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"維新の志士"対談 ~ Director's Edition ~ 1

2002-12-24 00:03:39 | インポート


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 5月14日、大木 会長は、東京都内某所にて数名のブロック役員とともに、漫画家 小林よしのり さんと対談を行いました。 

(小林よしのり先生 プロフィール)


 1953年、福岡県生まれ。漫画家。75年に「東大一直線」でデビューし、その後「おぼっちゃまくん」が大ブーム、ギャグ漫画に新風を巻き起こし、小学館漫画賞受賞。

 現在は雑誌「SAPIO」で「新ゴーマニズム宣言」を大反響連載中、言論・思想界に地殻変動を引き起こしている。

 その特別編「新ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論」「同 台湾論」は国内外に大きな波紋を起こし、大ベストセラー継続中。



1.これまでの教育から垣間見える「秩序感覚」の欠如


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(大木)  

  小林先生とは、昨年から、私が日本JCの誇りある国家「日本」創造会議の議長として活動させていただいてから続いて、大変お世話になっております。


 私は、やはり今の日本人は、自国に対して、あまりにも誇りや自信をなくしてしまっていると感じており、日本における財政、規制緩和教育、教育、外交などの諸課題について、提言書として発信させていただきました。


 今年、広島ブロック協議会では、「教育改革」を取り組むべきなテーマの1つとして、大きく3つの運動の柱をつくって、活動しております。


 1つは「開かれた学校づくり」として、子供をあずけている我々の世代が、小学校や中学校に対して、「仕事が忙しい」とか、「子育ては女性の仕事」などを理由にして、あまりにも学校の現場を知らなさすぎたのではないか、またこれまでの我々のJC活動も、教育に対してはあまりにも関わりが薄くなってしまっており、それによって今の諸課題が生まれてきているのではないかと考えております。


 今一度、我々の世代が学校と関わりを持って、活動していこうと思っております。


 2つめは「教科書採択の正常化」で、広島県教育委員会と連携させていただきながら、取り組んでおります。


 3つめは、JCらしい活動として、従来のPTA運動に、地域の文化や伝統性を公教育の中にも取り入れて、我々も伝えていこうという「PTCA活動」を進めています。


 まず本日お聞きしたいのは、今 語られている教育ひとつ一つの課題に対して、今、先生がJCに望んでいらっしゃることや、最も問題視されていることは何でしょうか?


 

     

     

  (小林)    

    さて、何を、どこから話を始めていきましょうかね。。。(笑)?


 今は とにかく、今まで日教組など、教育現場で組合活動をされている左翼系の団体とか組合員が、たとえば「自分たちが平和を守る」とか「平等」などというスローガンの元で、"自分たちが 絶対に正しい教育 を行ってきた"、と思っていると思う。おそらく、これまで ずっと。


 ただ、その結果は、もう出てきているでしょ。


 その結果が、世の中で何が起こっているのか、ということぐらいは、新聞などを読めば、さすがに、もう わかっているハズだ。子供たちの中に、どのような変化が起こってきているのか、すでに明らかになっていると思う。


 確かに、学校教育だけの問題でもないが、そういう教育の中で育ってしまった親たちが、すでに子供を生んでしまっているわけだから、子供に対して「躾」すら、できない状態になってしまっているんだ。


 親に「躾」してもらえなかった、そんな子供たちは、「秩序感覚」みたいなものを植え付けられていないままになっている。そんな状態なのに、さらに学校の中でも、また「秩序感覚」のない教育が行われているし。


 「教壇をなくして、先生と生徒と同じ目線にしましょう」とか、「かけっこ(徒競走)は横一列でゴールインしましょう」とか、ひどい所では「ひな祭りは差別につながるから横一列にしましょう」とか、「宗教につながるから七夕はダメだ」とか。


 また昨今の日の丸や君が代にしてもそうだ。「ただ、あのとき戦争に使われたからダメだ」という感覚、つまり、ありとあらゆるものに対して、伝統的な価値とか秩序の感覚を無視して、あまりにも短絡的な、幼児的な感覚で すべてを葬り去ろうとしてきた。


