タミアのおもしろ日記

食文化・食育のお役立ちの話題、トンデモ食育、都市伝説、フードファディズムなどを分析して解説します!(^.^)

かまどの歴史と「エンザロ村のかまど」感動秘話

2016年06月04日 | Weblog
6月1日の日経朝刊文化面で、日本人女性岸田袈裟さん(1943~2010)の功績が紹介されました。彼女はケニアのエンザロ村の暮らしを大幅に改善し、その活躍は福音館のドキュメンタリー絵本「エンザロ村のかまど」にも描かれました。実は、彼女の指導の背景には、多くの人に知られてない、更に大きな感動ストーリーがあるのです。本日は、その驚きの壮大な実話をご紹介します。

袈裟さんは、エンザロ村で様々な生活改善指導をしましたが、中でも特に地元の人に歓迎されたのが新しいかまどでした。それまで村では石を3つ並べて、その中で火をおこすことで煮炊きしていたのですが、袈裟さんはレンガと粘土で、熱効率の良いかまどを自作出来ることを教えました。そのレンガのかまどだと、たきぎも少なくて済むし、手早く調理できるし、腰をかがめなくて済むし、熱殺菌した安全な水が飲めるようになりました。

このかまど、袈裟さんは生前、自分の生まれ育った岩手県遠野のかまどを見てヒントを得たと述べたのですが、実は、彼女の子ども時代のかまどは、日本の伝統かまどに西洋式の「あるアイデア」を組み込んだ和洋折衷式かまど、「改良かまど」という物だったのです。しかもその改良かまどが日本に爆発的に広まった背景には、なんとアメリカのGHQ(詳しくは前回のブログをご覧下さい。)が関係しているのです。なんでGHQが?という説明は後半に置くとして、まずは「改良かまど」について簡単に説明させてください。

袈裟さんが7~12歳(昭和25~30年)の頃に、レンガ製の「改良かまど」は日本の農村で大ブームを巻き起こし、それまでの粘土製の伝統的かまどから置き換わりました。改良かまどは熱効率が良いのでたきぎが少なくて済む、つまり山林の自然保護に役立つ上に家計も大助かりです。しかも煙が少ないので女性の眼病予防に役立ち、煮炊きも早いし、それまでの立ったりしゃがんだりを繰り返す作業から女性達を解放し、家事を大幅に楽にしたのです。その結果、改良かまどは女性差別にあえいでいた農村女性の心にも希望の火をともし、多くの女性達が「暮らしを改善してよりよい家庭を、地域を作ろう」と心に誓い、女性の力が農村で発揮されるようになったのです。そう、ちょうどエンザロ村の人と同じようなことが、この日本でも昔、起こっていたのです!

しかし、この「改良かまど」がブームになるまでには、大変な苦難の連続があったのです。しかも、そこには米国から日本に伝わった「女性の地位向上」という新しい思想が関係しているのです。その解説のため、まず、かまどの簡単な歴史からお話しします。

一説によれば、かまどは石器時代からあったとも言われています。火の上に鍋を置く(つるす)のが「いろり」ですが、これだと早く煮えず、強風で火が消えるなどの欠点もあり、そこから、三方を石や泥で囲う「かまど」が誕生したと考えられています(昭和33年、居関久男著「農家向き改良かまど」より)。その後、煙が眼病や肺病の原因になるためか、一時的に煙突がつけられます。地下に設置して、家の外に排煙する仕組みでした。しかし、なぜか煙突は衰退し、その後中世から昭和半ばまでの日本のかまどは煙突がなかったのです。そして原始的な形、つまり、
(1)地べたにしゃがんで火をくべる。
(2)一つの焚き口(たきぐち)で一つの釜(または鍋)しか温められない。
(3)煙突やロストル(火格子)がない。
という基本的構造のまま、外側の粘土の覆い部分が立方体だったり丸かったりという外見の差だけの違いで明治を迎えます。ちなみに、江戸では四角いコンパクトタイプの「へっつい」というかまどが、関西では大型の「くど」というかまどが広まりましたが、基本構造は一緒です。唯一の例外として、江戸時代(文化14年、1817年)に発刊された「農具便利論」の中で、畿内で「一つの焚き口で二つの釜を炊ける」かまどが用いられた事例が紹介されていますが、このアイデアは広域に広まらなかったようです。

