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ユラーナ Ulana - A bridge between Japan and Overseas Countries

龍神由美のブログ。江戸の面影を残す川越に、先祖代々300年住んでいます。私の川越暮らしを綴ります。

Long-long-ago in Kawagoe No.29アップとなりました

2017年10月02日 | 川越今昔ものかたり
小江戸川越観光協会の英文のHPに掲載させていただいているLong-long-ago in Kawagoeの29号がアップとなりました。(ピンクの部分をクリックください。)

今回は、繭から生糸を製造する製糸業を行った石川組製糸所について書きました。幕末から開国となり、生糸は、茶とともに主たる輸出品となりましたが、大幅な輸入超過となりました。

そんな中、石川幾太郎という人物が現れ、明治27年(1894)埼玉の豊岡に第一号の製糸工場を開き、明治35年(1902)に同じ場所に第二工場が、そして、明治41(1908)に、川越町北久保町に、第三工場が建設されました。


(斉田美昭氏所蔵、川越市立博物館提供)

幾太郎は、敬虔なクリスチャンであり、女工をとても大切にし、給料も破格でした。「共に働き共に楽しむ」が、石川製糸のモットーでした。楽しみながら仕事に励んだ女工が製造した生糸は、品質、出荷量ともに、常に県下第一位であったといいます。

レーヨンやナイロンの登場と共に、川越工場も閉鎖への道を辿りますが、私の家の裏庭には、石川工場の煙突を支えていたワイヤーを引っかけていたコンクリートの杭がひとつ、まだ、残っています。


ユラーナ



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”Long-long-ago in Kawagoe" No.28アップしました

2017年08月01日 | 川越今昔ものかたり
小江戸川越観光協会の英文のHPに掲載している"Long-long-ago in Kawagoe"の28号がアップとなりました。

今回は、明治39年(1906)から昭和15年(1940)まで、川越から大宮を繋いで走っていたチンチン電車について書きました。「チンチン電車」と聞いて懐かしい思いがする方は、どれくらいいらっしゃるでしょうか。私が子供の頃、家の近くにチンチン電車の名残りがありました。古い電車や駅舎が、ボロボロでしたが、まだ、存在していました。

現在、それがあった場所は、中央公民館になっていますが、その場所を通る度に、不思議な懐かしさに包まれます。


(昭和15年。米原朗子氏所蔵)


ユラーナ



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Long-long-ago in Kawagoe No.27アップとなりました(川越氷川神社)

2017年06月01日 | 川越今昔ものかたり
小江戸川越観光協会の英語版HPに掲載させていただいているLong-long-ago in Kawagoeの27号がアップとなりました。

今回は、川越氷川神社の歴史について書きました。氷川神社の御祭神は、天照大神(アマテラスオオミカミ)の弟である須佐之男命(スサノヲノミコト)と櫛名田姫命(クシナダヒメノミコト)をはじめ、出雲の神々が中心となっています。須佐之男命と櫛名田姫命が、幸せな結婚生活を送ったことから、縁結びの神さまとされています。また、川越氷川神社は、6世紀半ばに、大宮にある大宮氷川神社を分祀し創立したと伝わる、由緒正しい神社です。

現在の氷川神社の本殿は、天保13年 (1843)に起工、嘉永2年(1849)に竣工しました。県指定文化財です。

明治15年(1882)にアメリカ人の考古学者エドワード・モースが川越に来た際に、この本殿を見て、驚嘆したと言います。モースは、この本殿を見て、「アメリカでは、美術館の板硝子の箱の中に陳列するような芸術作品群である。アメリカには、このような芸術品は何も無い」と嘆き、日記に書きました。

この本殿は、氷川神社の拝殿の裏手に回ると、瑞垣越しに、見ることができます。
お参りにいらしたら、風車や風鈴のトンネルを抜け、ぜひ、この素晴らしい江戸彫りの彫刻を、ぜひ、ご覧になってくださいね。

私のお宮参りのときも、三歳と七歳の七五三も、氷川神社に参拝いたしました。



(川越氷川神社提供)


ユラーナ

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Long-long-ago in Kawagoe No.26アップとなりました

2017年05月01日 | 川越今昔ものかたり
小江戸川越観光協会の英語版HPに掲載しているLong-long-ago in Kawagoeの26号がアップとなりました。(事情により、4月はお休みになってしまいました。)

今回は明和4年(1767)以来、七代約百年間、川越城の城主であった松平大和守家の後、川越城主となった松平周防守康英について書きました。

周防守家は、関ヶ原の戦い以前から徳川家康の家臣でありました。初代は、松井左近忠次といいましたが、家康から「松平」の姓と一字をもらい「松平康親」を名乗りました。

時を経て、時代は、幕末。周防守家の13代当主は、康英。康英は、幕府から遣欧使節の副使として、フランス、イギリス、オランダ、プロシア、ポルトガル、ロシアを一年かけて訪れました。帰国して間もなく、康英は、慶應元年(1865)に、老中職につきました。

その翌年、康英は、棚倉から川越への移封を命じられ、川越城主となりました。幕末の動乱期にあって、康英が、川越城に入ることが出来たのは、明治になる直前でした。

今も、周防守の家臣であった方の子孫は、川越に住んでいらっしゃる方も多いです。

動乱期を生き抜いたお殿様の立派なお墓は、小仙波町の光西寺にあります。合掌。




ユラーナ
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Long-long-ago in Kawagoe No.25アップとなりました

2017年03月02日 | 川越今昔ものかたり
小江戸川越観光協会の英文のHPに掲載中のLong-long-ago in Kawagoeの25号がアップとなりました。

今回は、幕末に来航した黒船に乗り込んで、アメリカ人と身振り手振りで会話した川越藩の武士、内池武者右衛門について書きました。

ペリーの黒船がやって来たのは、嘉永6年(1853)。それより、7年も前に、アメリカからコロンブス号とヴィンセンス号がやって来ました。川越藩は、相模領に分領を有していたために沿岸警備の命を受けていました。内池武者右衛門は、そのヴィンセンス号の鎖をよじ登り、船首に黒船一番乗りの御船印を立てた人物です。

川越市立中央図書館には「先登禄」と題する紙数25枚の写本があります。筆者は、内池武者右衛門です。「異人」とのやり取りが、とてもユーモラスに描かれています。

開国前に、前線であった川越藩士とアメリカ人との間でのやり取り。貴重な史料です。


弘化三年相州野比沖渡来軍艦図(川越市立博物館蔵)

ユラーナ
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