ユラーナ Ulana - A bridge between Japan and Overseas Countries

龍神由美のブログ。江戸の面影を残す川越に、先祖代々300年住んでいます。私の川越暮らしを綴ります。

田中角栄に会った船舶通信士の父

2010年04月30日 | 社会
船舶通信士であった父から聞いた話です。

1912年(大正元年)のタイタニック号海難事故を受けて、船舶の安全確保を目的として、国際海上人命安全条約(SOLAS条約)が1914年に締結されました。これによると、「船舶には、原則として、3人の船舶通信士が乗船し、24時間、550kcの電波を聴かなければならない」と定められていたといいます。これを「無線三直制」と呼びます。

タイタニック号では、船舶通信士が、旅客の電報発信業務に忙しく、カルフォルニア号からの再三に渡る「氷山が近い」という警告を無視したために、その悲劇が起こったとされています。この悲劇を二度と繰り返さないために、SOLAS条約は結ばれたのです。

日本では、「電波法」が、1950年(昭和25年)年6月1日に施行されました。その後、人員削減をもくろむ船主たちの「船舶通信士は、2人もしくは1人でいい」という主張を受けて、政府は、電波法の改正ならぬ、(父によると)「改悪」を何度も試みました。

1957年(昭和32年)7月10日に、田中角栄が39歳で郵政大臣となりました。30代での大臣就任は、戦後は、角栄が初めてでした。角栄は、翌年の6月12日に郵政大臣を辞めましたが、「後任の郵政大臣に、電波法を改悪させる引き継ぎをしたらしい」、という噂が流れました。

当時、父は、日本郵船の船舶通信士でしたが、船舶通信士協会に加入していました。その噂を聞いて、協会の仲間たちで「何とか改悪を阻止したい。そのためには、田中角栄に直訴したい」という話になりました。

田中角栄の首相秘書官となった人物で、榎本敏夫という有名な人がいますが、この人の弟さんが、船舶通信士でした。その方が「兄のコネで角栄に会える」、と言ったのだそうです。そこで、1958年(昭和33年)の夏、父他3名は、当時の目白御殿に行きました。

朝8時頃に行ったそうですが、大きな広間に陳情者が大勢いた、といいます。

そして現れたのが「角さん」。榎本敏夫が、「こっち、こっち」と言うと、角さんは、「おっ」と言って、真っ先に父たちの方にやって来て、

「君たちの用件は何かね?」

「電波法の件です」

「君たちは、法案に賛成か、反対か?」

「反対です」

「おっ、大丈夫だ。あれは通らん」

たったこれだけで、電波法の「改悪」は5年間されなかったそうです。(電波法の改正可決は1963年3月30日)

角栄より8つ年下の父は、この話をする度に、「田中角栄はすごかった」と言います。
ロッキード事件で失脚しましたが、政治を大きく動かした角栄は、陳情内容を聞いてその可否を即断したといいます。

そんな人物に私も会ってみたいと思います。


ユラーナ

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英文タイプライターからパソコンの時代へ ~フロッピーの生産中止

2010年04月29日 | 社会
昨日、船舶通信士であった父のことを書きました。船舶通信士は、トン・ツーと呼ばれるモールス信号を送受信します。それには、アルファベットとカタカナがあって、交信する相手局によって識別するのだそうです。英語の受信は、英文タイプを使い、日本語の受信は、カタカナを手書きしたそうです。よって、父は、大正生まれですが、パソコンのブラインドタッチはお手のものです。

父は、小学校3年生の私に、オレンジ色のブラザーの英文タイプライターを買ってくれて、「これでタイプを勉強しなさい」と言いました。(今も家に残っていると思います。)しかし、アルファベットもわからない小学生には、タイプの打ち方もわからず、また、指が細かった私には、キータッチが重すぎて諦めました。

