知人のSNSで紹介されていたので気になった本です。
磯崎新さんについては著名な建築家という程度しか知りませんが、昨年(2022年)暮に訃報が流れ、改めてその人となりの一端なりともたどってみようと思いました。
本書は、現都庁建築時のコンペの場を舞台に、磯崎さんの魅力的な人物像と彼を取り巻く様々な人たちとの営みの様を描き出しています。
まずは舞台となった1985年に行われた新宿新都庁舎コンペ(設計競技)についてです。本書で詳述されている鈴木俊一東京都知事(当時)と丹下健三氏との関係を踏まえると、多くの人々は “出来レース” として仕立てられていたのだろうと考えていたようです。
(p356より引用) 丹下健三が鈴木都知事と共に設立した「東京都設計候補者選定委員会」のメンバーが、新都庁舎コンペを組織し、かつ審査員の大半を占める。そして丹下健三本人は応募者の側でコンペに参加する。 こんな構造なのだ。・・・
もし、これを本気でまともなコンペにするつもりがあるのならば、東京都は、丹下健三を応募者ではなく審査委員長に就任させるか、あるいは、丹下がどうしても応募者の側に入りたいということであれば、「東京都設計候補者選定委員会」のメンバー全員を審査員から外したうえで、海外から中立のしかるべき実力と見識を備えた建築家や批評家を招待し、審査員を務めてもらうほかなかっただろう。
そういった完全アウェイの舞台で、磯崎さんは自らの師でもある “巨大な壁” に向かって突進していったのです。磯崎さん自身、こう語っていました。
(p359より引用) 「いや、僕は出来レースじゃないコンペなんて、世界中どこにもないと思ってますよ、経験上ね。ハッハッハ」
こういう環境下で、当の丹下健三氏は着々とコンペ案の作成を進めていきます。「第一・第二本庁舎」のデザインを固め、隣の街区に「広場」と「都議会議場」を配置。庁舎と広場とを「空中回廊」で結びました。
(p398より引用) 表向き、空中歩廊が設置された理由は、議場と本庁舎との行き来の便利を考えたため、ということになっている。
でも、違うのだ。
古市は言う。「・・・せっかく広場をつくっても、そこに面する建物が、京王プラザホテルなり、住友三角ビルじゃ、自分の気に入った広場はできないわけですね。広場には自分の第一本庁舎だけが面するようにしたいんです。早い話がですね、もう新宿NSビルなんか壊したいくらいですよね(笑)」
だが、もちろん他の超高層ビル群を壊すなんてことが許されるはずもない。そこで丹下は考えた、目隠しをしてしまえ、と。
「それで広場を回廊で囲んだんですよね、他が目に入らないように。・・・すると、ここには〝丹下広場” ができるわけです。・・・」
基本の軸線に乗った“自分だけの空間を作りたい”というのが、丹下氏の強い意志でした。
ただ、これは丹下氏の “我欲” の顕れと捉えるべきではないでしょう。彼の卓越した “全体構成力”の発露であり、彼が抱いていた“建築の意味への信念” によるものだったのだと思います。
1986年4月7日、新都庁舎コンペ審査結果が発表されました。審査員の一人が明かした審査過程によれば、審査は「減点消去法」で進められたとのこと。
(p441より引用) 「減点消去法」が成立するためには、審査員があらかじめ100点満点の正解となる新庁舎のおおよそのイメージを審査の前から心得ていることが前提である。すなわち、この審査団が求めたのは、まだ点数化ができないような斬新な提案ではなく、この時代における標準的な超高層デザインの最大公約数だったと言えるだろう。
そして、当然のごとく丹下健三事務所案が一等に選定されました。しかし、それは丹下氏が目指していた“ぶっちぎり”の評価ではなく、予想外に僅差での決着でした。
2005年、丹下健三氏が亡くなった際の追悼文に、磯崎さんはこう記しました。
(p457より引用) 「あの意欲的に世界の歴史に残る作品を次々に制作していた頃に弟子として学び、助手として仕事をした私には、国家とすれ違っていった後からの丹下氏は本来の姿とは違ってみえる。あらゆる無理を覚悟で骨太の軸線を引きつづけた、あの時代の姿こそが、建築家丹下健三だったと今も思う。列島改造に引き出されて後は、もう余生だったのだ。」
さて、本書を読み通しての感想です。
磯崎さんが“建築家”として脚光を浴び始めた1960年代と、都庁コンペがひらかれた1980年代を往還しながら数々のエピソードが語られていきます。その時代感の相違や人間関係・師弟関係の妙がとても面白く、密度の濃いとても刺激に満ちた著作でしたね。
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