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ユラーナ Ulana - A bridge between Japan and Overseas Countries

龍神由美のブログ。江戸の面影を残す川越に、先祖代々300年住んでいます。私の川越暮らしを綴ります。

今週の朝日歌壇 2010.11.14

2010年11月18日 | 短歌
今週の朝日歌壇に、富山市の小学生の姉妹が揃って入選しています。

ピッカピカに光ってるひいばあちゃんの新米今日は私がとぐよ  富山市 松田わこ
(馬場あき子選)

PTAのママとろう下ですれちがう私のママじゃないママみたい 富山市 松田梨子
(馬場あき子、高野公彦選)

どちらも日常生活を素直に詠んでいますが、わこさんの歌は、新米を作ってくれた「ひいばあちゃん」への感謝が込められていて、家族の絆の強さが感じられる歌です。ご飯も電子レンジでチンの時代に、お米を研ぐ小学生がいてくれるということは、嬉しいことですね。

梨子さんの歌は、私も学校に現れた母親に感じたのは、そんな感じだったなぁ、と思い出されるような歌ですね。ママが3回繰り返されていますが、ママにはいろいろな顔があるということを段々知っていく時期なのでしょうか。

小学生ながら、歌人としての将来がとても楽しみです。選ぶ選者の期待にきっと応えてくれることでしょう。


ユラーナ

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今週の朝日歌壇

2010年11月02日 | 短歌
今日は、微熱があり、一日ぐだぐだと過ごしてしまいました。昨日の朝日歌壇に、素敵な歌が載っていたことを思い出しました。


(高野公彦選)
熱が出て一日ずーとお布団でモゾモゾたまにあめちゃん食べて   (富山市)松田わこ


松田わこさんは、確か、小学生だったと思います。何回も、お母さんとお姉さんか妹さんと共に、入選しています。小学校低学年の感性には、脱帽ですね。これからも、いろいろな才能が発揮されますように・・・そして、お熱が下がりますように・・・


ユラーナ

コメント (2)
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朝日歌壇に入選すると

2010年10月07日 | 短歌
先日、朝日歌壇に入選しましたが、朝日新聞文化部 俳・歌壇係より封書が届きました。





「入選おめでとうございます」から始まり、「(中略)同封のものはお礼のしるしでございます。ご笑納ください。これからも良い新聞をつくります上で、お力添えをたまわりますようお願いいたします。」とあります。

そして、「お礼のしるし」とは、葉書10枚です。今までも、同様にいただきましたが、もったいなくて使っていません。

日経歌壇には、19回入選しましたが、日経からは、何の連絡もなく、「お礼のしるし」というようなものもありませんでした。

朝日歌壇には、毎週、数千首が届くと聞きました。その中から、40首が選ばれるので、なかなか載りませんね。でも、こうして、封書が届くと、とても嬉しいものです。そして、来年になると、「朝日歌壇」という本に掲載されることになります。


ユラーナ
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本日(2010.9.27)の朝日歌壇に載った私の歌

2010年09月27日 | 短歌
今日の朝日歌壇に私の短歌が入選しました。


ケータイが鳴らないことを祈りつつ病院近くのホテルで眠る (高野公彦選)


伯父が亡くなったのが、8月30日早朝。この歌は、28日の夜に、ホテルに宿泊し、なかなか寝付けずに詠みました。
朝日歌壇は、応募者が多いので、私の場合は、ぎりぎりの限界の中で、体の中からほとばしるようにして詠んだものしか選ばれません。

今までは、入選すると、新聞をコピーして、伯父に送っていましたが、これからは、送る相手がいない、という事実に気づいて、愕然としています。


ユラーナ
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「レイテの反転」」と私が「川越生まれ」を名乗らぬ理由

2010年06月24日 | 短歌
私、龍神由美は、3冊の本「川越今昔ものかたり Long-long-ago in Kawagoe」と「川越ご訪問」という本を出していますが、本の奥付では「川越生まれ」と名乗っていません。「川越育ち」と書きました。何故なら、私は、川越で生まれていないからです。

私が生まれる頃、母の兄である伯父は、文京区雑司ヶ谷にあった東大の附属病院の分院で産婦人科医をしていました。東大分院は、今はもうありません。母は、私が生まれそうになったときに、車で分院まで行き、そこで、伯父は私をとりあげてくれました。

伯父は、太平洋戦争のときに、軍医となり、戦艦長門に乗っていました。今でも謎とされているレイテ沖海戦の「レイテの反転」で生き長らえました。その後も、九州・鹿屋の野戦病院にいたときに、死にかけました。昭和20年8月15日の終戦から数か月経ち、12月になってようやく、川越の家に戻って来ました。家族は、皆、死んだと思っていたそうです。

伯父にとって、その後の人生は、「おまけ」だそうです。今年は、終戦から65年目ですから、随分と長い「おまけ」ですが。戦後は、産婦人科医として、ひたすら忙しく働いてきました。数年前に、電話で「レイテ沖海戦」のときのことを話してくれたことがあります。

私は、歌を詠み、2007年12月9日の朝日歌壇に載りました。


            終戦から六十二年を経て伯父は「レイテの反転」我に語りき (佐佐木幸綱選)


もし、私が、「川越生まれ」と名乗ったら、太平洋戦争を生き延びた伯父に取り上げてもらった事実が消えてしまいます。「なんでそこまでこだわるの?」という方もいますが、私は、事実にはこだわりたい。実際に戸籍は、川越生まれにはなっていないのですから。さりとて、「東京生まれ」と名乗る程のこともありません。

10代後半から87歳まで、約70年間、ひたすら患者のために働き、ゴルフとほんの少々の晩酌だけが楽しみだった伯父が、ついに病に倒れました。人生は、何と、理不尽であるのか・・と茫然としています。しかし、自分が望んだ病院で、最高の医療を受けられており、身内としては、それだけが救いです。

先生方、看護師さん、どうぞよろしくお願いいたします。伯父にも、先生方のように若い時代がありました。


ユラーナ
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