『少年少女世界の名作文学 第42巻 東洋編1』は、497ページのボリュームがあるのですが、ルバイヤートはその中のわずか6ページにすぎません。すくなっ!!て感じですよね。『東洋編1』に掲載された三国志や大勇士ルスタム物語は記憶にありますが、たった6ページのルバイヤート、小学生だった私は覚えていませんでした。
『少年少女世界の名作文学 第42巻 東洋編1』
ペルシャのミニチュアール風表紙で期待が膨らむも
ルバイヤートの掲載はわずか10篇
ルバイヤートの訳詩を担当したのは、日本児童文芸家協会理事の山主敏子氏。彼女はアルプスの少女ハイジの翻訳で知られた児童文学者で、ルバイヤートを訳した最初の日本女性でしょう。そして、彼女以後もルバイヤートの訳を試みている女性は、寡聞にして知りません。酒と薔薇と女性賛歌のルバイヤートに、女性が興味を持つケースは、稀ということでしょう。もしくは、この山主敏子女史が変わっているのか……。
6ページに10篇の詩が紹介されています。出典等が明記されていないため、詳細は不明ですが、第一印象ではどうやらフィッツジェラルドからの英訳ではなく、オーマ・ハイヤームのペルシャ語からの訳のようです。とりあえず、山主敏子訳を見てみましょう。
山主敏子訳
もともとむりにつれ出(だ)された世界(せかい)なのだ、
生(い)きていたって、なやんだほかなにもうることはなかったじゃないか。
そしていまはなんのためにここへ来(き)て住(す)み去(さ)っていくのか
わからないままに、しぶしぶとさよならをするのだ
これを読んでピンと来ました。小川亮作の岩波文庫版『ルバイヤート』にそっくりなんです。この山主敏子訳に対応した、小川亮作の岩波文庫版の第2歌を紹介します。
二
もともと無理やりつれ出された世界なんだ、
生きてなやみのほか得るところ何があったか?
今は、何のために來り住みそして去るのやら
わかりもしないで、しぶしぶ世を去るのだ!
どうです。非常によく似ているでしょう。他の山主敏子訳の9篇の詩も皆、岩波版そっくりです。山主敏子訳の10篇全部に、岩波版に該当する詩がありました。おそらく、山主敏子は児童に読ませるのにふさわしいルバイヤートを適宜岩波版からピックアップし、子供向けに小川亮作訳を意訳したのではないでしょうか。
ルバイヤート10篇が紹介された
『少年少女世界の名作文学 第42巻 東洋編1』
とある「美雨の部屋」というブログで私がスキャンしたこの写真の無断使用を発見。その上自分のブログでは写真無断使用厳禁している恥知らず。
小川亮作の岩波版から、山主敏子が選んだ10篇は、第1歌、第2歌、第25歌、第46歌、第49歌、第54歌、第55歌、第56歌、60歌、第120歌です。
表現は子供にも解りやすい言い回しにし、漢字にはルビをふるなどの工夫は見られますが、オリジナルをリライトしたといわれても仕方ないですね。女性が進んで原語から訳すはずがないと思いました。
日本以外、海外に目を転じても、ルバイヤートに熱心なのはほとんどが男性です。女性はといえば、イラストレーターやカメラマンが数名タッチしている外は知りません。彼女らのことは『四行詩集彷徨』で紹介しています。
ルバイヤートは、「男の世界」なんですね。
ちなみに、小川亮作の岩波文庫版第2歌は、フィッツジェラルドが『ルバイヤート』を英訳する際に底本としたペルシャ語で書かれたボドレー写本の第157歌です。このことは、以前に、当ブログで写真版付きで紹介済みです。
158篇あるボドレー写本。その忠実な翻訳といわれるヘロン-アレンの手による英訳は、以下の通りです。
157
Had I change of the matter I would not have come,
and likewise could I control my going ,where should I go?
were it not better than that, that in this world
I had neither come , nor gone, nor lived?
