ユラーナ Ulana - A bridge between Japan and Overseas Countries

龍神由美のブログ。江戸の面影を残す川越に、先祖代々300年住んでいます。私の川越暮らしを綴ります。

京都へ行ってまいりました

2011年10月07日 | 旅行
法然上人800年大遠忌の大法要が行われている浄土宗の総本山、京都・知恩院さんへ行って参りました。

大きな三門には大きな幕が掛けられて。



法然上人は、今年3月16日、天皇陛下より、「法爾」(ほうに)という大師号を賜ったそうです。滅後480年余に朝廷から賜った大師号は、500年遠忌の行われた宝永8年以後、50年ごとに加謚される習わしとなって、これで8つ目の大師号となったそうです。



女坂を登って。



一番大きなお堂である御影堂。



このお堂の中で古式法要が行われました。

集会堂(しゅうえどう)の阿弥陀三尊は、知恩院第三十七世、玄譽知鑑上人(1606-1678)が、修復のため、川越の蓮馨寺からもたらしたものだそうです。今回の大法要に合わせて修復を行った際に、その旨を表す記述が阿弥陀様の体内から見つかったとのことでした。

知鑑上人は、蓮馨寺第九世であり、9年間、川越に住し、鎌倉光明寺、そして、知恩院の第三十七世へと上り詰められたお上人さまです。知恩院と蓮馨寺のご縁の深さを感じさせる史実が、近年明らかになりました。この三尊が、川越からもたらされ、恵心僧都源信作というのは、驚くべきことです。恵心僧都は、平安中期の天台宗のお坊さんで、「往生要集」を著し、以後の浄土宗信仰の展開に大きな影響を与えた方です。

「阿弥陀如来の右の脇侍は、観音菩薩、左の脇侍は、勢至菩薩。法然上人は、幼い頃から賢かったので、勢至丸というお名前がついていました」と、蓮馨寺さんのお坊さんのご説明をいただき、皆さんとご一緒に手を合わせて、「南無阿弥陀仏」を10遍お唱えいたしました。阿弥陀如来さまは、とても、おだやかなお顔をなさっていました。

そして、各お堂で、何度も「南無阿弥陀仏」をお唱えして、心洗われる一日となりました。


その後、皆さんとお別れし、円山公園を抜けて、お墓参りに行きました。



雨降る円山公園。人が全くいず、昔に戻ったかのような風情でした。


その後、祇園甲部歌舞練習場で行われている温習會へ行きました。芸妓さん舞妓さんによる京舞井上流の踊りの会です。



場内の撮影は禁止ですが、ロビーはOKとのことでしたので、きれいにお着物を着こなしていらっしゃる方々を写させていただきました。









皆さん、秋を題材にされた帯やお着物をお召しになられ、髪形もとても美しい。ほとんどの方が、踊りをなさっている方なのでしょう。

舞台は、それこそ、夢を見ているかのような、あでやかさでした。今年は、大震災のこともあって、演目は控えめなものにしたとのことですが、さすが井上流です。お能のような演目、歌舞伎のような演目。そして、踊りとは、こういうものをいうのか、とあらためて、日本の美の極致に触れた思いがいたしました。

2階の桟敷席にいらした舞妓さん。休憩時間に、「お写真、撮らせていただけますか?」とお願いしたら、「一枚だけどしたら」とお許しが。かわいらしい。



終演後、花見小路を歩く人たちも美しい。まだ、舞台を見ているかのようです。




翌日は、よく晴れ渡った中、800年大遠忌の行列に出会いました。
















伊藤唯眞 猊下(げいか)です。知恩院の第八十八世でいらっしゃいます。





お稚児さん。







知恩院のHPより
「法要が勤まる際、集会堂から本堂へ向かう行列のうち、屋外を練り歩くものを庭儀式といい、古くから大きな法会が厳修される時に行われてきました。法要の執行を近隣に知らしめるための、賑やかで盛大な儀式です。古式にのっとり、御門跡猊下、宗内・知恩院役員、檀信徒、子どもたちの稚児行列など総勢2000人が参加して練り歩きます。」


その後、嵐山へ行きました。私のご先祖さまが、幕末、東山で写真師となり、嵐山を撮っています。今は、どんな景色になっているか見たかったのです。150年前にあったはずの松はなく、代わりに、巨大な楓がありました。昔風に、白黒で撮ってみました。



