ろっくぶっくのいつものように

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絵手紙を始めました。見てください。

平城宮跡-解説ボランティアさんすごいです

2009-06-28 21:47:33 | 遺跡・古墳
少し時間がたってしまいましたが、平城宮跡の第2弾です。解説ボランティアさんについて。

朱雀門のところと東院庭園のところは蛍光グリーンのはっぴを着た解説員さん、遺構展示館は胸のところに奈文研と書いてある白いポロシャツを着た解説員さんがいました。他の場所でも、遠めに蛍光グリーンが見えたので解説ボランティアさんがいたと思います。

皆さん、それはそれは丁寧な解説をして下さいます。「解説ボランティア。お気軽に声をかけてください。無料」みたいな案内板があり、こちらからお願いすると、1対1で解説して頂ける。何とも贅沢ではある。

これは、復原工事中の第一次大極殿(だいごくでん)


遺構展示館では、本当に詳しく解説をしていただいた。この前の稿で書いたこともほとんど、その方の受け売りです。

木をくりぬいた井戸枠や、水を運んだ(要は水道)木の樋などの展示品にのところで、このあたりもうろ覚えで、記憶は曖昧だけど。
水の中にあったから腐らずに残った。普通、水の中だと腐ると考えがちだが、そうではなくて、水の中にある間は腐らず、水から出して酸素に触れると腐る。水から出して、水が抜けていくとよじれが出たり、壊れたりしてしまう。なので、水を抜いて、水の変わりに木が腐らない液体を入れていく。

日本は四季があるので木に年輪が出来る。その年輪を調べていくことで、かなり正確に年代がわかる。多くの木の年輪の進み具合から、気候状況が分かって、基準になる木が出来て云々。

柱などは周りを削ってしまうので分からない場合が多いけれど、外側まである木が残っている場合には、その木を切った季節まで割り出せるところまで来ているそうです。

平城京時代に一時聖武天皇によって恭仁京(くにきょう)などに遷都されたのは今でも謎だそうです。というか、そのあたり知りませんでした。

平城宮跡を見た後に箸墓古墳に行く予定だと私が言うと、平城宮跡の北側にも古墳群があって、そこを見るだけでも半日は優にかかる旨言われていました。古墳は宮内庁が管理しているので中には入れないけれど、周りを見るだけでもいいとか。

あと、遺功展示館にせんとくんのポスターがはってあったので、「こちらではどうですか?」と聞いてみた。きもいのなんのと物議をかもし出していたから、地元ではどうかなくらいの気持ちで聞いたのですが、「かわいいですよね。一時ほどではないけれど人気ありますよ」とすんなり答えが返ってきた。ああ、そうなんだ、地元では愛されているんだわ。よかったな、と思いました。

そんなこんなでたっぷりと解説を聞いて、広々とした敷地内をゆっくりと歩いて、東院庭園も見たらしっかり時間がかかり、箸墓古墳は次回へのお楽しみに先送りとなりました。来年のキトラ古墳の壁画公開のときは、平城宮跡北側の古墳群と箸墓古墳も合わせてみたいけれど、ちょっと欲張りすぎかな。何年か掛かりでもいいかもしれません。じっくりとお付き合いしましょうという感じです。
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平城宮跡-朱雀門にびっくり

2009-06-13 22:11:08 | 遺跡・古墳
奈良の平城宮跡を堪能してきました。ローマのフォロ・ロマーノにも匹敵する(と思う)ロマンあふれる空間でした。

 平城宮跡に足を踏み入れたのは今回が初めてです。その昔の修学旅行のときと、その後もう一度、近鉄線で奈良に着く直前に車窓から見たことはあったのです。そのときのあいまいな記憶では、ただただ広い草原に石碑のようなものがぽつんと立っている、それが平城宮跡だと勝手に思い込んでいました。今回ほんとうにびっくりしたのは、朱雀門があったこと。まるで知りませんでした。あと、大極殿(だいごくでん)も復原建築中で、その他にもいろいろと整備が進んでいました。
 とはいっても、なんだかのんびりとした空気に包まれていて、いかにもご近所の人が、ジョギングしたり、自転車で通ったり、犬の散歩をしていたり、大学生の運動部の練習をしていたりと、日常感がいっぱいでした。
朱雀門と、広々とした第二次朝堂院(ちょうどういん)

 今回は、大阪に所用があり、せっかくなので、翌日を奈良で過ごそうと思い立って行っただけで、何の準備も予備知識もなく、平城宮跡をさらっと見て、その後、箸墓古墳のあたりを散策してこようと思っていました。結局、平城宮跡だけで時間切れとなり、箸墓古墳はまたのお楽しみになりました。

 以下は、現地のボランティアガイドさんに解説していただいたことの、うろ覚えの受け売りです。

・平城宮跡は710年に遷都されて、794年に京都に都が移るまで都があった。ただし、その間も数年間別のところに都が移ったことがある。
・平城京、平安京の当時は建物は移築したため、都が移ると、建物も持っていって、新しい土地に建て替える。そのため、京都に都が移って数十年で、ほとんど何もなくなってしまった。
・その後は、ずっと、田んぼになった。
・京都は1200年の間、ずっと、地上に形として存在していたが、奈良という土地は、奈良時代が点としてあって、その後は、途中が何もなくて、現代になる。
・平安京に遷都した時、奈良にあった寺は、新しい都に行くことが許されなかった。政治的に大きな影響力があったためだが、そのために奈良に残った。だから奈良にあるのは、寺と、あとは遺跡だけである。
・地上に何もない分、ロマンをかき立てられるという面はある。
・当時の建物は掘っ立て柱で作られていて、直接地面に柱を立てるので、20-30年しか持たない。そのため奈良時代だけで、同じ場所で3回くらい柱の位置を変えて立てている。
・昭和30年代に、木簡が見つかったことから、国が土地を買い上げて発掘調査が始まった。しかし、近鉄電車は大正時代からその範囲内を走っており、既得権としてそのまま走っている。
・当初平城宮跡は長方形と考えられていたが、南東角は出っ張っていることが分かった。きっかけは、長方辺に沿って新しい道路を作る工事だった。大きな発見は大体そういう偶然が絡んでいることが多い。発掘調査などでは、それ程大きなものが出てくることは少ない。

等々、等々。別稿でもう少し書きます。
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