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政治家の役割 2002年4月15日

2002-04-15 20:26:51 | NAO の論文集


 政治家の役割とはいうまでもなく、いかに国益、日本のためになるようにするかを考えることです。今回のテロに関してもそうですし、過去をさかのぼってもわかりますが、このまま強国に引きずられっぱなしで果たして日本という国はいいのでしょうか・・。テロは悪であるという国際世論をバックにして今回アメリカはテロ戦争における国家対国家という公式を作り上げました。こうなるとどんどん戦争をしなければいけないという状況になってきます。ブッシュはイラン、イラク、北朝鮮も悪の枢軸であると発言しました。今後そういった国家に空爆を始めたら、日本はずっと引きずられながらアメリカに加担していくのでしょうか。日本という国家独自の外交戦略ができなくなっていて、このままずっと同盟の名のもとに引きずられてしまうことに、みんな何も疑問を感じないのでしょうか?



 たしかにテロの惨劇を見たときに痛ましい気持ちが生まれたことは間違いありません。それは人間として、単に可哀そうとか許せないというヒューマニズムです。しかし、それだけでいいのでしょうか。その感情は同時にアフガンへの誤爆などの犠牲者や難民に対するヒューマニズムと同等なものではないでしょうか。もっとほかの日本人としての思考は誰も感じないのでしょうか。そこまで主体性が無い国民ばかりなのでしょうか。


 ではいったいなぜ日本は主体性がなくなってしまったのでしょう・・はっきりいうと戦前、戦後でどうしてこうまで日本人は急に変わってしまったのでしょう・・戦後、正義はアメリカにあり、「敵は自分たちの中にある」「負けさせていただいてよかった」「悪いことをやらかした私たちをアメリカが正してくれた」と思った時点から日本国家の、日本国民の主体性は完全に崩壊したのではないでしょうか。また、主体性が無くなった時点で日本国民の思考は停止したのです。


 この思考を活動させないと日本国家の主体性など取り戻しようがありません。


 逆にアメリカから見て日本をどうみているのでしょう。日米同盟こそ大事のように言われますが、はたして同盟というものは同等なものなのでしょうか・・そんなことも考えずに、いわれるがままにアメリカに追従することになぜ思考を働かせないのでしょうか。


同盟というのは当然対等なものではないでしょうし、また、日本がアメリカにすべて追従するという米国日本一体化・・というものでも決してありません。日本が国家としてのアイデンティティーを持ち、国益のために戦略を展開していかなければ先はありません。


 国益を考え、この国をどういう国にしていくのか、そして、そのために政治はどうするべきなのかを考えたときにここで大きく二つの柱を掲げたいと思います。一つは外交、防衛を統括した「国防」という問題、もうひとつは国家百年の計ともいわれる「教育」の問題です。


「教育」という切り口で、議論を進めて生きますと、いま日本は「つめこみ教育」から「ゆとり教育」へとシフトしています。


実際、中国、韓国、台湾など諸外国は現在大変な受験戦争です。これはいい学歴をつかんでいい地位につくためです。発展途上の段階、また先進国に追いつき追い越す国家の教育というものは、いい人材をどんどん世に出して行くためにガチガチの教育をおこなっています。ここでいまなぜ日本が「ゆとり」という道にすすんでいるのか、その本質をかんがえなくてはいけません。


「ゆとり教育」はがんばらない子供とがんばる子供がはっきりと分かれるということでもあります。国家は日本国民に勝ち組と負け組みをはっきりと作ろうとしているのでしょうか。家庭環境も左右されます。家庭環境のいいところの子供しか上に行けない社会を作ろうとしているのでしょうか・・。じっさい、家庭、地域、学校で「公」という概念が完全に崩壊している状況で「ゆとり」などと言っていていいのでしょうか。英国のように上下関係がしっかりとしているわけでもないこの日本では「Pablic」というものをしっかりと教えていくシステムをまず作ってから話をはじめないと、こんごますます崩壊の一途をたどるはずです。


そしてなにより「国民」をつくるのが「教育」であるはずです。


ならば国家ビジョンというか国家のゆくすえがまったく決まっていないのに、教育改革もなにもあったものではないのです。私たちの世代はまだこの国の未来は開けているという感覚がありました。しかし、今の子供たちは生まれた段階で、先が見えない、閉塞感というなかで、不安感や不信感を胸に抱いて思春期をおくらなくてはならないのです。


どんな国にしたいから、どんな教育をして、どんな国民をつくるのか、をはっきりすることがもっとも大事なことなのです。


そして国家の役割は、努力すれば報われるということを子供たちにつたえていくことです。


そして政治家は、未来は開けているということを国民にしめしていくことなのです。


しかし、どうでしょう。国家は努力することのはかなさを伝え、政治家は先行きの不安ばかりを伝えているのが現状です。それなのにシステムばかりを先行して議論し、作り上げているのです。こんな矛盾はありません。


