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敗戦前後の「父の日記」を読む

昭和19年当時の世相、生活状況、父の考え方を読む。

帰京

2008-03-06 20:30:09 | 日記 戦中編
昭和二十年三月三十一日 晴 休み
 汽車は混んでいたが幸い室内に入れたし腰もかけられた。
 山形では三十日に一回警報が発令になった。福島地区に敵機が来たと言う。
 こちらは到って呑気なもので、防空壕堀をするのに地祭りをして先ず一杯、堀始めに又一杯、堀終わって又一杯、壕掘りも酒飲みのよい口実になっている。
 幸せなものだが土地の人はそうは思ってない。

疎開に出発

2008-02-24 17:07:37 | 日記 戦中編
昭和二十年三月二十五日 晴 休み
 次男(私、九歳)と三女(七歳)二人を私の生家(山形県天童)に疎開のため出発。
四時半に起きて準備、五時に家を出た。 長男、長女が中板橋の駅まで送ってきた。
上野駅はもう既に長い行列が出来ていた。 皆大きな荷物を持っているので汽車の入り口でたくさんの人が押し合っていて室内はがら空きだったので窓から荷物と子供を入れ、幸い腰をかけて福島まで行った。 混雑は話しにならなかった。
 福島に二時に到着する筈の汽車が四時に着いたため二時二分の汽車に連絡せず五時十分発新庄行きに乗車した。
福島からは幾分楽であった。 板谷峠はまだ丈余の雪、真冬の感があった。二人は終日外を眺めていたが 峠で太陽が落ちたので三女は眠り始めた。
 九時半に天童に到着した。 駅には誰も来ていなかった。長女は電報を打たなかったのであろう。 荷物を一時預かりして歩いて行くと学校の角で妻の兄、K氏に会った。 K氏の弟家族が二十三日に出るととの手紙だったので今晩で三晩、駅まで出たと言っていた。 K氏宅で一泊した。
 天童は県内では一番雪が少ないところだが、今年は未だ街が雪道であった。 

学童疎開の乗車券

2008-02-22 00:09:29 | 日記 戦中編
昭和二十年三月二十三日 曇 明け
 帰途乗車券を買うため新宿から板橋駅に来た。 一時から受け付けて承認すれば本日発売すると言う。長い列である。 隣家のN氏のおばさんは朝五時から来ていると言う。一時から受付が始まったが最初公用者と被難者に発売しその後一般人に売ると言う。 二時半頃になってようやく番が来たら奥羽線は売り切れだと言う。空しく空腹を抱えて帰宅した。
 明朝早く上野に行って来よう。 朝六時半から転出証明だけで申告もいらずに売ってくれるとの事だ。

 二十日の米配給予定日だが未だ米が来ない。 困った事だがどうにもならない。
昨日から豆ばかり食べているので腹具合が良くない。


昭和二十年三月二十四日 曇一時雨 休み
 上野に切符を買うため朝五時半家を出た。東上線の二番電車で上野に六時四分に着いた。聞いていた三番窓口に行くと行列を作っている。何所が終わりかと思うと地下へ二つ階段を降り、暗い地下廊下を行くと外に出て下車坂近くが終わり。
それから除々に歩いて、切符を買ったのが丁度三時、帰宅が四時だった。
 明朝、出発するために準備をする。

疎開手続き

2008-02-14 23:54:27 | 日記 戦中編
昭和二十年三月十九日 晴 二,三直出勤
 朝食後、疎開荷物の申告に板橋駅の丸通に行った。 丸通の前まで行くと沢山の人。
しかも「本日受付中止」と大きな貼紙がしてある。 罹災者の荷物がはけきれないので疎開者のは受付ないという。 申告用紙だけ貰って又歩いて帰ってきた。

 九州に機動部隊から発進した艦載機が六百機来襲(十八日)した。 今、我が航空部隊は其の部隊に猛攻を加えて居ると今朝放送があった。

神戸空襲、戦果発表

2008-02-14 23:16:07 | 日記 戦中編
昭和二十年三月十六日 曇り 二,三直出勤
 夜八時頃防衛局から情報があって敵機編隊が来襲する気配があるから十時から一時頃まで注意せよととの話であった。 一時四十五分警戒警報発令になったので身支度していると、敵機は神戸に侵入して関東には来襲しなかった。