 最近の子供たちは、そういった非常に「象徴」的なものに対しての敬意や畏怖心が生まれなくなってきている。


 これは すごくマズイことだ。


 それはなぜかというと、人は誰しも自分の気持ちの中に、特定の宗教ではなくても、なにかしらの「宗教心」的なものを持っているハズだ。ワシは寺で生まれたのだが、般若心経をすべて覚えているわけではないし、仏教大学に行っていたわけではないし、寺を継ぐというわけでもない。特定の宗教をワシも持っていないが、だからといって、「宗教心」を持っていないかというと、そうではない。


 それは「倫理観」みたいなもの、つまり自分の心の内側に、「自分を越える何らかのものがある」、「自分には限界がある。自分なんて たかがしれているんだ」、「自分自身よりも もっと上の価値みたいなモノが心の中にあって、いつか それに導かれるんだ」ということを信じておかないと、人に倫理観は生まれないと思う。


 だから、ごく普通の子供が、電車に乗ってて、ちょっと足を踏まれたからといって、カッとなって、しかも友達が4人5人いれば、あっという間にホームに連れ出して、殺すまで ぶん殴ってしまう。この事件だって、自分たちで母親と相談して自首しているし、特に素行不良ではなく、ごく普通の子供たちだった。


 なぜこんなコトになってしまうのか。


 これは、自分で自分を防御すること、自制することができない、自分を普段から秩序感覚の中に置いていない。


 すべてが自由だし、自分の中で あらゆる規制が全部なくなっていて、なおかつ自分の気持ちの中に、何かに対しての畏れや敬う心が育っていないことを示している。


 つまり、「倫理」が育つ余地を すべてなくしてしまっているのではないかと思う。


 たとえば、昔は家の中に、仏壇や神棚があって、無意識のうちに厳かで畏れを感じることができる場所があって、一人で留守番していると、ちょっと怖くなるような、畏れのような感覚が、子供の中に生まれてきていたハズだ。


 自分自身を越える何かや、自分は卑小で矮小なもので、自分が普段悪いことをしていたら、どこかで誰かが見ているのでは?というような気持ちの芽生えがあって。


 さらに学校の中に、ちゃんとした秩序の感覚があって、国旗があって。また国旗の掲揚では きちんと姿勢を正して見ておかなければならない、というようなことを通して、自分の秩序感覚や倫理に対する感覚が どんどん成長してきて、さらに自制する気持ちや畏れる心、敬う心が育ってくるものだと思う。


 ところが、今は すべてなくなってしまっている。家の中にも怖いものがない、自分はどこにいても自制しなくてよい、あなたは万能である・自由である、ということを学校でも理論化して教えてしまっている。


 もともと、人間は本能が壊れて、生きてきた動物なんだから。


 普通の野生動物であれば、自分が食べたくないモノは食べない、これ以上 無益に人や動物を傷つける必要はないという判断が、すべて本能の中に備わっている。


 しかし人間は その本能が壊れてしまっているから、きちんと理性のタガをはめていかないと、まともには育つハズがない。いざ理性を失って踏み外してしまうと、暴走してしまう可能性が非常に大きいと思うんだ。


 子供たちは みんな、そんな教育の中で育ってきている。だから、その教育のあり方を根本的に考え直さないといけないハズだ。


 これまで延々と、人間は まったく自由で、まったく平等なんだと一生懸命教えてきても、結局、今までのところ、子供たちの中には何にも身に付いていないんだし。



"維新の志士"対談 ~ Director's Edition ~ 2

2002-12-23 00:10:58 | インポート


2.理由を知らない子供たち


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(大木)  

 先生は、今何かと話題の歴史教科書の作成と採択について

尽力されていますが、この活動の動機、先生を突き動かしたものは何でしょうか?  

       

     

  (小林)    

     教科書問題については、自分たちの先人が どうやってこの日本を創ってきたのか、あなたたちの置かれている環境はどのように創られたのかを子供たちに教えていかないといけない、ってことを強く感じたから。



 なぜ自分が生まれた日本が こんなに いきなり豊かで、いきなり携帯電話があって、デジタルカメラがあって、なんでもかんでもあるような世の中なのか、説明しないといけない。

 アジアの中でも これほど豊かなのは日本だけだし、進展著しい今の中国でも 日本ほどの発展を成し遂げていない。それが現実だと思う。


 そんな非常に特殊な国の中に子供が生まれて、豊かであることをまったく疑問に思わず、これが世界だ、これが当たり前だと思っていたら大きな間違いで、一歩 日本から出てしまうと、まったく違うことが分かる。他の国とは、進歩のレベルが まったく違いすぎる。