大学に入り、地元のデパートの文具売り場でアルバイトをしていたときに、そこでオリベッティのタイプライターを買いました。割引をしてもらっても、5万円以上したと思います。しかし、これも、まだ、電動ではありませんでした。大学の同窓会館で、英文タイプの講座がありましたので、そこで、本格的にタイプの勉強をしました。ここでは、電動タイプライターが導入されていました。しかし、打つ文字を間違えると「ホワイト」で消さなければなりませんでした。

1980年4月にドイツ系医薬品製造会社に就職し、役員秘書及び翻訳業務を仰せつかりました。ここでも電動式のタイプライターでしたが、少し進化していました。その後、日本IBMが「メモリータイプライター」を発売したので、これを導入してもらい、随分と作業が楽になりました。しかし、画面はありませんので、タブで入力したのか、スペースで入力したのか覚えていないと、後で修正するときに大変でした。

それから出たのが、「東芝EW100」という英文ワープロでした。これは、画期的でした。今のパソコンの原型ですね。CRTディスプレーがついていて、フロッピーディスクは、8インチの大きなものでした。1台200万円くらいしたと思います。1枚のフロッピーには大量の英文データを入れることが出来ました。しかし、このペロペロのフロッピーが、一度、ふやけてしまったことがありました。東芝に修復をお願いし、無事にデータが返って来た時は、ほっとしました。それから、日本IBMのコンピューターが導入されましたが、まだまだ、実用には程遠かったと記憶しています。

Windows95が出るまでに、事務職は本当に苦労しました。数年前に入社した新入社員の秘書に「昔は、こうだったから大変だったのよ」と話したら、さも馬鹿にしたように「どうしてパソコン使わなかったんですか?」と言われて、返す言葉がありませんでした。デジタル・ネイティブが増えてきた現在、こんなOAの進化の話をしても、興味を持ってもらえないのでしょう。OAという言葉も最近は聞かなくなりましたね。ちなみにOAとは、Office Automationの略ですが、ご存じでしたか?

フロッピーの生産中止というニュースが流れましたが、感慨深いものがあります。


ユラーナ
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船舶通信士

2010年04月28日 | 短歌
私の父は、船舶通信士でした。船舶通信士は、モールス信号を送受信していましたが、今は、GMDSSというシステムのために、客船以外は、船舶通信士が乗船する必要性はなくなってしまいました。よって、世界で現存する船舶通信士は、数える程だそうです。

父が船舶通信士になったのは、太平洋戦争のためです。海軍に入る予定でしたが、入隊直前に終戦となりました。その後、マッカーサー指令によって、引き揚げ船に乗り、それから、現在もある大手船舶会社に入りました。

私が生まれたときも、父は、イギリスに向かう船に乗っていて、すでに両親が亡くなっていた母は、私を一人で産みました。父が赤ん坊の私に会ったのは、生まれてから3か月後だったと言います。弟が生まれるときも、父は、インド洋の真ん中にいました。

外国航路に出ると、半年間は海の上で、家に帰ってくるのは約3日間だけでした。世界地図を壁に貼り、「今、お父さんの船は、ソロモン群島あたりだね」と言ったりしました。手紙を書いて、次に着く港に、航空便で送りました。太平洋のド真ん中で船が座礁に乗り上げて遭難し、運よく日本の漁船に救助され、すべてを置いて、身一つで帰って来たこともあります。

出港する船の見送りに行ったことがあります。港から出る巨大な船は、海の上をなかなか進みません。水平線は、遥か遠くなのです。いつまでも、いつまでも、手を振っていても、父とさよならすることが出来ませんでした。涙がポロポロこぼれました。

        父の乗る船見送れば水平線はるかにまぶしここのつの冬
                                  詠み人 ユラーナ


今のネットや電話の時代は、夢のようです。お陰さまで、父は、健在です。


ユラーナ


デジタル大辞泉より GMDSSとは
《 Global Maritime Distress and Safety System 》海上における遭難および安全の世界的制度。国際海事機関(IMO)が世界的に導入している人工衛星を利用した船舶の海上安全通信システム。1992年から導入され、99年にこれまでのモールス通信体制からGMDSS体制に完全移行した。
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信仰心 

