林間教育通信(「東大式個別ゼミ」改め「シリウス英語個別塾」)

私立中高一貫校生徒を対象とする英語個別指導塾。小田急線の東林間駅(相模大野と中央林間の隣駅)から徒歩3分。

「文法訳読」再々考(その3)ー忘れられた子どもたち

2012年04月10日 | 英語学習
日本の英語教育論は上位進学校(私立の御三家や準御三家レベル)ないしは中堅進学校(準御三家の下のレベルの私学一貫校、および多くの県立トップ高校レベル)の生徒が前提であると前回述べてみた。こんなことは、皆さん分かっているはずだ。あえて明言しなかっただけのことである。

ただし、そういう暗黙の前提が存在するとしたら、少々残念な事がいくつか存在する。

(1)私立中学受験と民間教育機関(予備校・塾・家庭教師)を前提とした小学校英語教育論が展開されないのは何故か?

全人口のせいぜい5-10%を考慮すればよいのであれば、当然中学受験の英語受験科目化をもっと真剣に考えるべきではないだろうか。

私立中学受験では公教育とは無関係に小学生が受験勉強に励んでいるのだ。だとしたら、公立小学校の受け入れ体制などはお構いなく、小学生が本格的に英語を学びだすようにしたら良いかもしれないではないか。受験勉強のエネルギーで優秀な小学生が英語を学べば、スゴイ可能性が開けてくるではないか。なぜ、小学校英語教育を真剣に論じないのか。もちろん、これは小学校英語推進派にこそむしろ問いかけたいことだ。

私見ではこういう議論が盛んにならないのは、私学上位校出身のエリートは英語教育に携わらないからである。彼らのほとんどはは草の根レベルの教育にも携わらないし、大学で英語教育を教えることもないのだ。教育関係の議論で唯一の著名な例外は、ら・サール出身の寺脇研氏くらいのものだったではないか。とはいえ、全く議論が聞こえてこないのは何故なんだろう?




(2)教員養成系大学の大学教官が、公立中学の英語教師や「普通の」中高の英語学習者にあまり関心を持たないのは何故か?

東京の一流大学の教官と地方国立大学の教官の見解にたいした差がないというのは、本来は望ましいものではない。巨大都市の一流エリート大学の背負う利害と関心に対抗し、彼らのクライアント(?)である、公立中学校教師候補や公立中学校の生徒の利害をバックアップしても良いのではないのか? そうでないと、ローカル大学の教員養成教育学部でありながら、中産階級(アッパーミドル階級)、学力上位層、大都市エリートの子弟のための学問(教育学)へと偏向してしまうのではないのか。学問の発展に不可欠なのは知的な対抗関係なのだ。

もっとも教員養成系大学教官にも言い分はあるだろう。彼らだって一般大衆の教育問題に関わりすぎると、専門家としての地位と立場が危うくなるだろう。現にLD(学習障害児)の研究などは実質的に不可能である。また、都会の有名大学に移るチャンスがなくなってしまう恐れもあろう。

そもそも、英語の達人を生み出す教育方法を研究することの方が数段面白いだろう。なにしろ、そちらのほうが研究者の自分研究にもなるからだ。

しかし、やはり残念だという気がする。知的な対抗相手が、地方の教育現場から出てこないものだろうか。私自身は、もはや公立中学の勉強のできない生徒の教育に関わることはできないが、本当に残念だと言わざるを得ない。
 

(3)私立中堅一貫校のボーダーラインのの生徒が顧みられない現実

A文法訳読 は不要なのかというと、やっぱり違うと思う。というのは、中堅進学校と普通の学校とのボーダーライン上にいる生徒たちがたくさんいるからである。

中堅進学校と、それより下の学力の生徒というふうな分け方をしたが、実は正確な分け方ではないのだ。というのは、私立中堅一貫校(たとえばT学園とかT学園のことです)の中には、中堅進学高校レベル(たとえば昔の県立相模大野高校)に進学できそうな生徒もいれば、進学高校には到底進学できそうもないと思われる生徒が混在している。

ボーダーライン私学一貫校の場合、丁寧な教育をすれば良いとは思う。だが、残念ながらそういう学校は少ない。むしろ「お買い得」な学校という定評を作るために、大半の生徒を犠牲にする教育をする。Treasure、Birdland、Progress21を使うかどうかで、すぐに判別できる。(ちなみに県立相模原中等学校はProgress21を利用しているそうだ。とても悲しいですね!)つまり、A文法訳読 によって、救われる生徒もたくさんいると思うのだ。

A文法訳読 なんか考えなくて良いという論者は、おそらくは県立進学高校で、「中堅」私学の悲惨な実態に疎いのではないかと想像しますが、どうなのでしょうか?