 日本は ある意味、そんな特殊な国であることを伝えなければならないと思う。


 誰もがマンガの本をどんどん買って、街中にあふれていて、CDやゲームがどんどん買えるような国は そんなにないし、野球でも、イチローが大活躍してグローバルだとか言われているが、野球選手がちゃんと育って、野球観戦が楽しめて、それ自体が産業として成り立っている国は、世界でも結局、日本・アメリカ・韓国ぐらいしかない。


 ワシの書いてるマンガの商売も同じで、マンガでメシを食える国は、日本しかない。でもこの国でマンガでメシが食える国になったのも、歴史的に作られてきているし、絶対に理由があると思う。


 象形文字だったり、絵描きや一芸を尊重・尊敬する文化があったり、政治的背景が違ったりして、中国などでは生まれにくいものだと思う。


 最近、中国でも「小林よしのり研究」というのがあって、マンガという媒体を国益に活かすために、マンガ家を育てようという努力がされているようだが、ワシは、マンガという世界の中で、人気投票など何十年も競争社会の中で戦って、凌ぎを削り、その中で、人に訴えて楽しませるテクニックを体得しながら勝ち抜いて、生き残ってきたワケだよ。


 究極的に言えば、言論の自由がないと、つまり日本のような国ではないと生まれてこないと思う。言論統制されたような そんなプロパガンダ漫画なんて、誰も読まないし、そんな漫画家を国の元で育てるなんて、絶対ムリだと思う。


 またコピー商品を作って売りまくったり、突然 法制度を変えたり、契約社会すら作れないような、一つひっくり返れば どうなるかわからない不安定な社会とは、日本の環境は大きく異なる。


 歴史的にずっと創られた環境の中で、日本人は一生懸命頑張って、非常に豊かになったのだから。


 子供たちがそんなことを一切知らずに、今の豊かさが当たり前のごとく、親の財産を使って、食いつぶしていくだけの世の中になってしまったら、こんな社会は崩壊するだろうし、現に今でも崩壊しかねない社会だと思うよ。


 

       

     

  (大木)          

     しかし、実際には他国やマスコミの論調からは、「戦争の歴史を美化している」「反省がない」と、かなり厳しい批判を受けています。  

             

  (小林)          

     たとえば、会田 雄次さんの「アーロン収容所(中央公論社)」という本の中で、イギリス兵に捕まった日本兵が倉庫にある米俵を数えるときに、あっという間に計算してしまい、現地のイギリス兵を驚愕させたという逸話があり、日本の教育水準は非常に高いレベルにあったことを物語っている。


 日本は明治の学校教育の転換期には、江戸時代の寺子屋から民間が学校を設立し、誰でも学べるようになり、あっという間に普及した経緯があり、階級制度もなくなって、誰でも学問さえできれば出世ができる世の中を作ってしまった。江戸時代の頃から、学問に対する考え方が日本人には培われていたことになる。


 まさに、驚異的なこと、だよね。


 たとえば、このように、明治時代に学校教育が驚異的に普及し、世界一の水準になったという、肯定的な内容については、今までの歴史教科書には書かれていなかった。


 しかし、この事実は決して「美化」ではないと思う。


 実際にすごいワケだし、日本人の誇るべきことだし、世界と比べても良いものなんだから、遺していかなければならない、と日本人が思ってくれないと困ると思う。どこが日本人の特質として良いところなのか、全部知っておく必要があると思う。


 今回の歴史教科書のことで、日本人を美化している、と言われているが、実際には何にも美化していないし、現実に世界の国々と比べたときに、地勢学的に恵まれ、島国だったために国境もほとんど変わらず、文化的にも変わらないまま混乱に巻き込まれず、熟成された長い歴史を持っている。


 だから、我々が獲得した今の環境について、子供たちに教えていかないといけないと思う。


 先人にどれだけ偉い人がいて、どうやって守ろうとしたのか、そしてそのためには尋常ならぬ努力が必要で、そして犠牲が必要だったこと、たくさんの人が死んだことを伝えなければならないと思う。