2010年04月27日 | 社会
信仰心とは何でしょうか。信仰心という言葉を聞いただけで「ああイヤ。宗教!」という方もいらっしゃるでしょうし、目に見えない力、神や仏あるいは自然に対する畏怖の念という方もあるかと思います。私は、信仰心とは、ひとつには、ご先祖さまや先人に対する尊敬・敬愛の念ではないかと思います。

「今、有名人のお墓を見学するツアーが盛ん」、という報道がありました。歴史上の人物に興味を持てば、そのお墓を見たいと思う気持ちが湧くのも理解できます。しかし、ただ物見遊山で出かけて、カメラのシャッターを押すのではなく、その前にお線香やお花を上げていただけたら、と思います。

人ひとりが生きた証としてお墓は存在します。どんな人も、一生を終えたら、何らかの形で埋葬されるわけです。それが、手を合わせられることもなく、ただ興味本位で見物される、というのでは悲し過ぎませんか。ご自身や肉親が、近い将来、遠い将来、そのような目に会ったらどう感じるでしょうか。

神社にお祀りされている神々も、実在した人物であることもあります。明治神宮には明治天皇が、大宰府天満宮や北野天満宮などの天神様には、菅原道真が祀られています。神様にお願い事をするだけでなく、ただ心静かに手を合わせることによって、現在の自分のあり様を振り返るきっかけともなります。

また、神社仏閣の歴史を知れば、先人に対する深い尊敬の念が自ずと湧いてくると思います。何故、その神社やお寺が創立されたのか、誰が創立したのか、どういう時代背景があったのか、どうやって木を切りだして運んで来たのか、どうやって宮大工が建てたのか、などに関心を持つと、その場に立ったときの気持ちの持ち様も違ってくると思います。

ご先祖さまや先人がいらしてこその私たちです。神社仏閣を訪れるときには、そんな気持ちを持っていらしていただければな、と思います。


早稲田大学の古寺仏研究会に所属していたユラーナより(私の出身大学は早稲田ではありませんが)

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トイレに花を

2010年04月26日 | 日本文化
家のトイレに活けた(という程のことはありませんが)八重の山吹の花です。



私は、トイレにはお花を欠かさないようにしています。花入れは、10年以上前に、川越・喜多町の荒井桶屋さんに作ってもらいました。桶も注文しましたが、遊び心で花入れも作っていらっしゃいましたので、お願いしました。ちょっと年季が入っています。

木で作る桶は、お水を常に入れておけば、箍(たが)が緩まず、水は全く洩らないという素晴らしい構造です。トイレ掃除の後、その桶の花入れに、庭で咲いた花をちょっと入れると、トイレが生き生きとします。

以前、「私は、トイレにもお花を活けるのよ」と話したら、「ウチは造花です!」と言った40代半ばの秘書がいました。ぞ、造花ですか・・造花は、花でしょうか。私は、造花は花ではないと思います。生きていませんもの。表面に埃をかぶっていても、きっと気づかないでしょうね。お花は、活けてもどんどん変わっていきます。菜の花は、どんどん伸びてゆきますし、角度も変わっていきます。よって、私は、トイレに入る度に、お花の角度を直したりします。

ちなみに、山吹は、川越市の花です。川越城を建てた太田道灌の逸話として、次のような話があります。

「若い時に狩りに出てにわか雨にあい、ある農家にかけこんで蓑(みの)を借りようとしたところ、一人の少女が山吹の花一枝をたおって黙って道潅に差し出した。道潅はその意味を解しかねたが、館に帰って、それは、後拾遺和歌集にある『七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞかなしき』という古歌をもじって、お貸しする蓑(山吹の実の)がございません、という意味であったことを知り、自分の和歌についての学の無さを恥じ、それから、歌の道に励んだ」というものです。(詳しくは、私、龍神由美の「川越今昔ものかたり その十三からその二十四」をご覧ください。)

トイレであっても、お花を活けると、爽やかな気分になりますね。トイレにはトイレの神様がいらっしゃるらしいです。お会いしたことはありませんが。


ユラーナこと龍神由美

コメント (2)
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