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笑うかどには福きたる

日常生活で見たこと、聞いたこと、感じたことを牧歌的にのんびりと書いています。

「ダ・ヴィンチ・コード」読了 その2

2006年08月20日 00時56分21秒 | 読書
結局映画「ダ・ヴィンチ・コード」を観ることは無かったのですが、「映像化するのなら2時間の映画じゃなくて、せめて10回くらいのテレビドラマにでもして欲しかったな~」と言うのがこの作品への正直な私の気持ちなのです。それは、アリンガローサとシラスの物語を抜きにしてこの物語は始まらないだろう、と思うから。それほどこの2人の関係はこの物語一番のエピソードで、映像化するのならど~しても時間をかけて描いて欲しい部分なのですね。

全ては、このアリンガローサとシラスの出会いから始まります。そしてもっとも穢れのない人間として描かれたのがシラスでした。(翻訳者に感謝です!)富も権力も求めず、師と仰ぐアリンガローサの元で一信徒として心静かに暮らすことを望んでいただけのシラス。
彼を見ていると「純粋は善であり、純粋は悪である」ことを思い知らされます。特に現実に世界各地で起きている宗教紛争のニュースなどに接していると、この世界には無数のシラスがいるのだろうなと感じざるを得ません。
アリンガローサの回想で、スペインの荒地に教会を立てている2人の姿はキリストが布教活動を始めたイメージに重なる気がしますし、2人の末路は陰謀によって最後を迎えるキリストの姿にも重なる気がします。

ところで、シラスで思い出したのが、幕末の京都で暗躍した「岡田以蔵(人斬り以蔵)」です。
土佐藩の下級足軽出身の彼は、エリートで勤皇派の武市半平太の志に惹かれ、京都で要人暗殺を実行していきます。最後には捕らえられ、仲間からも、武市自身からも見捨てられ、同然の扱いで斬首されます。幕末を描いたドラマなどでは、同じ土佐藩の坂本竜馬とも関係するせいか「政治に振り回された哀れなサムライ」として描かれることも多く、事実はともかく幕末モノの目玉キャラの一人であることは間違いありません。(判官びいきの日本人の涙のツボを刺激します)
で話を戻すと、つまりシラスと以蔵が重なったんですね、私の中で。

もちろんシラスはフィクションですから彼への「救い」はありました。アリンガローサは最後までシラスを見捨てることはしなかったのですから。
アリンガローサにとって、信仰を共にするシラスは友であり、兄弟、そして自分の一部でもあったのでしょう。「敬意を持って接してくれるだろうな」(角川文庫(上)・P34)。と。でもシラスにとって、アリンガローサは「導いた者」、自分は「導かれた者」です。そこには厳然とした力関係がある。そういう見方をすれば結局シラスは「駒」だったのかもしれません。。いやいや、立場を超えて信じ合っていたからこそ、互いが信じるものを守るために自らを投げ出し、自分に出来ることをしたのかも。。と、今や「この2人の物語を書いてくれろ」、とまで願ってしまう私なのでした。(涙)

岡田以蔵についてはこちらから
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