さて、明治時代になると、海外の文物が日本に大量に紹介され、だいたい1900年ごろ(明治30年代ごろ)までには中部以西で「西洋くど」というかまどが広まりました。これらは西洋式にロストルと煙突を持ち、一つの焚き口で炊けば、煙がとなりの釜をあたためる構造でした。高さについては、私が調べた限り2つしか文献がなかったのですが、どちらもかがみ込んで使う高さでしたので、西洋のかまどをそのまま日本に持ち込んだのではなく、洋風の「立って使う」発想だけは棄却したと考えられます。西洋くどは栃木県の1村の例外を除けば関東以北には広まりませんでしたし、西日本でも農村部は古いかまどのままでした。なお、群馬県の船津伝次平氏は明治22年にかまどの改良を思い立ち案を提示しましたが、これも広く普及するには至らなかったようです。

その後日本は第二次世界大戦、そして終戦を迎えます。ここから、話は思いがけない方向に展開するのです。

日本に来たGHQは、農村の暮らしの悲惨さ、特に女性の地位の低さに驚きました。戦前には「嫁は角のない牛」という言葉まであったように、お嫁さんは乏しい食料に冷たい布団で寝かされ、窓もない北向きの真っ暗な台所でススまみれになって働いていました。衛生面でも厳しい状況で、田畑で働きつつ育児もして、その上自由に自分の考えを言うことも出来なかったのです。うかつに物を言えば「女のくせに」という激しい叱責が待っていました。GHQは農林省に対して、農村の民主化(この言葉は、当時は女性の地位向上の意味も込められた表現です。)のために生活改善をすべきだが、その方法は日本政府の考えにゆだねると伝えました。

早速農林省は昭和23年に生活改善課を設置し、有識者懇談会を開きました。その中に居たのが、考現学で有名な今和次郎氏らです。今氏は戦前から東北地方の農村生活の厳しさを見つめ、生活改善に尽力した人物です。また、農林省は各都道府県に生活改良普及員(当時は「生改さん」という愛称で呼ばれたので、ここでもこの愛称を使います。)を置きました。
生改さんたちは家政学科などを出た、当時としてはエリート女性達です。そして農家を一軒一軒回って、女性達から暮らしの悩みなどを聞き取ったのです。農林省職員は今氏ら有識者および生改さんらと話し合い、衣食住の様々な面で農村女性を手助けしなければならないことを確認します。でも、あまりに問題がありすぎて、どこから手をつければいいのか分からないほどでした。生改さんは手探りで農村女性達と問題解決に当たりましたが1,2年もするうちに、「かまどの改善」が女性はもちろんのこと、家族全員に喜ばれることが分かって来ました。それはなぜか?

戦争と敗戦後の混乱で日本中が物資不足になっており、山の木はたきぎにするため、山が丸裸になることも多く、たきぎが高騰していたのです。かまどを改善すれば、たきぎの消費量が抑えられるので家計が大助かりという訳です。伐採を放置すれば山崩れや洪水にもなりかねず、国策としてもたきぎ消費の抑制は緊急課題でした。
また、かまどに煙突がなかったので煙で眼病を患う女性が多く居ました、更に、火にたきぎをくべるにも、食材を切って鍋に入れるにも、いちいち立ったりしゃがんだりの繰り返しで身体が疲れるのです。そのうえ、伝統かまどは壊れやすい粘土製でした。

西洋式に
(1)立って使える高さにする(できればそばに調理台を作ってそれも同じ高さにする)。
(2)一つの焚き口で複数の釜を温められる。
(3)煙突やロストルなどをつける。
(4)壊れやすい粘土ではなく、レンガを用いる。
などのアイデアを取り入れたかまどを導入すれば、これらすべての問題が解決されるのです。とはいえ、西洋のかまどをそのまま日本に持ち込んでも、うまくいくとは限りません。

