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臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

井上房子作『肉じゃがの歌』鑑賞(「母の歌」抄)

2016年03月17日 | ビーズのつぶやき

〇  幼くて父戦死せしわれなれば父を覚えず写し絵に知る
〇  両腕におさな児ふたりを抱く人そは父なると母の教えし
〇  幼き日こんな倖せありたるか父母に抱かれしわれと妹

 麻生短歌会の一月歌会の井上房子さん作の詠草は「如何ように読まれようとも自分史に真実つづる姑との歳月」という一首であり、歌会当日の出席者の間で侃侃諤諤たる論争が交わされましたが、それらの孰ずれもが、「この一首の主題は姑の嫁苛めの嫁側からの告白である」との読解に基づいての意見ではなかったことが、当短歌会の新入会員の私にとっては極めて奇異な現状のように思われました。
 歌会から数日経った二月半ばのこと、井上房子さんから私宛てに件の「自分史」らしき書籍が郵送されて来ましたので、私は早速一読させていただきましたが、その内容は、私の当初の予想とはかなり異なっていて、「敗戦直後の、我が国の教育制度が旧制度から新制度へと移行して行く時期に、旧制女学校と新制高校を合わせた六年間の中等教育就学期間を終了したばかりの文学少女が、東京帝国大学医学部出身の少壮医学者と結婚して、夫の母親である、気丈で口喧しく世間通である姑さんとの同居生活を通して様々に悩みながらも、やがては一人前の主婦として成長して行く物語」といったものでありました。
 上掲の三首は、井上房子さんが、一月歌会の詠草で自ら仰ったところのいわゆる「自分史」、正式題名は『温泉津のおつねさん』の巻末付録として収録された歌集・『肉じゃがの歌』の中の「母の歌」の項目に分類されている作品であるが、実質的には「父の歌」とでも言うべき内容である。
 「自分史」の記すところに拠ると、作者のご尊父・渡會陸二氏は、ご夫君・井上武夫氏と同窓の東京帝国大学医学部出身の医師であり、ご専門は内科医であったとのこと。
 上掲三首の表現及び「自分史」の記載内容から推察するに、作者のご尊父・渡會陸二氏は第二次世界大戦中に「軍医」として出征したのであるが、その後、間もなく、愛妻・壽美子さんと未だ稚けない二人の娘さんを郷里の岡山の地に残して「戦死」したのでありましょう。
 一首目の記述に拠れば、作者・井上房子さんの記憶の中には、ご尊父・渡會陸二氏の生前の姿が無く、「写し絵」即ち、生前に映した肖像写真に拠って、辛うじてその面影を知り得るのみであると言う。
 二首目の記述に見られる、「両腕におさな児ふたりを抱く人」をして、「そは父なる」と「教えし」時の作者の母・壽美子さんのお気持ちは如何ならんと、本作の読者の私には傷ましく推し測られるのであるが、その母親が亦、娘・房子さんの婚家に同居生活を強いられるに至った過程とそれ以後の井上家での生活に就いて推し測る時、この拙い鑑賞文の筆者に過ぎない私の胸底にも、いささかならざる悲しみの情が揺曳するのである。
 また、井上房子さんは、「幼き日こんな倖せありたるか」と三首目の記述で仰って居られますが、それは、井上家の嫁となって尚且つ、我が家に夫の母と実母とを引き取り、無理を承知の同居生活を為さざるを得なかった事への納得と悔恨の気持ちが綯い交ぜになった心境から発せられたものであろうと推測させるのである。


〇  五年目の結婚記念日と父のサイン父と並びて耀ける母
〇  亡き父の子ぼんのうぶり語る母暗き茶の間に声の明るし
〇  姑と母と暮らして盗み見をするごと愛を母に送りぬ
〇  献体のお役果たして母帰る父の遺影の待つ母の部屋

