林間教育通信(「東大式個別ゼミ」改め「シリウス英語個別塾」)

私立中高一貫校生徒を対象とする英語個別指導塾。小田急線の東林間駅(相模大野と中央林間の隣駅)から徒歩3分。

英語と日本語の間には論理がある(その6の補足)

2010年08月01日 | 英語学習
日本語の副助詞「は」は、主語を示しているわけではないのだという議論がある。こういった議論というのは、英語のSubjectが日本語では主語とも主体とも、あるいは主題とも訳すことができるという指摘につながるだろう。また、英語のSubjectと相対しているのはObjectだが、Objectは日本語では「対象」「目的」「客体」と訳される。ビミョウに違っている。それが重要になってくる。

以上のことをよく考えるためには、まずは、たとえば、以前紹介した出口・横山の『入試頻出評論用語』をよまなくてはならない。(もちろん、それは序の口にすぎない。私は、学生時代、ゼミでアドルノの『啓蒙主義の弁証法』 を読んで、うんうんうなったものです。また、同時期に読んだベルクの『風土の日本』は非常に参考になりました)。

つまり、英文法でふつうに教えている主語(S)と目的語(O)という概念は、比較文化論的に取り扱われる高度に哲学的な論議の対象でもあるのだ。これでは、中学生には大変なはずだ。

英語では、徹底的に対象化されているもの、すなわち「≠」であるものがある。これが「目的語」になる。そして、だからこそ、逆に「=」である「補語」も必要になってくるのであろう。だが、日本語と日本文化にはそう意識がが欠如しているのでわかりにくい。


このあたりを出口は次のように述べている。

「日本人はどうだったのか? すべてのものに対して『対象化』しようとする意識を持たなかったのが、日本人の伝統であり、文化だった。たとえば、自然に対しても、日本人は『対象化』ではなく、一体化しようと思った。これは日本人の良さでもあるし、欠点でもある」(同書、28ページ

「一方、西洋は、すべてを対象化していくのです (中略)自然に対しても彼らは対象化していくのです。距離をおいて客観的に見ようと思った」(同書、29ページ)

出口の解説は予備校講師の解説文でしかない。独創的な議論では全然無い。だが、普通の高校生でも、かなり厳しいものかもしれない。そう考えてみると、中学生がbe動詞と普通の動詞の区別に難儀するのも当然かと思われてくる。


さあ、もう少し続けてみよう。同じく同書で横山は主体と客体について、上智大学の入試問題を引用しながら、この問題を次のように発展させてみた。(同書231ページ)

Gandhi's noncooperation was based on his religious belief in the oneness of subject and object.

私は、なるほど!と思う。=と≠の論理の差異が一応わかった高校生を対象に、こんどは、主客が合一するロジックにつきあわせれるのだ。それが上智大学なのだ、と。

余談
さすがに、ヘーゲルの「精神現象学」だとか西田幾多郎の「絶対矛盾の自己同一」はでてここないのだが。。。いや、そのうちに、井筒俊彦大先生の神秘主義の英文が出てくるかもしれない。。。




「英語と日本語の間」はさらに続きます。実は、石崎さんのカエルのほんのさらなる紹介の準備さえ、まだあります。

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