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平城宮跡-朱雀門にびっくり

2009-06-13 22:11:08 | 遺跡・古墳
奈良の平城宮跡を堪能してきました。ローマのフォロ・ロマーノにも匹敵する(と思う)ロマンあふれる空間でした。

 平城宮跡に足を踏み入れたのは今回が初めてです。その昔の修学旅行のときと、その後もう一度、近鉄線で奈良に着く直前に車窓から見たことはあったのです。そのときのあいまいな記憶では、ただただ広い草原に石碑のようなものがぽつんと立っている、それが平城宮跡だと勝手に思い込んでいました。今回ほんとうにびっくりしたのは、朱雀門があったこと。まるで知りませんでした。あと、大極殿(だいごくでん)も復原建築中で、その他にもいろいろと整備が進んでいました。
 とはいっても、なんだかのんびりとした空気に包まれていて、いかにもご近所の人が、ジョギングしたり、自転車で通ったり、犬の散歩をしていたり、大学生の運動部の練習をしていたりと、日常感がいっぱいでした。
朱雀門と、広々とした第二次朝堂院(ちょうどういん)

 今回は、大阪に所用があり、せっかくなので、翌日を奈良で過ごそうと思い立って行っただけで、何の準備も予備知識もなく、平城宮跡をさらっと見て、その後、箸墓古墳のあたりを散策してこようと思っていました。結局、平城宮跡だけで時間切れとなり、箸墓古墳はまたのお楽しみになりました。

 以下は、現地のボランティアガイドさんに解説していただいたことの、うろ覚えの受け売りです。

・平城宮跡は710年に遷都されて、794年に京都に都が移るまで都があった。ただし、その間も数年間別のところに都が移ったことがある。
・平城京、平安京の当時は建物は移築したため、都が移ると、建物も持っていって、新しい土地に建て替える。そのため、京都に都が移って数十年で、ほとんど何もなくなってしまった。
・その後は、ずっと、田んぼになった。
・京都は1200年の間、ずっと、地上に形として存在していたが、奈良という土地は、奈良時代が点としてあって、その後は、途中が何もなくて、現代になる。
・平安京に遷都した時、奈良にあった寺は、新しい都に行くことが許されなかった。政治的に大きな影響力があったためだが、そのために奈良に残った。だから奈良にあるのは、寺と、あとは遺跡だけである。
・地上に何もない分、ロマンをかき立てられるという面はある。
・当時の建物は掘っ立て柱で作られていて、直接地面に柱を立てるので、20-30年しか持たない。そのため奈良時代だけで、同じ場所で3回くらい柱の位置を変えて立てている。
・昭和30年代に、木簡が見つかったことから、国が土地を買い上げて発掘調査が始まった。しかし、近鉄電車は大正時代からその範囲内を走っており、既得権としてそのまま走っている。
・当初平城宮跡は長方形と考えられていたが、南東角は出っ張っていることが分かった。きっかけは、長方辺に沿って新しい道路を作る工事だった。大きな発見は大体そういう偶然が絡んでいることが多い。発掘調査などでは、それ程大きなものが出てくることは少ない。

等々、等々。別稿でもう少し書きます。
コメント
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