 もしかすると、ペリーがやってきたときに、欧米の植民地になっていたかもしれない。江戸時代の幕藩体制のままであれば、国軍としてではなく、藩ごとに、そして近代化していなかったら、負け続けていたかもしれないし、不平等条約もそのままになっていたかもしれない。


 その後の戦争も、やらなくて済むのであれば、やらない方がいいに決まっている。何万人もの人が死んだのだから。でも当時は他国が南進しようとしたり、日本を占領しようと考えてた国が数多くあり、なんとか朝鮮半島は独立してもらわなければならなかったワケで。


 ただ単純に「他国の人間を蹂躙してやろう」とか「侵略してやれ」みたいな、マンガの世界の悪党のように考えてたワケではないし、西郷隆盛も、不平士族の欲求不満をまとめて朝鮮半島を攻めることだけを目的に、たったそれだけのために戦ったわけではない。日清戦争後の条約締結時には、朝鮮半島を独立させることを一番上の条項に掲げてあったのだから。


 たとえ百歩譲って、日本が日清・日露戦争から大東亜戦争まで戦ってきたことで、自国にも犠牲が出て、他国にも多くの犠牲が出てしまって、それが「悪かった」と結論づけられているとしても、その時代、死んででも、多くの犠牲を出してでも戦って、なんとかこの国土を守らなければ、と思った人たちがいたワケだから。


 その 長くて深い葛藤の果てに戦う、という先人たちの想いと決意をわからないと。


 それだけの犠牲をいっぱい払って、ようやく、かろうじて この国土を守ることができた、それによって、ここまで豊かな生活を築き上げたということを子供たちに教えていかなければいけないと思う。


 そうすることによって、子供たちは「この世界は、偶然に ばったりと突然できたわけではないんだな」とか、「どれだけか計り知れない多くの犠牲があったんだな」とか、「この日本を創り上げるためには、よっぽど 頭がよくて偉くて、度胸があって、すごい自分の国を愛してた人たちが たくさんいて、ようやく この国の中に自分たちが生まれてきたんだな」と思って、初めて、感謝の念が出て、


「何を守っていくべきなのか」「この国のシステムの優れているところはどこか」「それをしっかりと守っていこう」という気持ちを持った人間が生まれてくるものだと思う。


 そういう気持ちを持った人間を育てていかないといけない。


 そういう意味では、今までは、まったく逆に育ててきている。日本人は とにかく悪党で、悪いこと ばっかりしてきて、迷惑ばっかりをかけてきて、何にも良いところがなかった、ということだけを教えて育ててきている。


 そんなことじゃ、リーダーシップとか責任感とか、芽生えないよ。


 たとえば一国の問題ではなくて、アジアの国の中でどうやってリーダーシップを持って、経済危機を迎えている国々をどうやって安定させればいいのか、みたいに、そこまで本当は考えてもいいはずだ。そこまでも考えずに、これまでのように一国のことだけを考えていて、「引きこもり」みたいな感じになってしまっていては、「活力」なんて生まれないと思う。


 ずっと不況だなんだといわれているが、基本的な「一個人の活力」みたいなものが沸き起こるかたちにならないと、景気なんて よくなるわけがないと思う。


 「活力」が失われていて、一国の中だけで引きこもり状態になってしまっていて、「何もしない方がいい」とか「どこの国にも何も言わない方がいい、何も干渉しない方がいい」「この国の中だけで、なんとか穏やかに穏やかに、過ごしていけないだろうか」と全員が思っているだけだ。


 でも本当は、東南アジアやこの前来日した台湾の李登輝も、中国は覇権国歌を唱えており、人口も多くて不安定で非常に危なく、結局、経済基盤や民主主義の体制などからみて「なんとか日本がリーダーシップをとってくれないかな」「このアジア全体でみても、日本しかない」、と思っている国は多いはずだ。



"維新の志士"対談 ~ Director's Edition ~ 3

2002-12-22 00:17:37 | インポート


3.「選択」と「決断」を迫られている日本


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(大木)  

 JCは特に、競争社会の中で生きている経済人の集まった団体ですから、非常に敏感だと思います。先生が書かれている本に対して、共鳴するメンバーが他の団体よりも突出して多いのでは、と感じています。


