読書案内として読んでみました。が、期待していたものとは異なる視点で書かれたものでした。
本書において著者は、「社交的価値」とやらに重きをおいているようです。
(p95より引用) 無垢さや無意識は、社交的価値の世界においては、もっとも恥ずべき、許し難いものなのです。
その「社交的」という視点(著者によると、「世間の視点」)から、著者なりの「読書の見え方/見せ方」を縷々書き連ねたものです。
(p104より引用) 読書を、純粋に個人的な悦楽や教養から離れた社交的な行為、いわば不純きわまる世間の視点から見るとどうなるのか。
著者は、「読書」を、「自らが読む」という行為と、「読んでいることを人に見せる」という行為の2つに分け、とくに、後者の行為についてあれこれ語っています。
(p228より引用) どんな本を読むのか、どんな本を自らの愛読書として人に示すのかということは、自分がどんな人間になりたいのか、どんな人間だと、人から見られたいのかという問いに直結しています。
この本を読んでいて、私の感覚がどうにも受け付けないのは、著者が「人から・・・と見られたい」という点にこだわりを見せ、そこにこだわるのがとても大事なことだと主張しているところにあります。
(p231より引用) イノセントに読書を楽しむ、自分はこの本が好きだから読む、ではなく、自分を自分として作り、向上させるために何を読むべきか、ということを、客観的に考えるべきでしょう。
とこのあたりまでは理解できるのですが、そのつづきで、
(p231より引用) というと、あまりに教養主義のように聞こえるかもしれませんが、ここで私のいう「向上」とは、いうまでもなく、社交的な意味での向上、つまりはスノッブな意味での向上です。
となると、全く同意できません。
著者の本を読むのは本書が初めてなので、正直、こういったことを本気で主張しているのか、あえてシニカルに訴えているのか、私の頭ではどうにも計りかねるところがありました。
悪の読書術 (講談社現代新書) 価格:¥ 735(税込) 発売日:2003-10-20 |