昭和二十年三月十七日 曇り 明け
 午後五時の放送で昨夜の神戸来襲の戦果が発表になった。
撃墜二十機で、来襲機の全部に損害を与えたと発表した。

煩雑な学童疎開手続き

2008-02-11 23:27:46 | 日記 戦中編
昭和二十年三月十五日 曇り 公休
 九時頃家を出て区役所に行った。 国民学校で疎開証明書をくれて、これを区役所に持って行けば証明書をくれるからそれで汽車の切符を買えばよいと言う。
 区役所の疎開係に差し出すと、学童も何もない、一般の転出申請書で町会長、隣組長の印を貰ってきて提出し証明書を貰わねばならぬと言う。 一旦帰宅しして所用事項を書き入れ町会長印、隣組長印を貰って又区役所に行った。
 議事堂内に臨時受付が出来ていて、その中は一杯の人々、およそ三百人いて何時順番がくるか判らない。 庶務にS氏が居る筈だと思い、行って話をすると簡単に証明書を取ってくれた。しかも補助金二百円もくれるという。
 証明書を持って池袋に行き、指示された輸送事務所行った。 すると板橋の人は板橋駅構内の丸通事務所に行くのだという。 又、省線で板橋に行き丸通事務所に行くと、今ごろ来ても駄目だ。十九日に来いと言う。仕方がないから帰宅(二時)した。
 学校で出した疎開証明書が何の役にも立たなかった。

お寺、焼失 

2008-01-31 22:37:40 | 日記 戦中編
昭和二十年三月十三日 曇り 二、三直出勤
 朝食後、母の骨を預かってある日暮里の寺に行った。
骨を受け取って、次男(私)、三女の疎開と一緒に郷里に埋葬するつもりである。
省線で鶯谷までは左程目立たなかったが、坂本二丁目に行くと浅草まで一望であった。金杉まで行くと日暮里、三河島一円は全部焼野原、全く震災と仝一である。
 知っている道を通って行き寺の所在地は判明したが、全く骨の行方はわからない。 焼け跡を掘ってせめて壷に書いてある名前でも残っていたらと思ったが、無数の骨壷が粉々になって散乱しているばかりである。
 暫く考えながら四方を見廻していると、防火用水にどうも何かかくしてあるらしくトタン板を沢山かぶせてある。 それを取り除けると母の壷がこわれてはいたが、年月と名前がはっきりしたのが出てきた。 それを近所で焼跡片付けしている人に立ち会って貰って持ち帰った。
 昨夜、名古屋方面にB29が来襲、東京のようなやり方をして相当の火災が起きたと放送した。 撃墜二十二機、損害を与えたものが六十機だという。よい気味だ。

東京大空襲 ② 

2008-01-29 00:04:16 | 日記 戦中編
昭和二十年三月十日 晴 二、三直出勤
 昨夜の火事は何処だか判然しない。
妻は巣鴨の兄の家がどうかと言って出かけたが、間もなく電車に乗れないと言って帰ってきた。志村線の電車が通っているので安心し、出勤は都電で行った。
 電車に乗ると何処が焼けた、何処も焼けたと人々の話で大体判った。 肴町も可也大きく焼けているのが電車から見えた。街に被災者がポツポツ見えた。春日町まで行くと真砂坂を下って来る人々は殆ど被難者だった。水道橋もお茶の水の方から来る多くの被難者が見えた。
 都電の車庫は、柳島、錦糸堀、城東、南千住の全部、三ノ輪車庫が一部、都庁が全部、交通局が一部焼けた。 
 本所、深川、浅草等は殆ど全滅だと言う話である。 物知りの話によると被災者八十萬だと言う。相当の死傷者もあったらしく、車輌係長が柳島へ行こうとしたが、街に死体が多くて自動車では行けなかったとの話である。
 夜になっても大久保から見て東南の空が紅かった。まだ燃えているが、今晩にも敵機がくれば良い目標になって困ると思って居たが幸い来なかった。

東京大空襲

2008-01-22 00:52:06 | 日記 戦中編
昭和二十年三月九日 晴れ 一直出勤
 今日は晴れて南風が強く砂塵をまいて室内は暖かいが外は寒かった。
 夜、十時半頃飛行機の音がどうも友軍機ではないらしい。 B29の音のやうであるが方向が違うので不審に思いつつ床に入って居ると警戒警報発令になった。  身支度して防空頭巾も背負って又、床の中に入って情報を聞いていると房総東南海上に数目標ありと言う。 間もなく空襲警報発令になったので二階の戸を開くと南に火の手が上がって空が紅くなって居た。全部の家族を起こして待避させた。 敵機二機位づつ分散して南より北へそして頭上を通過して北方から東へ行く。 次から次へ二機位ずつ来ては火の手を目当てに焼夷弾を落として行く。 南から東へかけて一面の火の手、震災さながらであった。
敵機は低く飛んで火に照らされて大きく見え面憎かった。 東で一つ敵機が火の玉になって落ちるのを見た。 
盛んに高射砲を撃つ。 暫くするとあちらこちらでカンカンと破片の落ちる音が、丁度大粒の雹が屋根にあたる音のようだ。 
西の上板橋方面も焼夷弾を落とされ炎々と燃えた。
 荷物を一旦柿の木の下に運んだりしたが三時頃空襲警報解除、仝半頃警戒警報も解除になった。
 次男(十歳、私)や三女(八歳)にも二階から火事を見せた。 お前たちが田舎に行くのは(山形に疎開)うまいものや果物を食べるためではない。田舎で丈夫に育ってこの仇を討つためだと教えた。 判ったかどうか。