岐阜県八百津町にある杉原千畝記念館に行ってきました。
木をたくさん使ったしゃれた感じの小ぶりな記念館です。(写真を撮るのをすっかり忘れてしまいました)
これは入場券です。
第二次大戦中に、リトアニアの日本領事館に赴任していた外交官ですが、ナチスの迫害から逃れるポーランド系ユダヤ人達に日本の通過ビザを発給した人です。命のビザと言われているものです。外務省にお伺いを立てるも、返事はNOだったにもかかわらず、人道的見地から自身で決断しビザを発給しました。日本通過ビザが取得できたことで、ソ連の通過ビザも取得でき、唯一のルートであるシベリア鉄道経由で、ウラジオストック、舞鶴と渡り、その後、中国やアメリカ、オーストラリアに渡ったそうです。6000人もの命がそれによって救われたといいます。
本人は帰国後、結局外務省の外交官としての職はなく、貿易会社に職を得てモスクワ勤務などしていました。千畝氏のビザで助かったユダヤ人が戦後随分と経った1968年に千畝氏を探し訪ねてきたことから、話が広く知られるようになったようです。
記念館内は、千畝氏が発給したビザや、助かった人たちのその後の写真、外務省との公電などの展示があります。千畝氏の生い立ちもあり、さらに、リトアニアのカウナスの日本領事館執務室が再現されています。説明文は、日本語と英語、それにもう一つ見慣れない言葉で書いてあります。受付で聞いたところ、ヘブライ語だそうです。イスラエルからの見学者が結構来られるのだそうです。
まわりは「人道の丘」と呼ばれる公園のようになっていて、モニュメントなどもあります。千畝氏の出身地である八百津町が力を入れているようです。
リトアニアのカウナスにも杉原記念館があるようです。機会があればそちらにも行ってみたくなりました。
話は少しさかのぼりますが、6月に広島へ行く機会があり、原爆ドームを初めて見ました。原爆資料館は、心の準備が出来ず入ることはできませんでした。
という訳で、ポーランドへ行く気持ちの準備は少しできてきたつもり。単に観光ですけど、アウシュビッツとかピルケナウに行くのに、自国のそれなりの場所を全く知らないで行くのは気が引けるというものなので。
木をたくさん使ったしゃれた感じの小ぶりな記念館です。(写真を撮るのをすっかり忘れてしまいました)
これは入場券です。
第二次大戦中に、リトアニアの日本領事館に赴任していた外交官ですが、ナチスの迫害から逃れるポーランド系ユダヤ人達に日本の通過ビザを発給した人です。命のビザと言われているものです。外務省にお伺いを立てるも、返事はNOだったにもかかわらず、人道的見地から自身で決断しビザを発給しました。日本通過ビザが取得できたことで、ソ連の通過ビザも取得でき、唯一のルートであるシベリア鉄道経由で、ウラジオストック、舞鶴と渡り、その後、中国やアメリカ、オーストラリアに渡ったそうです。6000人もの命がそれによって救われたといいます。
本人は帰国後、結局外務省の外交官としての職はなく、貿易会社に職を得てモスクワ勤務などしていました。千畝氏のビザで助かったユダヤ人が戦後随分と経った1968年に千畝氏を探し訪ねてきたことから、話が広く知られるようになったようです。
記念館内は、千畝氏が発給したビザや、助かった人たちのその後の写真、外務省との公電などの展示があります。千畝氏の生い立ちもあり、さらに、リトアニアのカウナスの日本領事館執務室が再現されています。説明文は、日本語と英語、それにもう一つ見慣れない言葉で書いてあります。受付で聞いたところ、ヘブライ語だそうです。イスラエルからの見学者が結構来られるのだそうです。
まわりは「人道の丘」と呼ばれる公園のようになっていて、モニュメントなどもあります。千畝氏の出身地である八百津町が力を入れているようです。
リトアニアのカウナスにも杉原記念館があるようです。機会があればそちらにも行ってみたくなりました。
話は少しさかのぼりますが、6月に広島へ行く機会があり、原爆ドームを初めて見ました。原爆資料館は、心の準備が出来ず入ることはできませんでした。
という訳で、ポーランドへ行く気持ちの準備は少しできてきたつもり。単に観光ですけど、アウシュビッツとかピルケナウに行くのに、自国のそれなりの場所を全く知らないで行くのは気が引けるというものなので。