タミアのおもしろ日記

食文化・食育のお役立ちの話題、トンデモ食育、都市伝説、フードファディズムなどを分析して解説します!(^.^)

和食に牛乳は意外に合いますよ。

2018年08月22日 | Weblog
最近「お米に牛乳は合わないから、学校の米飯給食で牛乳を一緒に出すのは反対!」と唱える人がしばしばいるのでびっくりしますが、仏教説話であまりにも有名な「スジャータさんのミルクかゆ」などのように牛乳がゆは美味しいですし、和食の味噌汁に牛乳(またはチーズ)を少量加えてもコクが出て美味しいですよ。和食やお米と牛乳は実は良く合いますので、「乳和食」レシピを検索してぜひ試してほしいものです。米飯給食で牛乳を追放しようと唱えている人は、多分、先入観と思い込みで牛乳は味が合わないと勘違いしているのでしょう。

「和食の伝統文化として牛乳は使用しちゃだめ!」と唱える方は、大トロの寿司や白菜や肉じゃがなども食べられない事になりますね。明治時代から大衆の食事に広まりだした白菜や牛肉は現代の和食で使用できるのに、牛乳だけはだめだとは奇妙なことです。和の文化が大切だと唱える人たちこそ、和文化に不可欠な仏教の「スジャータさんのミルク粥」や「醍醐(乳製品の味のことであり、かつ仏教の最高真理をも指す言葉です。)」等の必修語を通じて、お米と牛乳の相性の良さを知ってほしいものです。

昭和56年(西暦1981年)に、「おれたちひょうきん族」というテレビ番組が大流行し、中でもビートたけしさんが演じる「たけちゃんマン」というコミカルなヒーローは子供たちに絶大な人気となりました。そのころ豊岡弘子さんが学校給食向けに開発した「ミルクファイバーライス」(麦を混ぜた白米を牛乳で炊いたご飯。野菜や貝などを炊き込むバリエーションもある。)は、非常に子供たちに評判が良かったことから通称「たけちゃんマンライス」と呼ばれるようになりました。もしかしたら豊岡さんはスジャータさんの説話を知っていてお米を牛乳で炊いて見たのかもしれません。このミルクファイバーライスに味噌汁と肉じゃが等をつければ立派に和食ですよね。お米や和食と牛乳の組み合わせはこのように相性が良いのです。

牛乳だけではなく、乳製品も和食に合います。例えば炊きたてご飯にチーズやバターを載せて醤油をかけると美味しいですよ!!魚のバターソテーや鮭のマヨネーズ焼きは和食のおかずとしても定番ですね。

「学校給食で牛乳を出すのは反対」と唱える人は、「味が合わない」の他にはこう語っていました。「牛乳を飲むと他のおかずを食べない。(えっ?そんな珍しい子供は何パーセントいるの?。)」「牛乳を飲むと脂肪分を取り過ぎる。(それは単純な誤解です。学校給食は栄養士さんが子供たちの体に必要な脂肪分を量って献立を作っているので取り過ぎにはなりません。)」と。子供たちの大多数は学校給食の牛乳で特段困っていないのに、一部の大人が単純な思い込みに基づく奇妙な説を唱えているので、かえって子供たちや給食を作っている方々が困惑しているかもしれません。本当に子供たちの事を考えていれば・・・と思います。

「美味しくて食物繊維もとれる」と大人気を呼び、テレビや新聞が盛んに紹介したミルクファイバーライスは、しかしなぜか全国の小中学校に幅広く定着することはなく、家庭料理にも定着せず、今では「一部の人々の懐かしい思い出の学校給食」となりました。私の記憶では、当時の大人たちは「たけちゃんマン」キャラクターは下品で子供に薦められないと考える人が多く、意識高い系の親御さんだと「うちの子には絶対見せない!」と息巻くため、「うちでは見られないんだ・・・」と泣いているクラスメイトもいた位でしたので、「たけちゃんマンライス」の愛称で呼ばれる給食メニューに拒否感を示す学区や先生、大人たちも多かったのでは無いかと想像します。もしもそれが原因だったとすれば、大人たちが単純な思い込みでは無くて、本当に子供たちのことを考えていれば美味しくて食物繊維豊富なご飯が広まったのになあ・・・と思うのです。

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オウム事件で考える「健康に良くても理論が変!」問題。

2018年08月22日 | Weblog
7月6日と26日にオウム真理教死刑囚の死刑が執行され、改めてオウム事件の恐ろしさがクローズアップされています。一連の事件では大勢の方々がお亡くなりになったり今も後遺症で苦しんでいます。命を落とされた被害者の方々のご冥福をお祈りするとともに、後遺症を持つ方々への公的・民間支援の充実、回復・治療法の研究発展などを心より願っています。もしも運命の歯車が一つ間違っていたら、たまたま自分や家族があの電車に乗っていたり、友人や家族が入信していた可能性があり、決して他人事ではないという読者の方も多いのではないでしょうか。