その後、天龍寺さんへ。



こちらは、お庭で有名です。臨済宗のお寺。禅寺です。






雲水の美しい後ろ姿を見て旅は終わり、新幹線乗り場で皆さんと合流し、川越への帰途となりました。



東京駅近くの川越行きのバス乗り場まで来ると、蓮馨寺さんのお坊さんが、「旅は帰るところあるからよいのです」とおっしゃって、なるほどなぁ、と思いました。

今回の旅を企画してくださった蓮馨寺さんに深く御礼申し上げます。そして、連れて行ってくれた伯父ちゃん、どうもありがとうございました。多くのことに触れ、学び、実りある旅となりました。

川越の観光に活かしたいと思うことが、本当に多くありました。京都の皆さま方、ありがとうございました。また、ぜひ、行きたいと思います。


ユラーナ
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秩父 星音の湯

2011年01月15日 | 旅行
年末の大掃除でかなり疲れ、疲れが取れないので、秩父の星音(せいね)の湯という温泉に行ってきました。去年の2月に初めて行きましたので、2回目です。

所沢からレッドアロー号で、西武秩父駅へ向かう旅。吾野(あがの)という駅の近くまで来ると、山がたくさん見えて、旅行している気分いっぱい。




西武秩父駅へは、所沢から1時間程。駅に着くと、右手に武甲山が見えました。武甲山の名前の由来については、「日本武尊が、自らの甲(かぶと)をこの山の岩室に奉納したという伝説が元禄時代の頃から定着した」とウェキペディアにあります。



セメントの採掘で有名ですが、昔と比べると、姿がすっかり変ってしまう程、採掘されてしまった模様です。


駅の近くで、星音の湯の無料バスが止まっていたので、乗り込みました。平日なのに、お客さんは、あと5人くらいいました。秩父駅経由でゆっくりとした運転だったので、着くまでに33分かかりました。

やっと到着。



まだ、松飾りが!川越とは、風習が違うのでしょうか。






受付で入館料900円を支払い中へ。お腹が空いていたので、まず、お昼。ハンバーグ定食をいただきました。


外に出ると、「開運手相占い」をやっていました。品のある男性の占い師さんです。観てもらうことにしました。

「あなたは、長寿ですよ。それも半端な長生きではないですよ」

「う~ん、長生きさせていただけるのはありがたいのですが、それだけ生きていけるお金が入ってくるのでしょうか?」

「神様っていうのはね。それだけのものをその人に与えて、生まれさせてくださっているのです」

「なるほど・・・」

「大丈夫ですよ。頭脳線にちょっとぷつぷつと鎖のようなものが出ているのが見えますか?」

「はい」

「これは、あなたが、心配性になっていることを表しています。だから、もっと楽天的に生きてください。大丈夫です。はっきり言うと、とても羨ましい手相です」

「そうなんですか・・・」(大丈夫なのか・・私の人生・・)

「私は、七赤金星なので、今年は、八方塞がりの年なんですが・・・」

「そういうこと言う方いますけれどね。私たちは、八方塞がりではなく、八方つうたつと言います」

「つうたつって?」

「通じるに、達するです。つまり、自分が中心の星となるので、どの方位へも最短距離で行けるということです」

ここで、九星学の本を出し、今年の七赤金星の位置を見せてくれました。

「なるほど」

「万が一、八方が塞がっていたとしても、上(天)とは、繋がることができます」

「なるほど」

「大殺界だなんだって、人を脅す方がいますが、それは、本来の占いではないですよ」

「なるほど」

感心することしきり。ここに書いたことは、ほんの一部です。気づくと1時間15分も経っていて、2100円とは、とてもお安い価格。占いを超えて、人生相談しているようでした。

占い師さんは言いました。「すべて、物事、両面があるんです。よい方に解釈しましょう」

そんな長時間観てもらって、すっかり、元気を取り戻した私は、占い師さんに深々とお辞儀をして、その場を去りました。


そして、温泉へ。そんなに大きな浴場ではないけれど、とても濃い大地のエネルギーを感じました。岩盤浴もして、すっかりデトックス。

帰りのシャトルバスの時刻に合わせて、露天風呂に入っていたら、すでに、外は真っ暗になり、空を見上げたら、半月のお月さまと宵の明星が真上に輝いていて、何だか嬉しくなりました。