 ある意味、現実の社会で生きているわけですから、まやかしが通用しない。


 でも気がつかなかったのですが、我々のような人間ばかりかと思っていたら、周りを見回してみると、競争社会を否定している人間がまだ山ほどいるし、広島の教育現場は まだまだ遅れており、ひどい状況もあります。


 そういった状況の中で、たとえ新しい歴史教科書が採択されたとしても、あれだけ遅れている教育現場の状況で、今までマインドコントロールで育てられてきた教師たちが9割以上を占めている今の日本の現状で、教科書が変わったからといって、全然何も先に進んでいかないのでは、という不安感を強く持っています。


 ですから、学校へ行こう運動などに我々が参加して、監視ではなく、現場の先生たちともっと話し合っていかなければならないと感じています。

 

       

     

  (小林)    

     どんどんやっていくべきだ。



 確かに、教科書ひとつだけ変えれば教育全体が変わる、というものではないし、だからといって、別の所から変えられるかといえば、それもできないわけだから。


 しかし、教科書ひとつのことで、社会全体が大きく変わることだってあり得る。


 それはなぜかというと、教科書の問題がなぜここまで大きくなったのか、ということを考えてみればよくわかる。


 要するに、この教科書を作る時に開いた記者会見では、すべてのマスコミが来ていたが、どこも報道せず、黙殺された状態だったのに、今は新聞もテレビも雑誌も大きく取り上げるようになった。


 結局、黙殺しきれずに、怖いとさえ思い始め、しかも周辺諸国から外圧まで かかるようになった。


 それによって、今、日本人が選択を迫られてしまっている。


 自分たちの子供を教育する教科書を、他国の検定に委ねるのかどうか、他国に認められた教科書だけを今後使っていくのかどうか。そうではなく、オレたちの国の教育はオレたちがやる、日本の国の子供は、絶対に日本の国の感覚で育てていく。


 なぜ、日本の国の子供を育てるのに周辺諸国の人々にお伺いしなければならないのか。「この教科書で育てていいでしょうか?」と。


 それでは、日本の中で、日本人ではなく、周辺諸国の人々ができ上がってしまうことになるよ。


 現実、そこまで外圧で押し込まれてきていたワケで、それを断ち切るために、大いなる「決断」をさせることになったんだ。


 日本のリーダーである政治家は、そこで決断しなければならない。官僚で抗う者は排除しなければならない。


 つまり、"戦い" が始まっているわけだ。


 それは当然、「ふざけるな」とか「内政干渉だ」と支持してくれる国民がいなければ、達成できないものだ。


 要するに、戦って、自分たちの歴史を自分たちで取り戻す、という感覚を持つ人たちが どんどん増えた、ということだと思う。



"維新の志士"対談 ~ Director's Edition ~ 4

2002-12-21 00:20:11 | インポート


4.International な人間は、無国籍人間ではない


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  (小林)    

  そんな状況が生まれている中で、教育現場の教師の中にも戦っているヤツもいるだろうし、父兄も、当然 日本人として育てるべきだ、と思っているだろうし。


 日本人として育てないと、グローバルには通用しない。


 グローバルに通用するために、"無国籍人間" に育てるわけにはいかないのだから。

 どこに行っても、「あなたはどこから来たのか」「日本はどんな国ですか」と、自国の、そして自分のアイデンティティーは訊かれるわけだし。


 International な人間を育てるためには、National な人間を育てなければならない。



 国際人を育てるためには、国家の意識をはっきりと持った人間を育てなければダメなんだ、ということを、一般の人たちも わからなければいけない。


 そのための戦いを いろんな場所で領域で、どんどん広げていっていい。教科書問題は、その突破口になっている。これは戦いのための「決断」を施す いい材料になっていると思う。


 政治家も「決断」すればいいし、官僚も「決断」すればいい。教師も「決断」すればいい。教育委員も、各都道府県知事も市町村長も どんどん「決断」すればいい。


 今はそんな状況になっている。


 これまでは、我々が、なぁなぁの環境の下で、誰かが全部何かやっておいてくれているだろうと考えている間に、はっきりと この国を崩壊させてやろうとまで考えていた団体や個人がいて、しかも それらには「活力」があったワケで。


