田区立麹町中学校校長)が登場して、ご自身の学校改革のお話をされていたのですが、その内容がとても興味深かったので手に取ってみました。
まず「はじめに」の章で示された工藤さんの根本的な問題意識。
工藤さんは、学校教育の「目的」は “「自律」する力を身に付けさせる”ことだと考えています。
(p6より引用) 今、日本の学校は自律を育むことと、真逆のことをしてしまっているように感じます。
その課題感をもって、工藤さんは数々の改革に取り組みました。教師の立場、教育委員会の立場、校長の立場・・・、さまざまな職責での工藤さんの実績は、どれも独創的でありチャレンジングなものでした。特に、東京の「教育困難校」に赴任した際の経験談は強烈でしたね。
さて、本書を読み通してみての感想ですが、期待どおり数多くの気づきを得ることができました。それらの中には、大いに首肯できるものもあれば、多面的により深く考えなくてはならないと感じたものもありました。
たとえば、「心の教育」についての工藤さんの考えです。
(p61より引用) そもそも「心はみんな違っていい」はずです。人の価値観、考え方はみんな違ってよいのです。 私は生徒たちに、人は行動こそが大切だという「行動の教育」を伝えていきたいと思っています。
「違いを認める」までは多くの人が言っていることですが、「それゆえに『行動こそが大事』」と一歩踏み込んだ指導を志向しています。陽明学の「知行合一」と同根の考え方でしょうか。
そういった“割り切った考え”の工藤さんですが、同時に「弱者に対する心のケア」を忘れないのが素晴らしいところです。
(p62より引用) 幼稚園や保育園、小学校で心の教育の象徴としてよく言われている、「みんな仲良くしなさい」という言葉があります。この言葉によって、コミュニケーションが苦手な特性を持った子どもたちは苦しい思いをしているのではないでしょうか。 ・・・ 「人は仲良くすることが難しい」ということを伝えていくことの方が大切だと私は考えています。
もうひとつ、現代社会における未来を切り開く道筋について。
(p195より引用) 現代社会においては、特定分野の技能を磨き続けることが、その人の可能性を広げることにつながるのです。ちょっと変な言い方かもしれませんが、自分の進路は狭めていけばいくほど、その後の進路は広がると思います。
逆説的な言葉ですが、なるほどと思いますね。
そして、最後に、本書の中で工藤さんが何度も語っている「目的」の共有の大切さについて。
(p203より引用) 一見、極端に相反する考え方も、その1つか2つ上の目的を確認し合えば、同じ目的を目指していることが分かったりします。それを確認し合うことで冷静に議論ができるようになることもあります。この経験を積み重ねていけば、対立を恐れることなく、協働して何かを決めることができるようになります。 民主主義社会の形成において、学校教育が果たす役割は大きいものがあると考えます。
「手段の目的化」の弊害があらゆるところで顔を出す今日、「自律的思考」を身に付けた人材をいかに育成できるか、やはり「教育」が社会基盤再生のカギを握っているのは間違いありません。
著者の春風亭一之輔さんは、2012年、21人抜きの抜擢で真打昇進した今最も人気がある落語家の一人です。
私も時折youtubeで聞くことがあるのですが、確かに語り口は(私のような上方落語に染まっているものからすると、少々アグレッシヴではありますが)スマートでテンポが良く、マクラでのお客の掴みも卓越していますね。
定番の古典落語の演目を語らせても、ところどころのやり取りに今風の工夫を凝らしていて見事です。このあたり、ひとつ間違うとワザとらしくなって、お客に阿った感が出てしまうんですね。そのあたりの加減は絶妙です。天性でしょう。
さて、本書はその一之輔師匠のエッセイ集。「週刊朝日」への連載を再録したもので、軽いノリでページが進んでいきます。
肝心の中身ですが、正直なところ、読者の期待するところによって合う合わないがはっきりしそうですね。
エッセイを書くのは本当に難しいと思います。本人の感性だけでつらつらと筆を進めると、その作品は、作者の感性にマッチした人にしか受け入れられません。作者本人の感性が鋭ければ鋭いほど、そのレベルにしっかりと波長を合わせて受信できる人は限られてきますから。
残念ながら、私はちょっと合わない方でした・・・。
いつも利用している図書館の「新着書」のリストを眺めていて、目を惹いたタイトルだったので手に取ってみました。
著者の谷口隆さんは数学者です。谷口さんは、子どもを相手にした算数の学びの機会を通して、数々の興味深い気づきを得ていきました。
その中から2つ、特に印象に残ったものを紹介しましょう。
まずは「第3話 マルとペケ」から。
(p31より引用) マルとペケは特定の意味をもつ記号だが、 元来これらには、良し悪しの価値判断は含まれていない。ベケとは、考える素材の提供である。そう考えることが本当の学びのための出発点になるのではないだろうか。
まさに首肯できる捉え方ですね。
そしてもうひとつ、「結び‐誤りは宝物」から。
「ペケ」は多くの場合“誤り”に対して記し付けられますが、だからといって誤り自体「悪い」わけではありません。“誤り”には大きな効用があります。
(p133より引用) 「誤った」認識は、(子どもは将来的にはそれを手放すことになるのだけれど)そのときは過渡的な理解として、次のより正確な認識に至る足場になるのである。
「誤り」は“理解への途中ステップ”だと考えるわけです。そうすると、「誤り」にゆとりをもって接することができるようになります。
(p134より引用) 誤りを見守ること。それは考えることの価値と誤りのもつ可能性を十分に認め、それぞれの誤りの効果ある活かし方について考えを巡らせることである。
“誤りを見守る”というフレーズは、とても大らかで優しさやゆとりを感じるいい言葉だと思います。