体が、芯からぽかぽかと温まって、とてもいい秩父への旅となりました。ありがとうございました。



ユラーナ

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オハイオ州・トレド市の思い出

2010年12月04日 | 旅行
1996年1月から丸2年、アメリカ・オハイオ州トレド市に、仕事のために滞在しました。外国人が誰もいず、全員アメリカ人という環境の中に放り込まれて、とても苦労しました。引っ越し荷物の整理が終わらない内に、会社に出勤し、新しい仲間の顔と名前を覚えることから新生活は始まりました。

会社では、「あなたの発音は可笑しい」、と言って笑われ、「あなたの服装は、私たちの着ているものと似ているけれど、どこで買ったの?」とまるで、異星人のような扱いを受けましたが、可愛いがってもらっていると考えることにしました。黒人も少なければ、外国人がほとんどいない地域だったのです。パソコン、インターネットが普及する前のことです。

最初は、皆、素晴らしい英語を話しているので(当たり前のことですが)、「おお、すごい!」と感心していましたが、段々、仕事に慣れてくると、「こんな仕事の仕方では、非効率ではないか」などと思ったりしました。会社の仕事は、どこでも同じようなものだと思いました。

苦労したのは、日本食の食材でした。トレド市には、当時、日本食専門のお店はなく、ラオス人が経営しているアジア食のお店しかありませんでした。餃子を作りたいと思ったとき、そのラオス人のお店で、ニラを見つけたときはとても嬉しかったです。餃子の皮は、冷凍したものをそこで売っていました。(でも、賞味期限の記載もなく、とても不安でしたが。)

お肉は、スーパーの肉売り場で、半ポンドだけ挽肉にしてもらいました。キャベツは、普通に売っていたので、問題はありませんでした。

しかし、これらの食材を集めるのに、車であちこち行かなくてはならず、運転が好きでない私にとっては、苦痛でしたが、やっと集めた食材で作った餃子は、美味しかったです。

カレーやシチューは、ルーを売っていたので、簡単に作れました。困ったのは、薄切りのお肉を売っていなかったこと。魚類が全く手に入らなかったこと。お鍋の材料が手に入らなかったことなどでした。

帰国して、近くの生協に行ったら、コンパクトな店内に欲しい食材がぎっしり詰まっていて、涙がぽろぽろこぼれました。(一緒に行った母は、「恥ずかしくてどうしようかと思った」と言いました。)それ程、食べ物というのは、生きていく上で大きな存在だということを認識しました。

観光旅行でアメリカに行かれ、アメリカの魅力に惹かれる方は多いと思いますが、私にとっては、とても厳しい2年でした。1998年1月の帰国以来、アメリカには行っていません。子供の頃、とても憧れた国でしたが、弱肉強食の世界に身を置いて、私の住める世界ではない、と実感しました。それ以来、(良いことかどうかわかりませんが)、心は、日本と川越に向いています。


ユラーナ
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さきたま史跡への旅

2010年10月20日 | 旅行
先週、大学の同窓会の埼玉支部の皆さんと行田にバス旅行に行って来ました。とてもいいお天気で、夏のような暑さとなりました。国宝の鉄剣のある「さきたま古墳群」に行く予定なので、朝からとても楽しみでした。

最初に訪れたのは、行田資料博物館です。忍城址です。



入口の門は、かつての藩校「進修館」の表門であったと伝えられているとのこと。戦災によって、一度移築されていることなどから、進修館の門であるのかは、確定していないそうですが、現存する行田唯一の武家屋敷の表門だそうです。

博物館入口では、忍城おもてなし甲冑隊が出迎えてくれました。




博物館内では、国の重要文化財である古墳時代の大きな「旗を立てた馬形埴輪」などが展示されており、「あなどれないぞ!埼玉!」と地元埼玉の文化財を認識させられました。



忍城は、文明10年(1478) 頃、成田顕泰(あきやす)により築城されたそうです。天正18年 (1590) 豊臣秀吉の関東平定の中で戦われた石田三成による忍城水攻めにも耐え、「この城は水に浮くのか」と恐れられ、「忍の浮城(うきしろ)と称せられた」、と由来が書かれていました。