いまこそ政治家は明確な日本のビジョンを掲げ、その国家日本を形成して行く国民を創り上げて行く為に、どのような教育をすべきかという視点に立ち返って発信して行くべきです。教育の問題は即国力の問題へとつながっているという認識を、われわれ国民ひとりひとりも十分にもって今一度真剣になる必要があります。



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テロと日本 2002年4月10日

2002-04-10 23:11:26 | NAO の論文集


 まず、最初に確認しておかなくてはいけないことは、「集団的」であれ「個別的」であれ「自衛権」の無い国家というのは存在しないということです。


 そして今回のテロに対する米国の報復に対してのみ、日本は新法を作ってまで加担しています。北朝鮮の拉致というテロ行為には何の行動もしめさない、また過去に起きたエジプトでのテロに日本人が巻き込まれたときも、今のように騒ぎは大きくなりませんでした。今回に関してはまるで「湾岸戦争」の呪縛から解き放たれんとばかりに、米国のご機嫌伺いに走っているように思われます。


 教科書問題、靖国問題は中国、韓国にご機嫌伺い、そして今回は米国にご機嫌伺いと、まさに日本の主体性の無さが顕著に表れています。



 そうです、一番のこの国の問題は独立主権国家として主体性が無いということにつきるのではないでしょうか。国益というものをないがしろにして、行き当たりばったりのご機嫌伺いの外交を続けてきた結果ではないでしょうか。


 日本の国家としての宿命は所詮米国の行動に追随することでしかないのでしょうか。では逆に日本が他国に攻められたとき米国は国家をあげて助けに来てくれるのでしょうか・・・疑問が残るところです。


 今回の戦争はテロリズムと民主主義の争いではなく「イスラム原理主義」と「アメリカ覇権主義」との争いです。テロの手段として民間機を乗っ取って民間人につっこむという卑劣な手をつかったことは絶対に許されることではありません。しかしアメリカ中心主義の押しつけが生んだ結果とも言えなくはないのでしょうか。


 ここで少し捕鯨の件を例に出して米国の覇権主義を解説したいと思います。古来から日本の食文化の一端を担っていた鯨は、今調査捕鯨によるミンク鯨の捕鯨のみ許され、今後全面廃止の方向で進んでいます。過去をひもといてみると、ペリーの来航はもともと日本を米国の捕鯨の経由地にするためでした。化石燃料が未開だった当時の燃料として鯨油は大切な米国の資源でした。しかし化石燃料が整った今、米国にとって捕鯨は必要のないことなのです。もともと鯨の皮を剥ぎ取って鯨油を取った後はまるごと海洋廃棄をしていた国に、鯨のひげ一本までを無駄なく感謝の念で使い切る日本人の文化性などは関係ない話なのです。まさに、聖書には牛や豚は食しても良いが、聖書に記されていない鯨は未開文明国の食うもの・・・というキリスト原理主義に基づいたものにほかなりません。そして、結果は自然界の海洋動物は食さず、米国の畜産品をどんどん購入してくれ!!というアメリカ拝金主義に行き着くのです。


 ここで今回の戦争に対して、日本が何をすればいいのか考えてみたいと思います。日本は何を望まれているのでしょうか?聞いた話では、ブッシュは小泉首相に戦線でのことより、日本国内の不良債権処理を早くやってくれということを言ったそうで・・つまり、日本は米国の経済建て直しのための今回の戦争に、戦場でのことはなにも期待していないから、日本の個人資産も含めたお金が、米国の活力になるよう整備してくれ・・と考えている、、と言ったら言い過ぎでしょうか?


 「日本は戦後あなたたち米国に押しつけられた憲法のせいで、今回のようなときに武力支援が出来ません・・戦場には行けませんが、戦後処理は日本にお任せ下さい、その分存分に我々の分まで戦って下さい」という国家広告を米国の大手メディアに全面ぶち抜き広告を掲載する、という手法はどうでしょうか?


 議論が米国の批判になってしまいましたが、この議論の本質は「では、日本は」ということです。冒頭にもお話したとおり、いまの日本にもっとも必要なのは独立国家としての主体性です。鳴り物入りで登場した小泉総理も、感情的表現で人気を博していますが、その現実はすべてなんの根拠も無い緊急避難的対応にすぎません。構造改革という、なんとなく日本がいい方向に変わっていくのではないかという期待を抱かせるなんの根拠も裏付けも無い言葉に、国民は疑問を感じないのでしょうか。


 今の憲法は当然変えて行くべきものであることは確かですが、憲法改正という議論も、よっぽど注意しないと、いまの主体性をもたない日本で進めていくとしたなら・・ますます骨抜きのとんでもない憲法になっていく可能性があります。


