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敗戦前後の「父の日記」を読む

昭和19年当時の世相、生活状況、父の考え方を読む。

巣鴨車庫が被爆

2008-01-08 00:49:56 | 日記 戦中編
昭和二十年三月四日 曇 二,三直出勤
 B29が来たと言う放送だと言って起こされた。七時三十五分頃警戒警報発令、八時頃空襲警報発令になった。 
いくつもの編隊が雲上を過ぎていった。今日は曇って寒く飛行機の在りかが不明で音で見当をつけるより外なくいやな日だ。
 今日は概して北側を西から東へ行ったが一編隊が南側を通過していった。三回目に来た編隊が爆弾を投下した。 急行列車の走るような音が聞こえて間もなく東南方に四ヶ所火の手が上がった。バリバリと言う音が聞こえるのであまり遠くはあるまい。
 出勤の時。十丁目の停留場に行くと沢山の人が待っている。 警防団の人が通り掛り電車は来ませんよというので歩いて板橋駅に行って省線で出勤した。 途中で色々の話が耳に入ったので巣鴨付近だなと思い出勤すると、巣鴨の車庫事務所がやられ、一人死亡し二人重症だと言う。大塚車庫に電話が三時頃漸く通じて大体判明した。
 巣鴨車庫は、事務所外の民家に爆弾が落下して、事務所、材料庫、詰め所等の一棟が倒壊したと言う。
 尚、巣鴨市場付近、豊島中学、滝の川停留場付近、新庚申塚付近、西巣鴨停留場付近、染井天理教会付近等に落下したとの話だった。
 編隊で来た日の夜はいつも小数機で来るので今夜も戸思って居ると案の定やってきた。十二時十二分警報発令。一機ずつ分散で七機ほど来た。不思議にも照空灯の照射も高射砲の発射もせず全く寂としていた。 二機ほど頭上をぐるぐる廻っていた。数多く来たが投弾した様子もなかった。 

三月節句

2008-01-07 23:52:40 | 日記 戦中編
昭和二十年三月三日 晴 休み
 今日は三月節句で次女(十二歳)の誕生日であるが何もない。朝だけは味噌汁があったが昼は塩で食べた。
例年ならもう韮が食べられるのだが今年は芽も出ない。
 此の家に来てから節句には餅草を取ってきて、草餅を作ってやるのが例であったが、今はそんな事昔の夢だ。 休みを取ったとて下駄の修理や財布の修理をして過ごした。

冬枯れ

2008-01-03 12:13:45 | 日記 戦中編
昭和二十年二月二十七日 晴 明け
 昨日昼過ぎまで通らなかった電車が全線の隣組や警防団の努力に依って今日は全て開通した。いつもの通り水道橋乗換えで帰宅した。
 朝八時四十分頃警報発令。あまり早いので又艦載機ではないかと思ったらB29二機の侵入だった。一機は山梨から東進関東西部に入り、反転して山梨から長野南部に入り次に関東北部から北東部へ、北上して福島地区に入り又北東部に入る等可成飛び回った。二機目の行動は電車の中だったので情報は不明だったが巣鴨の市場の所まで来ると東進する敵機と高射砲の弾幕が見えた。
 
 今年の冬枯れは去年よりひどいやうだ。昨年も家には何もなく、毎日カレーで味をつけて食べていたが業務用(勤務先)には幾分配給があったと見え多少のおかずがあったが、今年は業務用にも無い。 今朝の朝食を取りに行くと御飯の上に塩を少々のせてあった。
しかも瓦斯が細いのか御飯になってない。俗に言うメッコ飯である。飯盒で煮直して食べた。
 早く暖かくなればよい。野菜がのびてくれば蔬菜には困らなくなる。しかし此の雪いつになったら無くなるのか。帰宅後井戸端の雪を片付けたが三尺以上もある。
 勝つための努力は相当つらい。しかし負ければ尚つらい。

神田駅付近が被災

2007-12-16 21:22:11 | 日記 戦中編
昭和二十年二月二十六日 晴 二,三直出勤
 朝起きてみると晴れていたが、昨日午後降りだした雪が一尺二,三寸も積もっていた。二十二日の雪がまだ消えないのに又降ったから井戸端など五尺ほどになった。
 出勤の時、板橋十丁目の停留場に出て見ると雪が一杯で電車の通った様子がなく警防団や隣組員が出て一生懸命除雪していた。歩いて板橋駅に行き新宿に出て出勤した。
 昨日の空襲で何所が損害を受けたか判明しなかったが神田駅付近が一番ひどくやられたとの話であった。 昨日、日暮れの頃なんとなく空の色が黄色く変に明るかったが矢張り火事のためであった。斯様な事が何時まで続くのか。
 夜、二回敵機が来た。

一日中連続空襲

2007-12-16 20:53:22 | 日記 戦中編
昭和二十年二月二十五日 曇後雪 公休
 公休なので朝寝をして居ると警報発令になった。
早朝なので又艦載機ではないかと思って居ると八時には空襲警報になり、矢張り艦載機の襲来であった。十時四十分一旦警報解除。
 午後二時二十分頃第二回空襲警報になった。 B29が編隊で来た。爆弾と焼夷弾を混投したと云うが何所だかわからなかった。四時四十分警戒警報も解除になった。
 休日でわあるが朝早くから空襲、それに曇っていて十時頃から雪になり寒くていやな日だった。
 夜、又三回来た。第一回は七時少し過ぎ関東東部に入り北東部から東方海上に去った。之は情報だけで警報発令にならなかった。
 第二回は九時少し前静岡から山梨に入り東進して関東北部から鹿島灘の方へ去った。
 第三回は静岡から信州東部に入り東進して山梨から関東に入り帝都に侵入、投弾して東南方に去った。 何所に落下したのか可也近く、爆弾のうなりが聞こえついで地響きがして炸裂する音が聞こえた。 降雪中で敵機が見えないが通過する音が聞こえたのでもう大丈夫と思って居るとやや暫らくして落下した。 今まで敵機が頭上に来た時はもう安全と思っていたがそうでもないらしい。
 九時の報道の時、B29が今日の昼間爆撃で 大宮御所に投弾したと云う。何たる獣類ぞ。


偵察

2007-11-23 13:54:56 | 日記 戦中編
昭和二十年二月二十一日 晴 明け
 早朝四時四十五分頃 敵一機侵入帝都西部に投弾して東南へ去った。
 午後一時半頃 敵三機が一機づつ侵入、東南へ去った。
 帰宅後、トタン板で塵取を作った。
 台湾の甥(妻の妹の子)から葉書が来た。無事だと言う。安心した。

昭和二十年二月二十二日 雪 一直出勤
 午前一時半頃、敵一機山梨から東進したが帝都には入らず相模灘から脱出した。

昭和二十年二月二十四日 晴 明け
 早朝三時五十分警戒警報発令、敵一機山梨地区に侵入、東進したが帝都には入らず相模灘より海上に出て、四時二十一分解除になった。
 夜、三回敵機が来た。 三回とも西より東へ何時ものコースを通って行った。
 一回目、六時五十分頃。二回目、九時半頃。三回目、十二時頃だった。

        


 
 

艦載機の機銃弾落下。 硫黄島に敵上陸

2007-11-15 20:44:22 | 日記 戦中編
昭和二十年二月二十日 晴 二,三直出勤
 朝七時五分警戒警報発令。続いて情報は敵機動部隊の動向に注意を要するものがあると云う。
又、艦載機でも来るのかと心配していると八時三十分警報解除になってよかった。
 さる十七日の空襲の際、隣家N氏宅の三畳間の屋根を抜いて障子の上の鴨居の所に機銃弾が止まって居たのを今朝発見したとN氏の奥さんが来て話した。
 十六日、十七日共に子供等を風呂場に待避させたが小型機の時はだめだ。矢張り壕に行くに限る。
 其処で今朝、トタン板を防空壕の中に入れ背になるところに取り付け、又入り口の階段がくずれていたので杭を打ち板をあてて直した。

 やれ空襲だ、やれ敵機だと云っている中にもよく庭を見ると春の息吹きを感ずる。 梅が一輪二輪ほころんで来た。 ヒヤシンスが芽を出していた。玉簾も芽を出した。もう少しの辛抱だ。 畑が忙しくなるともう食物には困らなくなるだろう。

 夕方の報道に依ると硫黄島に敵が上陸したと云う。どう処置するのか。若しサイパンのやうだったら今後の東京は思いやっられる。 心配な事だ。

敵一機に体当たり

2007-11-11 22:20:02 | 日記 戦中編
昭和二十年二月十九日 晴 一直出勤
 午後 B29約百機が侵入して来た。
二時頃、大編隊が本土に近接しつつありとの情報放送があったので車輛の疎開などして準備していると二時三十分警戒警報、十分程して空襲警報になった。
 いくつもの編隊が西から東へ行った。 敵一機が体当たりに墜されて新宿駅の向側に落下、火災が起きた。
新宿から見て真北に火災があるので電話で大塚車庫に問い合わせると 尾久の方だという。 尾久の方の火災は夜になっても燃え続けているらしく空が紅かった。