このような恐ろしい事件は再発してはなりません。今回このブログでは、健康情報について論理的に考えることがカルト拡散防止にも役立つということをお話したいと思います。なぜなら、カルトはしばしば「健康に良い」という話を餌にして信者を食い物にするからです。なお、この文章ではヨガと断食を取り上げますが決してヨガや断食がカルトだという意味ではありません。これらをやっている人々のほとんどは良心的な人ですし上手に使えば健康に役立つのですが、そういうものでさえも情報の変容によって悪用されてしまったケーススタディを通じて、私たち一人一人が基本的教養を身につけることの重要性をお伝えしたいのです。

(また、この文章で言う「カルト」とは犯罪を伴う組織のことです。このブログは占いや宗教を否定しません。社会に迷惑を与えたり健康を害したりしない範囲であれば、占いや宗教は個人の自由です。このブログで注意喚起しているのは、「科学や伝統を装っているが事実ではない説」が食育などで広まりつつある問題です。このような説が公教育などを通じて広まった結果、健康を害したり、科学・医学・栄養学の基本を理解できなくなったり、日本の伝統文化の継承が困難になったりすることを懸念しているのです。)

さて、前置きが長くなってすみませんが、カルト防止のために最初に考えたいことですが、マスコミがオウム事件を報道する際に、冒頭にある「定型文」を持ってくることに気づいている方も多いと思います。その定型文とは、「なぜ高学歴エリートが凶悪犯罪を犯したのか」です。そして、このイントロに続いて様々な論旨を繰り広げる報道が非常に多く、それぞれ読ませる文章が多いのですが、中でも、私個人としては、日本経済新聞社の7月10日社会面でロバート・キャンベル先生が指摘した内容が、簡潔にして真に迫っていると思います。いわく、犯行に走ったのは「専門知識はあるが教養を欠いた若者たち」だった、と。また、たしか10年くらい前だったと思いますが、養老孟司先生がご著書でこんな経験談を書いていたのを思い出します。'80年代の東大キャンパスで「麻原はボンベ等一切道具なしで水中に40分間潜ってられる」と真顔で言う東大生に出会ったというのです。養老先生は、彼らは成績は良いのだろうが基本的な常識が欠けていると思ったそうです。

科学(医学や栄養学なども含めて)を極めるためには「常識を疑う」のは非常に重要なのですが、一方で、疑わなくてもいい常識もあります。例えば日常生活で「北半球で、明日、西から昇ったお日様が東に沈んだらどうしよう」と考えるのは、あまりにも情けない。もしも誰かが「私の念力で、明日の日本では西からお日様が昇ります。」と言ったら「ああ、この人はどうかしちゃったな。」と思える力、こういうのはもう、最低限の教養の一つの形でしょう。人間は超能力で空中浮揚しないし道具なしでは水中で40分間潜ってられない、そんなんできたら手品かなんかでしょう、というのも非常にベーシックな教養の一つです。

そして、私がこれからの社会を生きていく上で欠かせない基本的教養の一つとしてぜひ提案したいのは、「その方法が本当に健康に良いとしても、その理論が正しいかどうかは検証しないと分からない。」という考え方を常に忘れないことです。と、書いても説明がないとなんのことか分かりませんね。そこでヨガと断食を例に説明をします。

オウムはもともと1984年にヨガ教室として出発しました。多くの会員は、そこで今まで悩まされた肩こりや腰痛が楽になったり気持ちが落ち着く、という経験をしました。ヨガを通じたこうした現象は、呼吸を整えたり筋肉の曲げ伸ばしなどを通じて自律神経が整ったり血行が良くなったりしたからだと生理学的に解釈されますが、麻原らは、ヨガには現代科学を超越した不思議なパワーがあるからであり、さらに修行を積むと科学では説明できない超能力だって身につけられる、と吹き込んだのです。今までどこの病院に行っても解決しなかった肩こりや不定愁訴などに悩まされていた人々は、この麻原らの唱えるおかしな理論を本当のことだと信じ込んでしまって・・・・あとはずるずると泥沼になっていったのです。

