1983/6/21 以降たくさんの関西HEAVY METALバンドがメジャーデビューした。
ワシも上京してきた頃の熱い想いがよみがえってくるようで、このムーブメントにどっぷりとハマった。ライブを見に行く回数も格段に増えた。それもいままでのようなホールでのコンサートではない。新宿ロフト、渋谷エッグマン、鹿鳴館といったライブハウスだ。外タレのように何年かおきに来日するのではない、まさに日替わりで、いろんなライブハウスでギグがあるのだ。ライブハウスに行くことはワシの日常となった。
と同時に、ワシも忘れていた想いを振り起こして、ミュージシャン活動を始めなければ・・・と思った、、しかし、やはり3年間のギャップはいかんともしがたいものだった。たしかに毎日ギターの訓練だけはかかさなかったので、テクニック的にはなんの問題もなかったのだが、いかんせんどっぷりつかったミーハー大学生活で、苦労するということを忘れてしまっていた。いまさら知らないメンバーとバンド活動を始めようというガッツをどこかに置き忘れてしまっていた。あと、東京といってもワシの住んでるあたりでは、やはり、関西のような熱いムーブメントは起きてはいなかった。・・その後これではいかんと関東で奮起したひとつのバンドが出るのだが、そしてそのメンバーとも時を越えて交流ができるのだが・・・まだ、東京は関西からくる黒船にファンとして観戦していたような状況だった。
大学3年の頃のワシはといえば、やはり基本は女の子にもてなければいけないということで、ファッションも当時はやったデザイナーズブランドに身をかため、髪型は刈り上げのテクノカット・・・というなんともミーハー街道まっしぐらだった・・しかし、EARTHSHAKER..44MAGNUM等に出逢って、こんなに身近にROCKを感じられるようになって、ワシは変わった。大学のまわりの仲間や女の子からヒンシュクを買いながら髪を伸ばし始めた。金髪にも染めた。恰好から入るのだけでなく、いつでも出番があってもいいように一心不乱にギターの練習もした。
ワシは親との約束で、4年間は自由に大学生活を過ごしてもいいが、きちんと4年で卒業して、卒業したら田舎に戻って家業を継ぐための修行をするという約束をしていた。4年間仕送りをして、ワシを自由にしてくれた親を裏切って、東京に残って音楽活動をすることはワシにはできなかった。
いよいよ関東勢が関西勢に負けてたまるかと逆襲をはじめた、そう、あのANTHEMが声を上げ始めたころ・・
ワシは大学を卒業して、田舎へと戻ったのだ
大学生活は楽しかったし、ミュージシャンになるという道も自分で閉ざしたのだから、特に後悔というものはなかった。
ただ、いまでも、あの時東京の大学ではなく、関西の大学に進んでいたら、どうなっていただろう、、と思うことはある。ワシの後輩のヘボい丁稚のようなやつでも、関西の大学に進学して、メジャーデビューしたりしていたのだ。ただそんなことは誰にも分らなかったことで、普通は音楽やるなら東京を選ぶのが当たり前だしねっ
田舎に戻ったワシは親の会社を手伝いながら、スタジオミュージシャンもどきのような事をたまにしていた。まあこれは、当時はまだカラオケはテープのようなものしかなく、曲数も少なかったので、お客さんの要望で自主製作のカラオケテープを作ったりするときに、ギターひいたりしてただけで、稼ぎはなかったけどね・・
その後親父が亡くなって、、もうワシのわがままで今のLIVE&SHOTBAR CAROUSELAMBRAをやり始めたっていうわけ。そしていま、呉の情熱ROCKバカがここにいる。
ワシの人生の転機となった四枚のアルバム・・あれから25年が経過するけど、EARTHSHAKERのアルバムを最後に人生の転機になるようなアルバムに出合っていない。
5枚めの人生の転機となるアルバムに出合う日はあるのだろうか・・
あの日聴いた歌に抱かれ the end