そこで、早速農林省と生改さんは、西洋式のアイデアをとり入れつつ日本人に適した「自分で作れるかまど」の研究と普及に力を入れ始めました。農林省では今和次郎氏の弟子の竹内芳太郎氏が研究に当たりましたが、民間でもこの問題に関心を持ち、独自に改良かまどを考案する人達が現れたので、農林省と生改さん達はそうした方々ともネットワークを築き、科学的根拠に基づき熱効率が良く農家女性が本当に助かるかまどを広めようとしたのです。
最初はいやがる農家さんもいました。かまどには神様が付いているので、改修すると罰が当たるというのです。例えば家族全員が呪われて死ぬと信じている村もあったほどです。それでも、改善してみた家では、罰が当たるどころか、家計も大助かり、眼病が治って病院代も減り、料理の手間も減りました。
これがだんだん噂となって、昭和28.9年頃にかまど改善は空前の大ブームとなりました。「隣がやるならウチも」という気持ちに火が付いたのです。ブームは昭和30年代初頭まで続きました。あまりに人気になったので、「うちの嫁さんは今までは、いじめられても煙に隠れて泣いていたが、煙の出ないかまどじゃ、こっそり涙を流せる場所がなくなってかわいそうだ。」という、いいがかりのような文句が生じたと言われますが、言うまでも無く、お嫁さんが煙に隠れてこっそり泣かなければならなかった農村の女性差別の方が、よっぽど問題があります。

それに、生改さんの仕事は単に便利な道具を教えるだけが目的ではなかったのです。迷信や因習に囚われて「かまどは立ったりしゃがんだりの繰り返しで、疲れるのが当然なんだ。」と思い込んでいた女性達に、設計図を見せて、科学的思考に基づけば手作りでかまどが作れることを教えることで、因習に囚われずに自分たちで考えて力を合わせて行動すれば、辛い問題も乗り越えられる、女性の地位も向上して農村が民主化する、と伝えるのが真の目的だったと言われます。このような尊い願いが改良かまどには込められていたのです。

袈裟さんの育った岩手県で生改さんが活動を開始したのは昭和25年です。したがって、袈裟さんの家のかまどが改良かまどに置き換わったのは、袈裟さんの7歳から12,3歳ごろの間と考えられます。古いかまどが新しいかまどに置き換わり、お母さん達の仕事が楽になって感激する姿を、袈裟さんもきっと目を輝かして見ていたことでしょう。おそらくこの時の経験が、その後のケニアでの指導の原動力になったのではないかと思われます。

なお、日本ではかまど改善の重要点とされた「煙突」の導入ですが、袈裟さんがエンザロ村で指導したかまどは煙突が付いていません。おそらく日本とエンザロ村では気候が違うことが関係しているのでしょう。日本は湿気が多くて、たきぎが完全にには乾燥しにくいので煙が目に染みるのですが、エンザロ村はサバンナ気候なのでたきぎが自然乾燥しやすく、煙が苦になりにくいと考えられます。このように、生活改善は地域地域に合わせた柔軟な指導が必要です。

日本の文化に西洋のアイデアを組み合わせた「改良かまど」、それをさらにケニアに合うように改良した袈裟さん。GHQが日本の女性の幸せのために生活改善を薦めたことが、めぐりめぐって袈裟さんに影響を与え、ケニアへの貢献につながった、その奇跡のような真心の連鎖に思いをはせずには居られません。

注:文中に示した以外の参考文献として、農林省農業改良局生活改善課編集竹内芳太郎執筆「かまど改善の手引き」昭和29年、協同農業普及事業五十周年記念会,「普及事業の五十年」平成10年、農林省「図説農家の生活改善」昭和29年、「クロスロード増刊号 途上国ニッポンの知恵」平成22年、黒石いずみ「東北の震災復興と今和次郎」平成27年、そのほか関係者から直接お伺いしたお話などを参考にしました。

修正のご案内:6月5日、第4段落の「伝統的かまどに」を「伝統的かまどから」に修正いたしました。
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