2011年度作品。日本映画。
不実な男を愛し、子供を身ごもった女、野々宮希和子。母となることが叶わない絶望の中、同時期に男の妻が女の子を出産したことを知る。「赤ちゃんを一目見たい、見たらけじめがつけられる…」夫婦の留守宅に忍び込み、ベビーベッドで泣いている赤ん坊を見た瞬間、希和子は思わず子供を抱えて家を飛び出していた。刹那的な逃亡を繰り返し、絶望と幸福感の中で疑似親子となった二人。しかし逃亡生活は、4年で終止符を打つ。……優しい母親だと思っていた人は、誘拐犯だった。4歳の少女の、血のつながった両親との普通の生活はこの事件によって一変する。(八日目の蝉 - goo 映画より)
監督は「孤高のメス」の成島出。
出演は井上真央、永作博美ら。
親ってのは、なるものではなく、なっていくものかもしれない。
そんなえらそうなことを、独り者の僕は考えたりする。
そう感じたのは、母なるものとは何なのか、という問いかけめいたものをこの映画から感じたからだ。
この作品の母子関係はいくらか複雑である。
主人公の恵理菜は、父親の愛人に誘拐されて、薫という名前で育てられる。
人格形成期に実の両親と引き離されたためか、警察に保護された後も、実の親ときちんとした親子関係を築くことができていない。元々実の母親はヒステリックで、感情的に行動して、相手を傷つけることもある人なので、よけい良好な関係を結ぶことができない状況にある。
「お母さん、ごめんなさい」と、母親に責められ、幼い恵理菜が謝るシーンなんかはその象徴だ。
見ていて、とってもいたたまれない気分になってしまう。つうか、重い。
こんな家族の中で暮らしていくのは、恵理菜にとって非常にしんどいのだろうな、と思ってしまう。
そんな彼女は皮肉なことに、不倫の末に相手の子どもを身ごもってしまう。
特殊な環境に育った自分が子どもをまっとうに育てられるのか、と悩むシーンがあるが、それもまた事件の残酷な爪跡なのだろう。
だが彼女らが育った環境の特殊性は、そのまま完全に悲劇と言い切ってもいいものであろうか。
それはちがうのだろう、と見ていて感じる。
なぜなら、少なくとも彼女は誘拐犯である希和子から深い愛情を受けて育ったからだ。
誘拐犯である希和子は子を産んでいないこともあり、最初のうちは母親としても未熟で、手馴れていない。
おっぱいをあげようとしてももちろん出ないし、子育ての現実に、途方に暮れているように見える場面もいくつかある。
それでも彼女は、さらった娘である恵理菜=薫に、本当の母親のような愛情を注いでいく。
そしていっぱいきれいなものを薫に見せようと決意し、生活を築いていこうとする。
そんな希和子の愛情を受けて、薫も希和子を愛していくことになる。
それは非常に暖かい関係だ。倫理的な是非はさておき、希和子は母親になり、薫は確かに彼女の娘になっていたのだろう。
けれど、そんな関係が続くわけないことは、冒頭の裁判シーンですでに示されている。
それだけに二人の愛情が深くなればなるほど、見ていてとっても悲しい気分になってしまう。
誘拐から数年後、薫=恵理菜は結果的に希和子と離れ離れになる。
だけど、別れたからと言って、それですべてが終わってしまうわけではないのだ。
恵理菜の中には、誘拐犯とは言え、希和子に愛された記憶があり、その愛情から何かを受け取っている。
少なくとも、恵理菜は希和子が自分にしてくれたように、きれいなものを自分の子どもに見せていくことはまちがいない。
親子は(血のつながりはともかく)そのようなつながっていたという記憶を、生活などの関係性を通し、倫理を超えて、否応なくつないでいくものなのかもしれない。
いろいろまとまりなく書いたが、個人的にはかなり好みの作品である。
二人の女優の演技も本当にすばらしく(特に永作博美は圧巻)、物語世界にぐいぐいと引き寄せられる。
内容はヘビーだが、心ゆさぶられる作品であった。
評価:★★★★★(満点は★★★★★)
原作の感想
角田光代『八日目の蝉』
出演者の関連作品感想
・永作博美出演作
「空中庭園」
「好きだ、」
「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」
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