OMOI-KOMI - 我流の作法 -

For Ordinary Business People

風の良寛 (中野 孝次)

2009-05-03 17:37:26 | 本と雑誌

 良寛の名前はよく聞いていましたが、その人物像については本書を読むまではほとんど知りませんでした。
 良寛(1758~1831)は、江戸時代、越後国出雲崎に生まれた曹洞宗の僧侶、和歌や漢詩を能くし書家としても有名です。

 本書で描かれている良寛の姿は、「正法眼蔵」を体現しようとした禅宗の僧侶でありながら、また老荘の人でもありました。

 
(p39より引用) 彼は何も為さない。とにかく世間の人が有用と考えることは何もしない。無為の人だ。
 彼は有に対する無、有為に対する無為、在に対する空である。彼は世間の人が光をのみ見るところに、同時に闇を見、生を見るとき同時に死を見る。世間が富裕を好むとき、貧困に生きる。そのようにして存在の根源のところでつねに相対している。
 ・・・良寛は何者でもないことによって、実はわれわれの試金石になっているのである。こんな人はほかには見当らない。

 
 本書は、良寛の漢詩や和歌を数多く示しながら、良寛の人ととなりを飾らぬ筆致で描き出していきます。

 
(p113より引用) 草の庵に足さしのべて小山田の山田のかはづ聞くがたのしさ
・・・無為の充実、充実した単純さくらい上等なものはないと良寛を通じて人は知る。その点でも良寛は現代人の対極にいる。

 
  私の場合、漢詩については、その良し悪しや味わいを理解する素養は皆無なので、意味をとるだけでも正直難しいものがあります。
 他方、和歌の方は、より現代の言葉に近いせいもあり比較的意味も取りやすく、私にとっても、少しは受け入れやすく感じられます。良寛の没後、「蓮の露」「良寛禅師歌集」などの歌集が編纂されているようですが、その多くは万葉集の影響を受けたものだといいます。

 
(p164より引用) 良寛の和歌のよさも、ことさらに風流を求めるのでなく、ただ、春が来たことがそれだけでうれしいとうたう、そのすなおさ、自然さにある。そのところがまことになだらかに、心にしみるようにうたわれているのが、読む者に透るのだ。
 この宮のみ坂に見れば藤なみの花のさかりになりにけるかも

 
 良寛は、生涯無一物の境界に身を置き尽くしました。
 良寛の徳を慕い庇護しようとする人は数多くいたので、欲すれば穏やかな生活を営むこともできたのです。しかしながら、良寛は自らの強い意志で、幾度となく身を0地点に引き戻しました。
 無・空・虚の姿です。

 
(p235より引用) 良寛という人の在りようが、まさにこれだ、と思った。世間の人が有であるのに対し、良寛は無なのである。
 ・・・この無に照らしたとき、有であるわれわれの姿が、はじめてこういうものかとわかってくる。

 
 著者は、この良寛を、現代人の姿を映す鏡たるべきとみています。

 
(p242より引用) 良寛は現代の価値観と正反対のところにいて、そのことによってわれわれの知らなかった可能性を提示しているのだ。

 
 有為の価値に対する大いなるアンチテーゼです。
 
 

風の良寛 (文春文庫) 風の良寛 (文春文庫)
価格:¥ 570(税込)
発売日:2004-01

 
↓の評価ボタンを押してランキングをチェック!
素晴らしい すごい とても良い 良い
 
TREview
TREviewブログランキング

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ツチヤ教授の哲学講義 (土屋 賢二)

2009-05-02 12:18:41 | 本と雑誌

Wittgenstein  「哲学」にはちょっと興味があるのですが、何冊その関係の本を読んでも入口にすら立てない状況です。

 そういう折、一風変わった哲学の入門書?ということで手に取ったのがこの本です。
 本書は、土屋氏の大学での講義をかなり忠実に再現したものです。
 その内容はというと、私のような哲学の素人からみると、仮にも「哲学者」が、プラトンやデカルト・・・といった錚々たるビッグネームの思想をここまで「よくわからない」とか「間違っている」と断言していいのかしらと思うようなものでした。(だからこそ面白いのですが・・・)

 たとえば、ノーベル賞も受賞しているフランスの哲学者ベルグソンの「時間」についての土屋流解説です。

 
(p41より引用) 科学は観察や実験によって立証することができますけど、また、立証しなくてはいけないんですけど、形而上学は観察も実験もしないで真相はこうだと主張する点が違います。でも、今まで言ったように、ベルクソンの形而上学は、常識の誤りを正しているのではなくて、実質的には、日常的なことばづかいに反対しているとぼくは思います。そしてたいていの形而上学は、結局は日常的なことばづかいに反対することになると思います。

 
 このベルグソンの例をはじめとして、土屋氏は、デカルトやプラトン、その他観念論者・現象論者を次々に否定していきます。

 
(p91より引用) 形而上学は、観察可能な事実を超えたところにある真相を究明しようとしているわけですけれど、実際には、これまで見たところでは、ことばの使い方の変更を提案する結果に終わっているように思えます。

 
 本書の後半では、ウェトゲンシュタインを扱っています。
 ウェトゲンシュタインの主著「論理哲学論考」についての土屋氏の解説です。

 
(p199より引用) 真とは、一方から他方に変換した結果が一致することで、偽とは一致しないということです。「意味がある」とは、変換できるということで、「意味がない」とは変換できないということです。
 これが「論考」の基本的アイデアだとぼくは思うんですね。ものを知るということは、結局は、元の事実を規則的に変換して、それに対応した記号の組み合わせを作ることです。

 
 ウィトゲンシュタインは、分析哲学・言語哲学の代表的学者といわれています。
 土屋氏もこの考え方を支持しているようです。

 この学派の考え方は、事典の解説によると、まず、言語分析により、有意味な命題と無意味な命題を区別するのだそうです。

 有意味な命題とは、形式的に真偽が確認できる数学や論理学の命題、あるいは観察や実験によって実証的に真偽が確認(検証)できる経験的命題であり、無意味な命題とはそうした検証が不可能な命題です。
 この区別によると、「神は存在する」とか「魂は不滅である」といった形而上学的命題や、「この絵は美しい」といった美的判断も、「この行為は悪い」といった倫理的判断も、すべて無意味だということになるのです。
 プラトンのイデア論に始まる「観念論」とは相対する考え方です。

 さて、本書ですが、哲学の入門書という点では、私としては正直分りにくかったですね。
 ごく一般的な哲学史をなぞったあとで、もう一度読んで見ると、土屋流の説明も少しは理解できるのではと思いました。
 
 

ツチヤ教授の哲学講義 ツチヤ教授の哲学講義
価格:¥ 1,890(税込)
発売日:2005-12

 
↓の評価ボタンを押してランキングをチェック!
素晴らしい すごい とても良い 良い
 
TREview
TREviewブログランキング

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする