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敗戦前後の「父の日記」を読む

昭和19年当時の世相、生活状況、父の考え方を読む。

煙草の配給

2009-01-22 22:10:05 | 日記 戦中編
昭和二十年八月四日 晴 明け

 今日も晴れて暑い日だった。 こんな天気が少し続けば米も大丈夫取れるかも知れない。

 帰宅後、バケツや肥汲桶などにコールタールを塗ったり、豆をつぶしたり、蕃茄に散水したりして一日を過ごした。

 十一時四十分頃警報発令、B29一機八王子辺に侵入したが西北方に方向をとり新潟に入ってしまった。 この奴の帰りか、一時頃又警報発令になった。

 夜になって煙草(鵬翼 二十本入り一ヶ、みのり二ヶ)配給があった。 早速久し振りで一本吸った。

 九時頃寝に就いたがのみが多くて眠れなかった。 仕方がないので起き出して豆つぶしをした。 豆つぶし中、一時四十分頃警報発令。 東海軍管区に入ったB29二機が関東に入った。 解除は二時半頃だった。









豆ばかりの配給

2009-01-15 16:27:52 | 日記 戦中編
昭和二十年八月一日 晴れ 明け

 帰宅後豆つぶしをした。 今日初めて夏らしく暑く、蝉が庭でないていた。
この天候が続けば米も大丈夫かも知れない。
 
 昨日、又豆が十六㎏来た。三人で十六㎏だ。 一ヶ月分殆ど豆ということになる。 それに今に馬鈴薯やパンも来る。米の来るのがなくなる。

 夜八時十分頃警報発令。 南方洋上よりB29が来るという。 準備している中八時半頃空襲警報発令。 B29が一機宛川崎、鶴見の工場地帯に爆弾攻撃を加えた。 時々硝子戸がビリビリと震えた。 また一隊は八王子、水戸、長岡等にも焼夷弾攻撃をした。 
 三時四十分警戒警報解除になったが 八時から三時半まで七時間半では長くて困った。


昭和二十年八月二日 晴 一直出勤

 長い昨夜の空襲警報で今日は眠くて困った。
 帰宅したら町内会費や国民貯金を支払って貰いたいとAさんから言伝があったのでHさんの家に行って支払ってきた (九円五十五銭)

 夜一度も来なかった。久し振りにゆっくり眠った。


昭和二十年八月三日 晴 二、三直出勤

 又、豆つぶしをした。 十時少し前警報発令。又一機かと思っていたら P51
の編隊だと判明した。 始めは宇都宮や前橋等関東北部にばかり行ったが終わり近くなって 成増の方へ来たらしく 爆弾の音、高射砲や機関砲などの音がした。 飛行機の音も聞こえたが P公は見えなかった。

 十二時半頃又警報発令。 B29一機西より帝都に侵入、 伝単を撒いて行った。
 夜は来なかった。







入営

2008-12-13 00:11:47 | 日記 戦中編
昭和二十年七月三十日 曇り時々晴れ 休み

 昨日、隣のH氏の令息が入営すると言うので餞別(五円)を持って行ったが今日三時に出発すると言うので送りに行った。 Hさんの家の前に集まって居る中、今日四回目の警報発令、五分後の三時十分には空襲警報発令になった。
 駅まで隣組で送っていく予定だったが、町会長の意見で 空襲警報下旗を持って多数行列を作って歩くのは危険だから此処で別れようと言う事になり万歳を三唱して別れた。

伝単

2008-12-12 23:43:20 | 日記 戦中編
昭和二十年七月二十六日 曇り 明け

 帰宅後雑用をしていると十二時十五分頃警報発令。 B一機西から東へ行くのが見えた。 伝単を撒いていった。
二種類程拾って隣組長に渡したが 菊の御紋章を入れて崇神天皇の御詔勅まで引用した念の入った伝単であった。
 意味は陛下と国民は平和を望んで居るが現閣僚と軍閥は共に其の誠意がなく国民を自殺せしめようとしている と言うようなことが書いてあった。
日本人の菊花御紋章に対する特別な気持ちを利用しての事であるがよく注意するとすぐわかる。 先ず伝単の端に番号(二〇八二?)が入って居るので日本製でない事が判るし、如何に御詔勅まで引用しても言う事自体が支那式だ。事米英に対する戦争に関しては軍閥も何もない。 

日立、水戸に艦砲射撃

2008-11-24 23:26:09 | 日記 戦中編
昭和二十年七月十七日 雨 明け

 夜十一時半頃警報発令、B29一機が鹿島灘より侵入、もう一機は相模灘から侵入し関東北部、西北部をうろついて信州から新潟に入り又関東へ帰り霞ヶ浦から一旦洋上に出たと思ったら又引き返して来た。 一旦解除になったが又警報発令となり解除は二時過ぎだった。
 その間の情報に依ると敵機動部隊が日立及び水戸東方に艦砲射撃を加えていると言う。 只ならぬ気配がする夜だった。

妻から手紙

2008-11-07 23:52:46 | 日記 戦中編
昭和二十年七月十三日 雨後晴 二、三直出勤

 南の風まで加わって猛烈に降った雨わ今朝まで続いた。 昼近くには止んで午後は太陽が出てきた。 庭の玉蜀黍や蕃茄が倒れたので明日にでも直してやらねばならぬ。

 妻から初めて手紙が来た。 先に疎開してた次男(十才)の事で叔母にコボサレて返事に困った。早く来てよかった。 四女(三才)も皆に可愛がられて居るし何の心配もない。 荷物など送らなくてよい。等書いてあった。

宇都宮空襲

2008-11-07 23:34:21 | 日記 戦中編
昭和二十年七月十二日 雨後曇り 休み
 
 休みを取った。 午前雨で何も出来ないので煙草巻きなどした。午後雨が止んで薄日が漏れて来たので蕃茄の横芽取り、炊事などした。
 
 十一時四十分頃 B 一機侵入 八王子、川越、浦和を経て東方へ去った。

 疎開先の次女から手紙が来た。 妻も一生懸命働いているらしい。

 夜、十一時頃警報発令。 B29が鹿島灘と相模湾から侵入し宇都宮に焼夷弾攻撃をした。  十二時少し過ぎて帝都にも侵入空襲警報発令された。
 何処か西南方遠く爆弾の炸裂音が聞こえた。解除は一時過ぎだった。情報放送の時一部に火災発生せるも消火せりと言っていた。 物凄い雨なので敵機は勿論火の手も見えなかった。

醤油の配給

2008-11-07 23:10:05 | 日記 戦中編
昭和二十年七月十一日 曇り後雨 明け
 
 七時五十五分警報発令。 八時五十分 大久保駅に来た時解除になった

 朝から曇り。 九時半帰宅後間もなく雨になった。 何も出来ないので昼寝中野菜の配給だとて起こされた。 醤油も久々に配給になった。 一人七勺、七人分計四合九勺。 外に佃煮の配給、炊事等々終日忙しかった。 夜、妻に手紙を書いた。

成増飛行場 空襲

2008-10-16 23:38:45 | 日記 戦中編
昭和二十年七月十日 晴 二、三直出勤

 四時起床、炊事をした。 五時の報道中早くも警報発令になった。小型機F4U等にB29も混じって、房総及び相模湾の二方面より侵入して来た。
小型機数機が西北に見えた。 成増飛行場を攻撃したのかも知れない。

 昨日拾ってきた縄で蒲団や綿を荷造りした。 座布団ともで六個あった。