 今となっては遠く離れた故地・岡山での懐かしい生活を偲ぶ他ない、母と娘との現住地・川崎市南生田での人目を忍ぶような生活は果てしなく続き、母を思っての作者の短歌の内容もますますその深刻の度を増して行くばかりなのである。
 一首目に見られる「父と並びて耀ける母」とは、「五年目の結婚記念日」の写真の中の母であり、その「耀ける母」の映った写真は、今は亡き「父のサイン」と共に、たった一冊のアルバムを飾っているだけなのである。
 そのかっての「耀ける母」が、「亡き父の子ぼんのうぶり」を井上家の「暗き茶の間」で、今となってはたった一人きりとなってしまった愛娘の房子さんに「語る」時の「声は明るし」と、本作の作者は二首目の記述を通じて仰るのであるが、その時とは、井上家の他の家族の方々が不在の時の事でありましょう。
 また、「姑と母と暮らして盗み見をするごと」という三首目中の記述に拠って知られるのは、娘の婚家・井上家での肩身の狭い実母と娘との同居生活の実態であり、この作品中のこの部分の表現が極めて適切なものであるだけに、それに続く「愛を母に送りぬ」という表現の平俗さが、評者としては惜しまれてならないのである。
 四首目に「献体のお役果たして母帰る」とありますが、この一首に見られる、作者の実母・壽美子さんの献体登録は、壽美子さん自らの堅いご意志に基づいてのものであったと同時に、愛娘の夫・井上武夫氏が大学病院の教授であり、氏自らも献体登録をなさって居られるという関係からのそれとも推測されるのであるが、そうした推測の根拠をとなるのは、「父の遺影の待つ母の部屋」という、本作の下の句の存在である。


〇  車椅子に母乗せ公園巡るなりあきつあかねのわれに寄りくる
〇  日溜りまで行ってみましょうお母さん凹凸避けて車椅子押す

 井上家には、武夫氏のご母堂・ツ子さんに加えて、房子さんのご母堂・壽美子さんも同居していて、高齢者二人の食事の世話や下の世話などを含めた介護は、二人のご子息たちに手伝われながらも房子さんが中心になって行われていたとか。
 しかしながら、『自分史』の記述に拠ると、房子さんが引き受けていた高齢者二人の介護は、どちらかと言うと、より高齢であり、しかも義理の母親でもある・ツ子さんのためのそれに偏りがちになり、実母の壽美子さんの井上家に於ける存在はどうしても忘れられがちになっていたとかであり、女手一つで育てた実の娘の吾に対する扱いのあまりの冷たさに加えて、同じ高齢者でありながら、井上家四人の家族から寄って集って世話をされているツ子さんに対する嫉妬心なども重なり、実母の壽美子さんは、吾の存在を示すデモンストレーション的な振る舞いを愛娘の房子さんの前で見せたこともあったとか。
 上掲の二首は、井上家の実質的な介護士たる房子さんが、実母・壽美子さんを「車椅子」に乗せて、ご自宅周辺の「公園」などを散歩している光景に取材したものであるが、義母のツ子さんが冥途の客となったのは、昭和54年3月31日のことでありますから、それ以後で、しかも、実母の壽美子さんが80歳代に達して手足が不自由になってからは、これらの二首の表現に見られるような光景が井上家の周辺で展開されるようになったものと推測される。
 斯くして、ひとたびは女手一つで手塩に掛けて育てた娘との間の、不仲とまでは言わないけれども、それほどすっきり行っている訳では無かった、母親の壽美子さんと愛娘の房子さんと間柄は、傍目で見ても羨むような間柄にまで修復されたのであったが、そうした光り輝き、作者の房子さんにとっては永遠に凍結していて欲しいようにも思われた時間が終結を迎えたのは、房子さんが、お姑さん・ツ子さんを送って二十五年後のことでありました。
 本作の作者の実母・渡會壽美子さん、享年九十一歳。
 ご夫君・渡會陸二氏の戦死の後、次女・和子さんの婚家の梶谷家での肩身の狭い同居生活を、愛娘・和子さんの急逝に拠って已む無く終えられた後の、ご本人にとっては見ず知らずの地、神奈川県川崎市南生田での、長女・房子さんの婚家、井上家での愛娘一家とその姑とご自身との変則的な同居生活は、梶谷家でのそれ以上に窮屈で肩身の狭い生活ではあったと推測されるのでありますが、先ずは以って、天寿を全うしたと申し上げなければなりません。

〇  めぼしきは糧に替えたり残れるを生き形見とてわれにたくせり
〇  白粥にそっと辷らす寒卵時用るよと亡き母の声

 一首目は、本作の作者・井上房子さんの実母・渡會壽美子さんの生前の姿を詠んだ作であり、二首目は、実母・渡會壽美子さんの没後に、その姿を作者が偲んでの作であるが、その違いを超えて、これら両作品は共に、何かと苦労ばかり多かった母子二人の生活の実相と、母子二人心の通い合いが偲ばれるような佳作である。
〇  幼くて父戦死せしわれなれば父を覚えず写し絵に知る
〇  両腕におさな児ふたりを抱く人そは父なると母の教えし
〇  幼き日こんな倖せありたるか父母に抱かれしわれと妹


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