最後に一言付け加える。、私立中堅未満一貫校の場合は、文法訳読教育が有効か否かも怪しいようだ。be動詞と一般動詞の区別がどうしてもできないレベルの生徒が集まっているようだからだ。民間教育の企業秘密かもしれないが・・・。

「文法訳読」再々考(その2)―大学教員と「英語教育論」

2012年04月10日 | 英語学習
日本の英語入門者を対象とする英文訳読指導に対しては、「文法訳読」という言葉を用いることが出来ないらしいと、先日書いた。そして、こういう事態をどのように受け止めればよいのか。

そこで、以前取り上げた大津先生(慶應大学)が北海道新聞に寄稿した、文法訳読式教育擁護論を今一度読み直してみた。

いくつか興味深いことが分かる。まず、ここで論じられている文法訳読なるものは、「ある程度、複雑な構造を持った文や文章を使っての演習」と述べていることだ。(赤線でラインを引いた部分を参照のこと)。つまり、江利川先生が紹介した「文法訳読」の概念と、大津先生の見解は見事に一致しているのだ。つまり、先日の表現でいえば、「文法訳読」とはB文法訳読なのだ。

だが、私の注目するのは、少し別の箇所である。大津教授が「英語が使える日本人」という概念について肯定的に受け入れている点なのだ。「英語が使える日本人」というスローガンは、彼の論敵であるコミュニケーション英語教育派の掲げている教育理念ではないか。つまり、実用コミュニケーション的教育には反対であっても、「英語が使える日本人」という理念については土俵と見解を共有しているということだ。これは、しっかりとおさえておく必要がある。

さて、ここで思い出してもらいたいのは、普通の中高生に英語を教えたことのある者ならば誰でも知っている事実である。そう、日本の中高生の大半は「英語が使える日本人」の候補生どころではないということだ。むしろ、英語を学ぶことになんの意味があるのか不思議に思えるような者たちがかなりの生徒の現状であるということだ。真に誠実な教育者であれば、己(英語教育者)や己の仕事(英語教育)にそもそもまともな存在理由があるのかすら疑わしく思えてくるはずである。(教師本人は自覚は出来ていないが、やはりどこかで分かっていて鬱病になって入院するケースもあるらしい)。

露骨に言ってしまえば、「英語が使える日本人」にしてあげたいなと英語教師が本気で願うことができる生徒というのは、上位私立校や中堅進学校(有名私立一貫校や、県立の上位高)のトップクラスにしか生息しない。少なく見積もって同学年生徒全体の5%未満、かなり多く見積もっても20%未満だけが、「英語が使える日本人」の候補生だといえるだろう。(私の感覚すると、「ある程度英語を使える日本人」の候補は5-10%未満じゃないだろうか)

日本の英語教育論というのは、実用コミュニケーション的教育派だろうと文法訳読派だろうと、あるいは、小学校英語推進派だろうと小学校英語否定派だろうと、中~上位進学校(高校入試でいえば、標準的な模試で偏差値65以上くらいが中の進学校が中堅進学校といえるだろう)の生徒たちをどのように育て上げるかが議論の焦点であると考えるべきなのではないか。そして、大津先生も江利川先生も、実は中上位進学校の生徒に限定して英語教育論を展開していたのだ。またそうでなければ、伊藤和夫(伝説の駿台予備校講師)の英語教育論が彼らに評価され論じられるわけがないではないか。

こう考えると、すべてストンと納得が出来る。中上位進学校の生徒であれば、思想的科学的文学的含意のある複雑な英文を読む準備ができている。また、A文法訳読(≠「(本物の)文法訳読」)の諸課題、たとえば、whose pen が「誰のペン」でwhose が「誰のモノ」であると訳し分けさせる必要なども、あまり感じられない。A文法訳読などは論じるに値しないかも知れないというものだ。

日本の英語教育論が中上位進学校生徒の教育を暗黙の前提にしてしまうとしても、我々は驚くことはない。ある意味で当たり前のことではないか。教師というのは、自分が教える生徒は自分の分身であって欲しいからだ。英語教育論を論じる英語教師というのは、かつては中上位の高校で学び一流有名大学卒業しているはずだ。彼らは生徒にもある程度以上の高学力を期待する。自分の中高生時代を振り返り、中高生のときにどのような教育をしてもらいたかったのか考える。

教師がうまく教育の仕事をこなせるのは、完全に異文化に属する他者としての生徒に対するときではない。むしろ、自分の分身である後輩たちに教えるときなのだ。私の塾でも中堅校以上の生徒に限定するようになったのも、やはり、そういう事情がある。