いつも聞いているピーター・バラカンさんのpodcastの番組にゲスト出演していたいとうせいこうさんが番組内で紹介していた著作です。
タイトルも含めちょっと気になったので手に取ってみました。
著者の中島岳志さんは東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。固定化された視点に囚われない論考はいい刺激になりますね。
さっそく本書を読んで興味を抱いたくだりをいくつか書き留めておきましょう。
まずは、「第三章 受け取ること」から、認知症と診断された高齢者をホールスタッフとして雇用している「ちばる食堂」での試みを紹介している箇所です。
(p118より引用) 認知症と診断されると、周りの人や介護従事者は、認知症の人たちに「何もしないこと」を強要してしまいがちです。仕事をすることから遠ざけ、掃除や洗濯、食事など日常生活にかかわることも、何でもやってあげる。それが「ケア」だと思われてきた側面があります。これに対して「ちばる食堂」では、間違いに寛容な社会を形成することで、認知症の人たちも尊厳を持って働くことができる環境を整えようとしています。そのことで、当事者が持っているポテンシャル(潜在能力)を引き出す。その人の特質やあり方に「沿う」 ことで、「介護しない介護」が成立する場所を作ろうとしています。
よく「〇〇に“寄り添う”」といった台詞を耳にするようになりましたが、それでは具体的にどうするのかといえば、はっきりとした答えは返ってきません。この「間違いに寛容な社会を作る」ことがそのひとつの回答だと思います。
“間違いに寛容な社会”というフレーズは、情けないことに、私にはとても新鮮に聞こえました。大切な “意識の姿勢” だと思います。
そして、次は本書のタイトルにある “利他” の行為がもつ重要な特性です。
(p131より引用) 自分の行為が利他的であるかどうかは、不確かな未来によって 規定されています。 自分の行為の結果を所有することはできず、利他は事後的なものとして起動します。
なるほど、そうですね、自分の成した行為が “利他” となるかどうかは、事後的に相手が評価するものです。成した側が評価を強要できるものではありません。ただ、そうであっても、利他的な行動を意識的に取ろうとすれば、自分の行為が “利他” となる確率を高めることはできるでしょうし、そう心がける気持ちは大切だですね。
さて最後は、今の日本社会に蔓延している「自己責任論」について。
(p143より引用) 親鸞が見つめたのは「私が私であることの偶然性」であり、その「偶然の自覚」が他者への共感や寛容へとつながるという構造です。
私は、現代日本の行きすぎた「自己責任論」に最も欠如しているのは、自分が「その人であった可能性」に対する想像力だと思います。そして、それは自己の偶然性に対する認識とつながり、「自分が現在の自分ではなかった可能性」へと自己を開くことになります。
「自己責任論」を振りかざす人の “他者への過剰な非難”を諫める考え方です。
今の世の中に圧倒的に欠けているのが「他者への想像力」です。他者の悩み、他者の苦労、他者の暮らし、他者の立場・・・、そういった実態を知ろうとしない、理解しようとしない。想像する「力」がないのではなく、視野にすら入れない、想像しようとする「気」すらないように感じます。
今の自分は「偶然の産物に過ぎない」という意識、そして「偶然」が「利他」を生む。必然の利他は利己。
「思いがけず利他」というタイトルは、なるほど本書のメッセージを見事に表しているんですね。
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