寛永10年 (1633)、松平信綱が忍城の城主となりました。信綱は、島原の乱を鎮圧した功績により、倍加増の6万2千石を以て、寛永16年(1639)、川越城に転封となりました。忍と川越は、ご縁が深いのです。

明治維新後、お城は取り壊されたそうなので、現在見られるものは、復元です。








お昼は、「彩々亭」という和牛懐石のお店でいただきました。



昭和の初年に建てられた、「荒井八郎商店」の建物ですが、国の登録有形文化財に指定されています。荒井八郎氏は、行田足袋被服工業組合理事長や全日本足袋工業組合連合会理事など足袋業界の要職を歴任し、戦後、参議院議員に当選して政治家としても活躍したそうです。氏と交流のある政財界の方々が訪れ、「足袋御殿」と呼ばれたとのこと。立派な建物が、単なる博物館ではなく、お店として活用されているところに、魅力を感じました。

とても美味しいお料理でした。



とろけるようなローストビーフ。



お庭も素敵ですし、玄関前のお庭は、銀閣寺の庭園のようです。






次に向かったのは、「埼玉県立さきたま史跡の博物館」です。まず、学芸員さんから古墳の説明をしていただきました。



そして、国宝展示室に向かうと、何と、国宝の金錯銘鉄剣が、ガラスケースの中ではありますが、手の届く所に展示されていました。本物は、東京国立博物館にあって、見られるのはレプリカだと思っていた私は、興奮しました。5世紀に作られたとされる剣には、表と裏に、はっきりと読み取れる金の文字(漢字)が書かれていました。鉄剣に刻まれた文字は、115文字。この国宝については、別途、詳しく書きたいと思っています。

外に出ると、広々と広がる大地に古墳がいくつも。レプリカでしょうか、埴輪が並べてあって、古墳の雰囲気がたっぷりです。






昭和43年(1968)の発掘調査で、稲荷山古墳のてっぺんにおいて、埋葬施設が発見されました。1メートルくらい掘ったらすぐに礫槨(れきかく)から、上記の金錯銘鉄剣をはじめとする豊富な副葬品が出土。出土したものは、昭和58年(1983)に、一括して国宝に指定されました。ヒスイ勾玉と銀のイヤリング、画文帯環状乳神獣鏡、帯金具などですが、100年に一度の大発見と言われたそうです。就職してすぐに、そんな大ニュースがあったな、と思い出しました。


国宝となった鉄剣が出土した礫槨(れきかく)埋葬施設跡。




古墳近くでは、秋の風情が楽しめました。






最後は、「花久の里」という旧家のたたずまいを残した空間で、お茶とケーキをいただきました。




「埼玉」という名前の発祥の「さきたま古墳群」。なかなか見に行く機会がありませんでしたが、今回、行くことが出来て、とても堪能しました。奈良もいいですが、埼玉も捨てたものではないということを再認識いたしました。さきたま古墳群の稲荷山古墳から出た国宝の鉄剣には、「自分は雄略天皇に使えた」、とあるそうです。5世紀のことです。まだ、仏教が導入される前ですね。

足の便があまり良くない行田ですが、一度、お運びになることをお勧めいたします。役員の皆さま方、どうもありがとうございました。


ユラーナ


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再び大磯へ

2010年09月22日 | 旅行
また、大磯へ行く用事がありました。東京駅からJR東海道本線で約1時間ですが、グリーン車を用意してくださる方がありましたので、東海道本線のグリーン車に初めて乗りました。

グリーン車は、2両だけのようでしたが、快適です。乗り込んで間もなく女性の車掌さん(?)が検札にやって来ました。し、しかし、驚いたのは、その車掌さん(と呼んでいいのかよくわかりませんが)、とおぼしき女性は、体中に、飲み物やおつまみのバックを巻き付けていたのです。

おお、スリム化は、とうとうここまで来たのですか。昔のJR(もしくは、国鉄)の男性の車掌さんは、とても偉そうに、鷹揚に切符に鋏を入れて行くだけでした。

東海道本線の車両は、2階もあり、地下もありで、飲み物を販売するカートを押せるような構造になっていない、ということもありますが、女性の検札員に、飲食物の販売までさせてしまうとは、何ともすごい時代になりましたね。さぞかし、疲れることでしょう。


ユラーナ
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