 そこに負けない「活力」を、一般の人たちが すべて取り戻すことができればいいと思うし、その「活力」を取り戻す きっかけになればいいなと思う。


 現実に歴史や今回の報道などを通じて、何かを伝えようとしているわけだし、教科書は あらゆる学問の集大成として作られているワケだから。


 間違いなく、これが基本、ベースになると思う。



"維新の志士"対談 ~ Director's Edition ~ 5

2002-12-20 00:24:40 | インポート


5.パブリック・マインドとの "葛藤"


Renovation9


(大木)  

 実際、教師になったばかりの若い方々は 戸惑っているようですし、現実的に教えにくいと思っている方もいらっしゃるようです。


 でも、そのような方々に先輩が思想的団体への加入を強制したり、加入しなければ職場で差別を受けたり、広島県の場合は校長先生が自殺に追い込まれてしまうほどですから、すさまじい状況があるのでは、と推察しています。


 私は、現場の教師も「商売」「仕事」だと思っています。公務員として就職して、その仕事を選んだわけですから、メシを食っていくために流されてしまう状況があるのでは、と考えています。


(小林)    

     ワシだって、漫画家という商売をやっている。もちろん、商売のことだけをやっていれば、手っ取り早くて、楽だ。何もタダで膨大な時間を費やして、教科書を作らなくても、またあちこちで講演なんてしなくても。


 いろんな用事を頼まれて、今もやっているけどさ(笑)。



 1日原稿を書いていれば、稼げる立場にいるんだから。原稿料も稼げるし、単行本を書けば、印税も入ってくるし。それをやっていかなければ、従業員を雇うこともできないよ(笑)。


 教科書のことをやっていても、あちこち飛び回っていても、それではまったく儲けはないし、はっきり言って、大損している。この4年間、特に執筆した本も著しく少なくなって、このままでは経済的にダメだ、という状況まで きてしまったよ

(笑)。


 最近、漫画界でも、「日本人とは何か」を問い直すようなマンガがヒットしているけど、あの環境なんて、ワシが作ってきたようなモンだよ(笑)。昔、こんな内容のマンガを描くと、「好戦的だ」とか「右翼的だ」とか言われるような空気があったのだから。


 それをこっちが時間をかけて、左翼寄りになった世の中を ほぐしてきて、言論空間を広げてきたからこそ、今があるのだから。商売だけを考えれば、すぐそんなヒットするマンガを描くべきだと思う。


 でも、そこは難しいところで、私的な、プライベートでの利潤の追求と、もうひとつは、「自分がやらなければ、他の人間にはできない」という感覚、つまり公的な、パブリックの部分といつも "葛藤" が 起きている。


 ただ儲けのためだけのマンガを どんどん描いていた方が楽でいいな、と。その方が命の危険にも晒されないし、警戒しながら毎日を送る必要もないし(笑)。


 でも、自分が「公的」なこととして、「日本のことや自分たちの子供のことを真剣に考えるところまで力があるのでは」と思ったのであれば、「やっぱり自分でやってみようかな」と思ったのであれば、そこで葛藤を起こしつつ、なんとか食いつなぎ、なんとか儲けつつ、なんとか公的なこと、日本のためになることをやりたい、と、本当に "葛藤" しつつ やらなければならないと思う。


 それらのバランスを取らずに、完全に崩れてしまっては ダメだ。バランスが保たれているからこそ、うまくいくものだと思う。


 儲けることばかり考えて、国のことなんて知らない、と言ってしまうようでは、情けないことだと思う。自分たちの次の世代、子供たちのために、何も贈っていないし、何も遺していないことになる。


 そういうことだけしかやっていなかったら、結局 その空間だって壊れていくものだ。事実、マンガの世界だって、規模がどんどん縮小しているし、売れなくなってきている。


 この業界だって、本当に 子供たちのことを考えて、何をしていかなければならないのか、考える必要があるんだ。


 逆にもう一方で、国のことばかり考えて、プライベートはすべて捨てていい、なんて言ってしまうと、破産とか倒産とかになってしまって、みんな食えなくなってしまってしまう。


 みんな "葛藤" の中で、やっている。


 その "葛藤" を通して、"したたかさ" が身に付く。


 どっちかしか知らなかったら、"したたかさ" は身に付かないし、単純な人間しか生まれてこない。