英語教育となると、前回書いたように、なぜかアメリカ民主党的なイデオロギーを私は感じてしまう.アメリカの英語教育関係者を支配しているのが、アメリカに民主党であり、リベラルマインドだからではないかと想像する。
しかし日本の英語教師は、移民や留学生に英語を教えるアメリカの人の英語教師とは違う。もっと社会の中核に関わる人たちである。だから、アメリカや英語は好きだが、アメリカのリベラリズムは嫌いだという人も少なからずいるんじゃないか。日本人の英語教師は、アメリカン・リベラリズム一辺倒の日本の英語教育に満足できるのだろうか。
ちょっと考えてみれば判るけれども、日本の英語関係の大御所といえば、リベラルには國弘正雄がいるかもしれないが、保守には渡部昇一がいる。ともに1930年生まれだ。渡部昇一がアメリカン・リベラリズムについてどう思ってるのか私はよく分らない。(こういう英語関係の保守の論客がアメリカン・リベラリズムと正面から対決してくれたら面白いと思うんだけれども、おそらくあまりないか、ほとんど無いんじゃないかな。誰か教えてください)。けれども、日本のリベラルとか、左翼については、大反対の姿勢であることは確かで、そうなると、やっぱりアメリカン・リベラリズムだってそんなに好きじゃないだろう。
まとめてみると、日本の英語教育で用いられる英文はアメリカン・リベラリズムのものが多いけれども、日本の英語教師は必ずしもそれに共感を覚えているものばかりではないだろうし、渡部昇一のように日本的保守・右翼(反左翼、反中国、反韓国)を支持する人も少なからずいるのではないか、ということになる。ではどうしたらいいのかと言われると、私に答えがあるわけではない。ただそういう不満がくすぶっているに違い無い、そしてそれを単に隠蔽するだけではダメなんではないかという問題提起をするにとどまる。以上が私の問題意識であり、作業仮説である。
さて、こういった問題意識を持ちながら、2005年に大きく問題になった青山学院高等部の英語の入試問題をもう一度読んでみようと思うのである。これは、沖縄に修学旅行に言った日本人の高校生が、ひめゆりの証言が退屈であるという内容を正直に綴った感想文(英語)を書いたという設定の文章である。(写真参照のこと)
この入試問題は、大いに問題になり、青山学院高等部側は即刻に謝罪した。しかし、英語教育と沖縄ひめゆりについての本格的な検討には入っていないようだ。青学英語教師を支持する意見も、青学英語教師バッシングする側も、英語教育についての配慮がちょっとなさすぎるように思えたのだ。(続く)
しかし日本の英語教師は、移民や留学生に英語を教えるアメリカの人の英語教師とは違う。もっと社会の中核に関わる人たちである。だから、アメリカや英語は好きだが、アメリカのリベラリズムは嫌いだという人も少なからずいるんじゃないか。日本人の英語教師は、アメリカン・リベラリズム一辺倒の日本の英語教育に満足できるのだろうか。
ちょっと考えてみれば判るけれども、日本の英語関係の大御所といえば、リベラルには國弘正雄がいるかもしれないが、保守には渡部昇一がいる。ともに1930年生まれだ。渡部昇一がアメリカン・リベラリズムについてどう思ってるのか私はよく分らない。(こういう英語関係の保守の論客がアメリカン・リベラリズムと正面から対決してくれたら面白いと思うんだけれども、おそらくあまりないか、ほとんど無いんじゃないかな。誰か教えてください)。けれども、日本のリベラルとか、左翼については、大反対の姿勢であることは確かで、そうなると、やっぱりアメリカン・リベラリズムだってそんなに好きじゃないだろう。
まとめてみると、日本の英語教育で用いられる英文はアメリカン・リベラリズムのものが多いけれども、日本の英語教師は必ずしもそれに共感を覚えているものばかりではないだろうし、渡部昇一のように日本的保守・右翼(反左翼、反中国、反韓国)を支持する人も少なからずいるのではないか、ということになる。ではどうしたらいいのかと言われると、私に答えがあるわけではない。ただそういう不満がくすぶっているに違い無い、そしてそれを単に隠蔽するだけではダメなんではないかという問題提起をするにとどまる。以上が私の問題意識であり、作業仮説である。
さて、こういった問題意識を持ちながら、2005年に大きく問題になった青山学院高等部の英語の入試問題をもう一度読んでみようと思うのである。これは、沖縄に修学旅行に言った日本人の高校生が、ひめゆりの証言が退屈であるという内容を正直に綴った感想文(英語)を書いたという設定の文章である。(写真参照のこと)
この入試問題は、大いに問題になり、青山学院高等部側は即刻に謝罪した。しかし、英語教育と沖縄ひめゆりについての本格的な検討には入っていないようだ。青学英語教師を支持する意見も、青学英語教師バッシングする側も、英語教育についての配慮がちょっとなさすぎるように思えたのだ。(続く)
この手の話題というのはなかなか難しく、私が右翼呼ばわりされたり、バッシングされる恐れもあります。また、ネット右翼の人が押しかけられると、困ってしまうというものでもあります。そういう意味で、お二人の好意的なレスには大変感謝申し上げます。
長いものには巻かれろと言いますか、けっきょくアメリカン・リベラレリズムが、世間で最も多数派であり正義であり現代における正解であり、それに従うことが無難なのでしょうが、それでは英語教育自体も無味でつまらないものになってしまいそうで心配です。
新聞報道では知っていましたが、本文を読むのは初めてです。新聞でもたぶん見出ししか読まなかったと思います。
さて、ぼくは高校受験生に英語の長文読解を教えるときに、
「こういう文には、おりこうな中学生しか出てこないからね」と、半分侮蔑的に話します。
高校入試の問題には「いい子」しかでないのです。
ボランティア活動をしたり、平和の問題を考えたり、沖縄の歴史を大切にしたいと思ったり、・・・そういう中学生が登場します。
少し横道にそれても、あとではちゃんと戻ってハッピーエンド。
八方美人しか出てこないのですね。
僕には面白くない分です。
斜に構えた中学生が出てきた方が面白いと思うのですが。
そういう意味でも、もし沖縄戦、ひめゆり部隊の話が退屈だとしても、それはそれでいいと思います。
ところで、この青山学院の入試問題を読むと、単に「ひめゆり部隊の話が退屈だと感じた生徒」の話ではありません。
マスコミなどは、最後のひめゆりの塔を訪ねた時の「話が退屈だった」とことだけを取り上げて報じたのでしょう。
この話は、全体を読むとそこに主題があるわけではありません。
壕(ごう)の中に入って、真っ暗闇を経験する、その強烈な印象が中心です。
僕も壕の中で真っ暗闇を経験しました。まったく明かりがないというのはこういうものかと強烈な印象を持ったものです。
それに比べると、言葉での説明というのは退屈だということです。
戦争を知らない世代に戦争を伝えるにはどのようにするのか、ある意味ではここにも「いい子」が登場しているのです。
沖縄に住む僕にとっても、この感想文は悪い感じは全く受けません。
それよりも、どのようにすれば戦争のことを次の世代に伝えていくのか考えさせられる「いい文」だと思います。