われわれが今一番必要としているもの、それは独立国家としての主体性を持つことの出来るシステム、そして政治家、それをささえる日本国民だと考えます。



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私の教育論 2002年4月1日

2002-04-01 22:10:12 | NAO の論文集


 ここ数年の青少年犯罪の急増は目に余るものがあります。毎日の報道番組を見ていても、悲惨な事件が連日のように起こり、その内容はとても信じがたく心の底から怒りと悲しみが沸き上がってきます。我が事ではないのにあまりの怒りに涙を流してしまう・・そんな報道が後を絶ちません。その上まだ犯罪を犯していなくてもその予備軍は多数存在し、小学生・幼年期にもその傾向がどんどん現れているという話もあります。犯罪には至らないまでも無気力、無関心、そして自分というものが何者なのかがわからず「自分探し」や「バーチャルリアリティー」「カルト」へと傾倒していく若者も急増しています。報道にならないまでも「いじめ」「不登校」「学級崩壊」などは当たり前の現状です。



 わたしは青年会議所の事業を通して諸外国の現状を見る機会が持てました。「大人になるまで生きているのが一番の夢」と語る子供たち・・一本のワクチンさえあれば生きることができるのに、それさえかなわずこの世を去っていく子供たち・・そんな現状ながら、今日を、そして明日に希望をもって力一杯生きている子供たち・・そんな現状と、いまの日本の若者たちの荒廃度を比べ見たときに、私は黙って見逃すことはどうしてもできません。


 そして青年層の例だけではなくあらゆる世代が「モラル・ハザード」に陥り、政治、経済、医療福祉・・・あげればきりのない諸問題、まさに歪みが一気に押し寄せてきました。


 この現在の我が国「日本」の様々な問題点の原因・・私はその元凶は戦後教育にあったと断言いたします。それだけ、、と限定するのは極論かもしれませんが、大きな要因であることはまちがいありません。


 確かに戦後復興、欧米諸国に追いつけおいこせの時代の中で、戦後の教育は一定の成果を得たのだろうと思います。そうでなければ世界有数の先進国であり得たかどうかは、疑問です。しかし一定の成果を得、役割を終え、成果の代償としてこれほど多くの問題点が吹き出してきた今こそ、今後の教育を新たに構築することが急務ではないでしょうか。


 公と個のバランスが持てる教育を・・


 戦後教育の問題点のひとつに「個人の権利」や「平等」「人権」などが強調されるが余り、「国家」や「ふるさと」「コミュニティー」「家庭」という「公・おおやけ」というものの尊重がすっぽり抜け落ちてしまっていることがあげられます。


 1995年の阪神淡路大震災において、国も地方行政機関もなかなか有効にかつタイムリーに機能しなかったとき、全国から自発的に駆けつけた市民の行動が大きな力となりました。行政に頼らず、市民が神戸を支えたこの行動により日本が新たな一歩を踏み出したことは間違い有りません。

 それは、行政、企業とともに社会を構成していくセクターとして「市民」というセクターが存在することを日本人が再認識したことです

 そして、隣人が、またコミュニティーの存在がこんなにも大切であったのかと、思わせてくれたことだと思います。


 いまはやり言葉のように使われている言葉に「市民が主役」「市民主導の社会づくり」というものがあります。


 「市民が主役」・・これは、市民が自発的に自己責任のもとに社会に参加し社会を形成することを意味します。先進諸国では「公(おおやけ・パブリック)」というものは複数の人間が集合したときに生まれてくるという意識が存在しますが、日本では「公」というものは「行政の管理するもの」「私物に対する公共物」という感覚が存在します。それが故に「おおやけ」というもの以外は「私(わたくし)」という感覚で片づけられがちになってしまいます。しかし「おおやけ」と「わたくし」というものは対立構図にあるものではありません。家族という「公」、コミュニティーという「公」、呉市という「公」、日本国という「公」、地球社会という「公」があり、それらの中で存在する「個」があります。そして「個」の意識のなかにそれぞれの帰属する「公」が存在しています。現在の日本では個人主義が横行し、この「個」という存在より「私・・ミーイズム」が中心となっています。そのことが現在の教育現場の荒廃や、成人式で市長の挨拶も聞かずに私語や携帯電話のやりとりをする新成人などなどさまざまな現象を生み出しています。


 市民主権型社会の実現においては市民が自発的に、社会=「公」のために自己の責任において「公民」となって行動することが大切です。自発的な一人ひとりの行動が「私民活動」になるのではなく、社会のため、「公」のための活動として存在しているかを再確認しなくてはいけません。


 しかし、戦後教育では「公」のためというと戦中の「滅私奉公」の再現のように扱われ、個人のみを尊重する教育ではなかったでしょうか。そのため現実の社会は「滅公奉私」・・自分さえよければいい・・という歪んだ感覚が当たり前の社会になってしまいました。


 いまこそ、「公」と「個」のバランスをとり、自分のくらすこの国の歴史、伝統を見直し、国を愛する心、地域を愛する心、家庭を愛する心をとりもどす教育が必要であることを訴えかけます。



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