臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

島田幸典作『駅程』所収作鑑賞(其の8)

2016年08月13日 | ビーズのつぶやき
○  朝明ふと兆すよしなきよろこびはひとを歩ませさびしがらせる

 「朝明」に「あさけ」とのルビあり。
 「思わざる紋」と題しての九首は歌集『駅程』の巻頭を飾る連作であるが、本作はその一首目である。
 作中の「ひと」を作者自身として解釈すれば、本作の意は「朝明け方に作者はさしたる理由の無い喜びと共に目覚め、その勢いで妻女の手を携えて、いつもの朝の如くに自宅の近所を散歩する。自宅を出て、いつもの道を散歩し始めた当初は気付かなかったのであるが、妻と共に歩みを進めるにつれて、彼の心にいやましに募り始めたのは、『この朝明けに私の心に兆した喜びは、さしたる理由の無い喜びであったのだ。それなのに私は、事もあろうに妻女の手を携えて散歩をするなんて。こうしたことこそは私の生の淋しさ以外の何者でもない」といった気持ちなのである」といったところでありましょうか?
 私たち人間は、意識するとしないとに関わらず、自らの明日の生に不安を感じている。
 であるが故に、私たち人間は、翌朝目覚めた時に、「自分の手足がいつも通りに動く」とか、自宅に配達された朝日新聞の第一面のトップニュースが、「この度の内閣改造に依って防衛大臣の重責を担うことになった、右翼的な言動を以て知られる某女が、今年の敗戦記念日に靖国神社への参拝を止めるだろう」などといった、どうでも宜しいような事柄に事寄せて、喜びを感じたりするのである。
 本作の作者の場合は、ある日の「朝明」に「ふと」胸中に「兆」したそうした「よしなきよろこび」に操られて、それほどにも愛し合っているわけでも無い妻女と連れ立っての朝の散歩という事態を現出させる結果となり、また、そうした馬鹿げた行動に出でたが故の寂寥感を覚える結果とは相成ったのである。


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