5月14日、大木 会長は、東京都内某所にて数名のブロック役員とともに、漫画家 小林よしのり さんと対談を行いました。
(小林よしのり先生 プロフィール)
1953年、福岡県生まれ。漫画家。75年に「東大一直線」でデビューし、その後「おぼっちゃまくん」が大ブーム、ギャグ漫画に新風を巻き起こし、小学館漫画賞受賞。
現在は雑誌「SAPIO」で「新ゴーマニズム宣言」を大反響連載中、言論・思想界に地殻変動を引き起こしている。
その特別編「新ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論」「同 台湾論」は国内外に大きな波紋を起こし、大ベストセラー継続中。
1.これまでの教育から垣間見える「秩序感覚」の欠如
(大木)
小林先生とは、昨年から、私が日本JCの誇りある国家「日本」創造会議の議長として活動させていただいてから続いて、大変お世話になっております。
私は、やはり今の日本人は、自国に対して、あまりにも誇りや自信をなくしてしまっていると感じており、日本における財政、規制緩和教育、教育、外交などの諸課題について、提言書として発信させていただきました。
今年、広島ブロック協議会では、「教育改革」を取り組むべきなテーマの1つとして、大きく3つの運動の柱をつくって、活動しております。
1つは「開かれた学校づくり」として、子供をあずけている我々の世代が、小学校や中学校に対して、「仕事が忙しい」とか、「子育ては女性の仕事」などを理由にして、あまりにも学校の現場を知らなさすぎたのではないか、またこれまでの我々のJC活動も、教育に対してはあまりにも関わりが薄くなってしまっており、それによって今の諸課題が生まれてきているのではないかと考えております。
今一度、我々の世代が学校と関わりを持って、活動していこうと思っております。
2つめは「教科書採択の正常化」で、広島県教育委員会と連携させていただきながら、取り組んでおります。
3つめは、JCらしい活動として、従来のPTA運動に、地域の文化や伝統性を公教育の中にも取り入れて、我々も伝えていこうという「PTCA活動」を進めています。
まず本日お聞きしたいのは、今 語られている教育ひとつ一つの課題に対して、今、先生がJCに望んでいらっしゃることや、最も問題視されていることは何でしょうか?
(小林)
さて、何を、どこから話を始めていきましょうかね。。。(笑)?
今は とにかく、今まで日教組など、教育現場で組合活動をされている左翼系の団体とか組合員が、たとえば「自分たちが平和を守る」とか「平等」などというスローガンの元で、"自分たちが 絶対に正しい教育 を行ってきた"、と思っていると思う。おそらく、これまで ずっと。
ただ、その結果は、もう出てきているでしょ。
その結果が、世の中で何が起こっているのか、ということぐらいは、新聞などを読めば、さすがに、もう わかっているハズだ。子供たちの中に、どのような変化が起こってきているのか、すでに明らかになっていると思う。
確かに、学校教育だけの問題でもないが、そういう教育の中で育ってしまった親たちが、すでに子供を生んでしまっているわけだから、子供に対して「躾」すら、できない状態になってしまっているんだ。
親に「躾」してもらえなかった、そんな子供たちは、「秩序感覚」みたいなものを植え付けられていないままになっている。そんな状態なのに、さらに学校の中でも、また「秩序感覚」のない教育が行われているし。
「教壇をなくして、先生と生徒と同じ目線にしましょう」とか、「かけっこ(徒競走)は横一列でゴールインしましょう」とか、ひどい所では「ひな祭りは差別につながるから横一列にしましょう」とか、「宗教につながるから七夕はダメだ」とか。
また昨今の日の丸や君が代にしてもそうだ。「ただ、あのとき戦争に使われたからダメだ」という感覚、つまり、ありとあらゆるものに対して、伝統的な価値とか秩序の感覚を無視して、あまりにも短絡的な、幼児的な感覚で すべてを葬り去ろうとしてきた。
最近の子供たちは、そういった非常に「象徴」的なものに対しての敬意や畏怖心が生まれなくなってきている。
これは すごくマズイことだ。
それはなぜかというと、人は誰しも自分の気持ちの中に、特定の宗教ではなくても、なにかしらの「宗教心」的なものを持っているハズだ。ワシは寺で生まれたのだが、般若心経をすべて覚えているわけではないし、仏教大学に行っていたわけではないし、寺を継ぐというわけでもない。特定の宗教をワシも持っていないが、だからといって、「宗教心」を持っていないかというと、そうではない。
それは「倫理観」みたいなもの、つまり自分の心の内側に、「自分を越える何らかのものがある」、「自分には限界がある。自分なんて たかがしれているんだ」、「自分自身よりも もっと上の価値みたいなモノが心の中にあって、いつか それに導かれるんだ」ということを信じておかないと、人に倫理観は生まれないと思う。
だから、ごく普通の子供が、電車に乗ってて、ちょっと足を踏まれたからといって、カッとなって、しかも友達が4人5人いれば、あっという間にホームに連れ出して、殺すまで ぶん殴ってしまう。この事件だって、自分たちで母親と相談して自首しているし、特に素行不良ではなく、ごく普通の子供たちだった。
なぜこんなコトになってしまうのか。
これは、自分で自分を防御すること、自制することができない、自分を普段から秩序感覚の中に置いていない。
すべてが自由だし、自分の中で あらゆる規制が全部なくなっていて、なおかつ自分の気持ちの中に、何かに対しての畏れや敬う心が育っていないことを示している。
つまり、「倫理」が育つ余地を すべてなくしてしまっているのではないかと思う。
たとえば、昔は家の中に、仏壇や神棚があって、無意識のうちに厳かで畏れを感じることができる場所があって、一人で留守番していると、ちょっと怖くなるような、畏れのような感覚が、子供の中に生まれてきていたハズだ。
自分自身を越える何かや、自分は卑小で矮小なもので、自分が普段悪いことをしていたら、どこかで誰かが見ているのでは?というような気持ちの芽生えがあって。
さらに学校の中に、ちゃんとした秩序の感覚があって、国旗があって。また国旗の掲揚では きちんと姿勢を正して見ておかなければならない、というようなことを通して、自分の秩序感覚や倫理に対する感覚が どんどん成長してきて、さらに自制する気持ちや畏れる心、敬う心が育ってくるものだと思う。
ところが、今は すべてなくなってしまっている。家の中にも怖いものがない、自分はどこにいても自制しなくてよい、あなたは万能である・自由である、ということを学校でも理論化して教えてしまっている。
もともと、人間は本能が壊れて、生きてきた動物なんだから。
普通の野生動物であれば、自分が食べたくないモノは食べない、これ以上 無益に人や動物を傷つける必要はないという判断が、すべて本能の中に備わっている。
しかし人間は その本能が壊れてしまっているから、きちんと理性のタガをはめていかないと、まともには育つハズがない。いざ理性を失って踏み外してしまうと、暴走してしまう可能性が非常に大きいと思うんだ。
子供たちは みんな、そんな教育の中で育ってきている。だから、その教育のあり方を根本的に考え直さないといけないハズだ。
これまで延々と、人間は まったく自由で、まったく平等なんだと一生懸命教えてきても、結局、今までのところ、子供たちの中には何にも身に付いていないんだし。