臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

今週の朝日歌壇から(2月21日掲載・其のⅠ・決定版)

2011年02月24日 | 今週の朝日歌壇から
[佐佐木幸綱選]

○  榛名湖の氷上に釣る公魚の穴より出でて宙に光れり  (前橋市) 荻原葉月

 評者はこの作品を目にした当初、「公魚の穴より出でて宙に光れり」という表現だけに着目したので、釣られて天麩羅にされる運命の「公魚」が、その名に相応しく毅然として威厳を正している様子として捉えました。
 しかしながら、そうした解釈も強ちとんでもない誤読とは言えないかも知れません。
 何故ならば、作者は、釣り上げられて氷の穴の中から出て来たばかりの「公魚」が冬の朝日を浴び、空中で身を反らしキラリと光り輝いている様子を詠んでいるのですから。
  〔返〕 空中に釣り上げられた一刹那尾鰭反らせるワカサギの見栄   鳥羽省三
      氷上で凍り付かんとする刹那尾鰭反らせし公魚の見栄       々


○  児を抱えヴァイオリン背にわが娘わっさわっさと改札通る  (石巻市) 須藤徹郎

 短歌表現に行き詰りを感じたのでありましょうか?
 或いは、豊臣秀吉の“刀狩り”にも匹敵する“言葉狩り”とでも言うべき現象でありましょうか?
 昨今のいわゆるプロの歌人たちは、「オノマトペ」と称して、擬声語や擬態語に注目なさり、その作中にもその類の語が盛んに用いられているようである。
 また、“総合誌”と言われている短歌専門の雑誌に於いても、“オノマトペ特集”とでも言うべき記事が組まれたりしているが、こうした現象は、“鶏が先か卵が先か”と言うべきことであり、総合誌のそうした記事にプロの歌人たちが刺激されて“オノマトペ”なる言葉に注目するに至ったのか、それともその逆であるか、などということについては、不勉強な私には全く判りません。
 つい最近目にした何方かのブロクにも、河野裕子氏の遺作『葦舟』に触れて、「河野裕子の晩年の歌の特徴は、自然体ということだろうか。力が抜けているような感じ。初期の作品とは違ってきている。オノマトペは、ずっと多い。毎日毎日、たくさん作られたのだろう。」とあった。
 この歌人などは、幾分か社会常識や一般教養に欠けている点が惜しまれるが、短歌センスの面ではかなり卓越した才能を持って居られるので、著名な歌人の物真似の“オノマトペ”漁りなどはしないで、見たまま感じたままの事柄を自分自身の言葉で表現しさえすれば、かなりいい線まで行けるのに、と、私はかねがね気に掛けていたのである。
 “オノマトペ”即ち擬声語や擬態語の類は、言わば、より原始的かつ即物的な表現であり、思惟的或いは抽象的な表現を思い付かない場合に用いられる表現かと思われ、時には作品を作品たらしめるような大きな役割りを果たすこともあるが、結社誌や総合誌或いは新聞歌壇などに盛られている作品中で、いわゆる“オノマトペ”を用いた作品の大半は、敢えてオノマトペを用いなくても良かったのに、と思われる作品が多いのである。
 したがって、言語表現の開拓者たるべき現代歌人たちが今更大騒ぎをして、手柄顔で用いるべき表現とは思われません。
 ところで、本作で用いられている「わっさわっさ」という擬態語は、現代作家たちが血眼になって漁っている“オノマトペ”と言うよりも、東北方言で言うところの「なりふり構わずに全身を揺すって過ぎて行く」様子を、面白おかしくかつ即物的に表現しようとしたものであり、また、それだからこそ、「児を抱えヴァイオリン背に」という一、二句とも微妙な関係で響き合って、成功しているのである。
  〔返〕 わさわさと竹の葉揺らすパンダらは外貨稼ぎに上野に来たか   鳥羽省三
      のろのろと銀座通りを走ってる石原マラソン今年で最期       々


○  三八の豪雪想ふ永平寺仏殿軋み怯えしあの日  (東根市) 庄司天明

 「三八の豪雪」と言えば、評者が成人に達して間もない頃であり、本作の作者・庄司天明大和尚とて、未だ悟りどころか度胸も坐らず、読経も思うままにならない若輩の僧侶として、本山・永平寺で修業中の頃かと思われます。
  〔返〕 未だ若く修行途上の若僧が度肝抜かせし三八豪雪   鳥羽省三


○  大雪にいつもの如く玄関前子ら一列に吐く息白し  (七尾市) 田中伸一

 今年始めての「大雪」の朝、田中家の「玄関前」には「いつもの如く」ご近所の「子ら」が勢揃いしたのである。
 しかしながら、たまたまこの朝は、本作の作者・田中伸一さんちのご長男・伸典君が朝寝坊してしまったので通学準備が遅れてしまった。
 そこでお父さんの伸一さんは、「うちの伸典はあの通りの愚図だから、通学準備にもう少し手間取ると思うよ。差し支え無かったら、皆さんもう暫く待ってやって下さい。なんだったら、私が車に乗せてやり、みんなの後を追っかけさせるから、皆さんは先に行ってても宜しいよ」などと、律義者として知られた伸一さんらしく、極めて低姿勢で謝ってはいるのですが、田中家の前に「一列に」整列して真っ白い「息」を吐いている「子ら」は、それにも関わらず、一斉に口を揃えて、「いいの。いいの。伸典君ちの小父さんは何も気にしなくてもいいの。伸典君が愚図であることは、ここにいるみんなが知っていることだから、大人たちは気にしなくてもいいの」などと、子供らしくも無いことを言って、田中伸一さんを慰めている場面でありましょうか?
  〔返〕 冬だから大雪降るのが当たり前いつも通りに学校に行く   鳥羽省三