そして、ボドレー写本158篇を日本で最初に重訳したのが荒木茂です。
1920年(大正9年)の「中央公論」10月号に全文掲載されました。
荒木茂訳は、以下の通りです。
第157歌
我己が出現に預らば生まれ來らじ、
又己が去歸に預らば何處にか往かん、
此世に來らず、去らず
又行きざるは遙かによし。
『少年少女世界の名作文学 第42巻 東洋編1』
ペルシャのミニチュアール風表紙で期待が膨らむも
ルバイヤートの掲載はわずか10篇
ルバイヤートの訳詩を担当したのは、日本児童文芸家協会理事の山主敏子氏。彼女はアルプスの少女ハイジの翻訳で知られた児童文学者で、ルバイヤートを訳した最初の日本女性でしょう。そして、彼女以後もルバイヤートの訳を試みている女性は、寡聞にして知りません。酒と薔薇と女性賛歌のルバイヤートに、女性が興味を持つケースは、稀ということでしょう。もしくは、この山主敏子女史が変わっているのか……。
6ページに10篇の詩が紹介されています。出典等が明記されていないため、詳細は不明ですが、第一印象ではどうやらフィッツジェラルドからの英訳ではなく、オーマ・ハイヤームのペルシャ語からの訳のようです。とりあえず、山主敏子訳を見てみましょう。
山主敏子訳
もともとむりにつれ出(だ)された世界(せかい)なのだ、
生(い)きていたって、なやんだほかなにもうることはなかったじゃないか。
そしていまはなんのためにここへ来(き)て住(す)み去(さ)っていくのか
わからないままに、しぶしぶとさよならをするのだ
これを読んでピンと来ました。小川亮作の岩波文庫版『ルバイヤート』にそっくりなんです。この山主敏子訳に対応した、小川亮作の岩波文庫版の第2歌を紹介します。
二
もともと無理やりつれ出された世界なんだ、
生きてなやみのほか得るところ何があったか?
今は、何のために來り住みそして去るのやら
わかりもしないで、しぶしぶ世を去るのだ!
どうです。非常によく似ているでしょう。他の山主敏子訳の9篇の詩も皆、岩波版そっくりです。山主敏子訳の10篇全部に、岩波版に該当する詩がありました。おそらく、山主敏子は児童に読ませるのにふさわしいルバイヤートを適宜岩波版からピックアップし、子供向けに小川亮作訳を意訳したのではないでしょうか。
ルバイヤート10篇が紹介された
『少年少女世界の名作文学 第42巻 東洋編1』
とある「美雨の部屋」というブログで私がスキャンしたこの写真の無断使用を発見。その上自分のブログでは写真無断使用厳禁している恥知らず。
小川亮作の岩波版から、山主敏子が選んだ10篇は、第1歌、第2歌、第25歌、第46歌、第49歌、第54歌、第55歌、第56歌、60歌、第120歌です。
表現は子供にも解りやすい言い回しにし、漢字にはルビをふるなどの工夫は見られますが、オリジナルをリライトしたといわれても仕方ないですね。女性が進んで原語から訳すはずがないと思いました。
日本以外、海外に目を転じても、ルバイヤートに熱心なのはほとんどが男性です。女性はといえば、イラストレーターやカメラマンが数名タッチしている外は知りません。彼女らのことは『四行詩集彷徨』で紹介しています。
ルバイヤートは、「男の世界」なんですね。
ちなみに、小川亮作の岩波文庫版第2歌は、フィッツジェラルドが『ルバイヤート』を英訳する際に底本としたペルシャ語で書かれたボドレー写本の第157歌です。このことは、以前に、当ブログで写真版付きで紹介済みです。
158篇あるボドレー写本。その忠実な翻訳といわれるヘロン-アレンの手による英訳は、以下の通りです。
157
Had I change of the matter I would not have come,
and likewise could I control my going ,where should I go?
were it not better than that, that in this world
I had neither come , nor gone, nor lived?
そして、ボドレー写本158篇を日本で最初に重訳したのが荒木茂です。
1920年(大正9年)の「中央公論」10月号に全文掲載されました。
荒木茂訳は、以下の通りです。
第157歌
我己が出現に預らば生まれ來らじ、
又己が去歸に預らば何處にか往かん、
此世に來らず、去らず
又行きざるは遙かによし。
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