黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

小平村鎮守・嵯峨宮

2021-12-20 20:15:55 | 小平川紀行

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、堀之内を西に出ます。

諏訪神社の向こうの高台の薬師の道を歩きます。

黄色いブロッコリーの花が、いくつもあります。

獅子くん、ブロッコリー大好きだったね

 

浅間山は、白い雲に覆われていて、その姿を見せません。

吹雪いているかな?

 

 

 

 

小平(おだいら、みどり市大間々町小平)の鎮守は、嵯峨神社(嵯峨宮)です。

県道334号線沿い、小平の鍾乳洞反対側にあります。

訪問は、11月2日です。

よそからの来訪者を意識しています。

「埋蔵祈願」て、何でしょう?

 

由緒があります。

嘉暦の際(1326年)武士七名あり、官軍に属せし者ならん。この地に隠れ嵯峨神社を建立し草蕪を開き本村を創立す。初小平(コダイラ)村と称し後小平(おだいら)村と改めたり。後村落衰廃す。天正十八年(1590年)故に復す。

 

嘉暦3年(1328)は、「嘉暦(かりゃく)の騒動」まっただ中です。

嘉暦の騒動は、鎌倉幕府の執権である北条氏得宗家の家督継承を廻る内管領長崎氏と、外戚安達氏の抗争による内紛(ウィキペディア)です。

鎌倉幕府滅亡まで、あと5年です

嘉暦3年(1328)は、京都でも、大覚寺統と持明院統の間で、皇位継承の争いが起こっていました。

 

嘉暦の頃、この地にどんな人たちがどんな事情でやって来たのでしょう?

 

階段を登ると、途中にはローマ字で案内があります。

 

さらにもうひとガンバリが必要です

二の鳥居をくぐって、到着です

 

2礼2拍1礼です。

町誌の資料や、嵯峨宮便りが掲示されています。

「埋蔵祈願とは、願いをしたためた祈願書を地中に埋めて祈願するもの」ですか

「月日が経ち希望の目が地上に出るように」、すてきな表現ですね

旅と言うほどではないので、「嵯峨宮便り」をいただいて、代金を賽銭投入口に入れます

 

社殿の横には、アマビエさんもいます

 

社殿横には、「語らざる願い地に埋め 春ぞ待つ」の文字があります。

この後ろ辺りに埋めるのかな?

 

下を見ると、かなりの急階段です

でも、転ばずに降りられました。

手すりは有り難い

 

なんとか転ばずに行ってこれました

これも、ひめちゃんたちと毎日歩いてるおかげだね

 

 

似た話が、塩原の鎮守・塩原神社にもあります

『大間々町の社寺』(大間々町誌基礎資料Ⅺ 平成9年)によると、

塩原の鎮守で、字高松に鎮座する。

この神社は、明治40年に村社および無格社七社を合祀して、新たに成立した神社である。そのため現在でも八幡様と呼ぶ人もいる。

『山田郡誌』には「創立嘉暦(かりゃく)3年高守忠国乱を避け嵯峨天皇崩御後30年頃、天皇の御宸翰(しんかん)奉持し来り本社を創立せり」とあり、八幡宮の由緒を知ることができる。

と、あります。

 

「高守忠国」については、いくら検索してもわかりません

「嵯峨天皇崩御後30年頃」とありますけど、嵯峨天皇は延暦5年(786)~承和9年(842)の人です。

300年くらい歴史がずれているかな

「天皇の御宸翰(しんかん)奉持し来り」って、嵯峨天皇の直筆の文書を持って来たのですか?

嵯峨天皇は漢詩・書をよくし、空海・橘逸勢とともに三筆の一人とされています。

 

高守忠国は、鎌倉ではなく、京都から来たと考える方が自然でしょうか?

でも、なぜ塩原にやって来たのでしょう?

 

 

同じ嘉暦の頃、少し奥の小平にも、やって来た人たちがいたのです

 

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