○  伝へきて寒には鯉こく焚くならひ総領なれば頭盛られし  (長野県) 沓掛喜久雄

 「鯉こく」とは、雪国の人々にとっては、冬の寒さに耐える為の特別な食べ物とも言えましょう。
 わが国には、“冬至には南瓜”、“土用の丑の日には鰻”といったような伝統的な食習慣が在りますが、本作の作者・沓掛喜久雄さんのお住まいの在る長野県では、「寒」中に寒さしのぎの為に“佐久鯉”の「鯉こく」を食べるという習慣が在るのでありましょう。
 で、その点をおさえた上での本作の要点は、「総領なれば頭盛られし」という下の句の語句をどのように解釈するか、或いは、この下の句に、作者・沓掛喜久雄さんが、どのような思いを込めていらっしゃるのか、という点にありましょうか?
 察するに、本作は作者・沓掛喜久雄さんが、自らの少年時代のことを回想しての作品でありましょう。
 沓掛家はその地方の名家であり、喜久雄さんはその名家の総領息子でありましょうから、同じ沓掛家の人間とと言え、家族の中の女性たちとは勿論、男兄弟の次男や三男とも別の待遇で育てられていたのでありましょう。
 そこで、ある寒中の晩餐の折、沓掛家の主婦たる彼のお母さんは、彼の高脚のお膳の上に置かれた朱塗りのお椀の中に、「鯉こく」の「頭」を盛ったのである。
 その事は、当事者のお母さんからすれば、少しも悪気が無いどころか、我が子の喜久雄さんはこの家の総領息子であるからと、特別待遇をしたつもりで、そうしたのでありましょうが、未だ少年の彼にしてみれば、「自分より目下の弟たちや女の家族たちの『鯉こく』は、美味しそうな胴中の部分や尻尾の部分なのに、自分のは『総領』だからという理不尽な理由で、食べ難く美味しくもなさそうな『頭』の部分である。これは、日頃から自分にだけ辛く当たるお母さんに、“一服盛られた”も同然だ」と、子供心に恨みがましくも思ったのでありましょうか?
 しかし、「親の心、子知らず」とはこの事である。
 今や老境に達して、人の子となり、祖父ともなった喜久雄さんは、幼かった当時の自分のことを思い出し、恥ずかしいとも懐かしいとも感じていらっしゃるのでありましょう。
  〔返〕 鯉こくの頭の部分は美味しくてありとあらゆる栄養に富む   鳥羽省三 
 

○  戦没の父よいずくやラバウルの椰子の葉揺らし熱き風吹く  (富士吉田市) 萱沼勝由

 「ラバウル」と言えば、あの太平洋戦争中に、我が国の航空隊の基地が置かれ、陸海軍合わせて九万人余りのわが国の兵士たちが配置されていたので、我が国の現代史とは切っても切れない縁で繋がる南洋の土地である。
 また、この町の近郊のタブルブル火山及びブルカン火山は、有史以前から度々噴火を繰り返して居り、ごく最近では1994年に同時噴火が発生し、同地は未だにその時の被害から立ち直れない状態にあるということである。
 その南洋の地・「ラバウル」の町に、本作の作者・萱沼勝由さんは、「戦没」なさったご尊父様の遺骨探しにでもいらっしゃったのでありましょうか?
 その「ラバウル」という町は、私にとっては全く未知の地でありますが、作中の「椰子の葉揺らし熱き風吹く」という語句に拠って、僅かながら、南国らしい雰囲気を窺うことが出来るような気がするのである。
  〔返〕 底抜けの明るい声で歌ってた「さらばラバウルまた来る日まで」と   鳥羽省三


○  円かなる光の中にうずくまり老いを演ずる若き芸人  (横浜市) 田口二千陸

 「若き芸人」が「円かなる光の中にうずくまり」「老いを演ずる」ことに対して、本作の作者・田口二千陸さんは、どのようなお気持ちでいらっしゃるのでありましょうか?
  〔返〕 薄れ陽の歪なる陽にうずくまり後幾日の我が余生かも   鳥羽省三


○  春の日に結婚相手と決めたのは生きる力のなさそうな人  (盛岡市) 白浜綾子

 「春の日」にわざわざ「生きる力のなさそうな人」を選んで「結婚相手と決めたのは」、一体どんな理由が在ってのことでありましょうか?
  〔返〕 春の日の光に当たる我なれば結婚相手は何方でも良し   鳥羽省三


○  千頭の海豹日向ぼこをなす抜海港より利尻富士見ゆ  (稚内市) 藤林正則

 稚内市の観光案内のコピーにするに相応しい作品でもありましょうが、実情よりやや誇張されているとも思われる「千頭の海豹日向ぼこ」という表現に、作者・藤林正則さんの心のときめきが感じられないでもないと言えば、やや誉め過ぎになりましょうか?
  〔返〕 海豹が千頭も居て日向ぼこ一頭一人観光客呼ぶ   鳥羽省三

 
○  心の声そっと聞こえているような薄暮に届く新着メール  (札幌市) 江畠詩織

 バスや電車の座席で、背中を丸め、俯いた姿勢でひたすら「メール」を打っている若者たちを見つめていると、彼らの打つ「メール」の一語一語には、確かに「心の声」どころか“怨念”さえも籠もっているように感じるのである。
 評者にとって、「メール」とは、それを打つ人の心からは勿論、それを待ち受ける人の心からも生きる情念を奪い去って行くような悪魔の道具のようにも思われるのである。
  〔返〕 心中の生きる情念奪ふごとメール幾億闇夜彷徨ふ   鳥羽省三


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。