ご存じ無い方も多いのですが、ヨガは本来はインドにおける「宗教的修行の方法」なので「健康法にもなるというのは副作用にすぎない。」(出典:ジャーナリスト山根一眞先生の論文「蘇るインドの伝統医学アーユルヴェーダ」1981年9月、雑誌NIRA掲載)のです。しかし「理屈はともかくヨガは健康に良い」と経験的に知った人々が注目し、日本ではヨガは健康法として広まりました。1959年から'61年に人気を集めたニュース番組「話題の目」でも、ヨガは目新しい「療法」として紹介されました。番組では日本国内のどこかで教室が開催された様子が映っています。その後は、一部の人々のマニアックな健康法としてじわじわ広まり、やがては大人から子供まで「やったことはないけど名前ぐらいは知っている健康法」となりました。そこで1980年代に、健康道場と信じてオウム主催のヨガ教室に入った人たちが、「実はヨガはインドでは健康法というより修行の1種なのです」と(ここまでは事実。)と教えられて、そして次第に、麻原独自の奇妙な超能力理論を吹き込まれて、信じてしまったのです。

今世紀以降、ヨガはインドの宗教的修行の1種であるという情報も再び知られつつあります。私は10数年前にあるスポーツジムに通っていましたが、その施設の中にエアロビやヒップホップ教室と併設でヨガ教室がありました。最初は単に健康に良いなあという感じで通っていたのですが、やがてその先生が、「このポーズはなんとかのチャクラを開いて、大気中の氣のパワーを体内に吸収するので体に良いのです。」と言い始めました。やがて回を重ねるごとに先生の解説は、人間の体内にあると予想される未確認臓器と大宇宙が交信している、というスケールの壮大な話に広まっていき、ある日「私はインドの尊師○○○先生の教えを請うために修行の旅に出ます」と言って代理の講師によるレッスンとなりました。「インドで真に太陽のパワーを身につけたい・・・・」と真顔でおっしゃる先生の姿を見て、私を含めて2,3人の会員はドン引きになって、教室を退会しました。

誰もまだ発見してないその臓器が実在してしかも宇宙と交信している、と、どうして先生は信じるに至ったのか。お師匠筋から言われるまま、それを信じることが教養だと先生は錯覚していたのです。「新しい情報を耳にした時、それを今までに身につけた知識と参照し、その情報の妥当性がどの程度程度あるかをざっくり考える。」これは少なくともギリシャ・ローマ時代からすでに西洋では論理学上の重要な教養の一つでしたが、そういう教養が、先生には不足していたのです。インドに行ったその先その先生がどうなったか誰も知りません。

これを他人の事として私たちは笑えるでしょうか?私は今まで軽く千を超える食育関係の本・雑誌・紙やネットの記事・ブログを見てきましたが、しばしば、「たしかにそれは健康に良いことは確認されているけど、そこに書いてある理論は間違っているよね。」というケースを見ています。
 
 断食をすることで生まれ変わったようなハイな気分になることは非常に古くから知られています。これを真面目な医療に活用する医師もいます。医学的にはこうした現象は、飢餓状態などで身体的に追いつめられて、普段とは異なる意識の状態(多くの場合は暗示にかかりやすい状態)になるからだと考えられています。真面目な医師であれば、ここで「すっきりした気持ちになりましたよね。」というような良い方向での暗示をかけて、その人の前向きな力を引き出すところなのですが、オウムはこの断食による意識の変容をカルトの手法として悪用したと言われています(立命館大学の齋藤稔正名誉教授のご指摘に基づきます)。

 古来から断食や厳しい小食などは精神状態を変える作用が知られており、そこには神秘的な叡智に近づけるなにかがあると信じられたので、古代インドでも修行方法の一つとして断食が採用されていました。そのため、皆さんご存じの、シャカ族の王子ゴータマ・シッダルーダさんは王子の座を捨てて、仲間と断食などを続けたのです。でも王子は教養があったので、「これで意識が変容しても悟りに至らないじゃん!ってゆーか、これ続けたら死んじゃうじゃん!」と「修行」の正体を見抜いたので、仲間から離れて、スジャータさんの差し出す牛乳がゆ(お米をミルクで煮た食品です。近日中に、このことについても触れる予定です。)を食べました。修行仲間は、彼を負け犬だと批判しましたが、牛乳がゆのおかげで彼は死を免れました。その後、再度瞑想をして、やっと悟りを得て仏陀になったのです。このあまりにも有名な故事も示すとおり、ある健康法や食事法が健康や精神になにかの変容を与えたとしても、その背後の理論が正しいとは限らないのです。

仏陀の経験談は現代でも通用します。ある食事法や健康法が実際に健康に有益であるとしても、その説明理論がむちゃくちゃなために奇妙なカルトに巻き込まれていく可能性がある(その証左がオウム事件。)ので、私たちは教養を土台に、奇妙な言説に惑わされないようにしなければなりません。基本となる教養を身につけ、かつ、それら情報の整合性を確認することが大切です。基本的な教養と整合性がない情報に出会った場合は、まず慎重に考える姿勢が大事です。このブログが現代の情報過多社会でのサバイバルのお役に立つことを願います。



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