タミアのおもしろ日記

食文化・食育のお役立ちの話題、トンデモ食育、都市伝説、フードファディズムなどを分析して解説します!(^.^)

コピー劣化で「和食の基本は一汁三菜」と誤解された。

2021年05月30日 | Weblog
(16時58分に投稿しましたが、わかりにくい説明部分があったので18時48分に修正しました。)
一汁三菜が和食の基本だという説は、2012年頃までに学校教育を終えた人は習っていません。なぜなら、一汁三菜が和食の基本であるという説は、2013年以降に突然日本全国に広められたからです。

あの熊倉功夫先生でさえ、2012年3月に農水省が配布した「和食―日本人の伝統的な食文化-」というテキストの「日本の伝統的食文化としての和食」のp6でこう言っています。

「和食では、いくつお菜を用意するのが一般的か、決めるのはむずかしいが、古くより一汁三菜といって、汁が一種にお菜が三種というもの言いがある。(飯と漬けものは必須でしかも数は一種に決まっているので、変化する汁と菜の数だけを表示する習慣である。)三菜でなくとも、二菜、一菜ということもあるし、ぜいたくな食事であれば五菜とか、極端な中世の本膳料理では七つの膳に二十三菜という食べきれないお菜が並べられた例もある。逆に極端に質素な場合、無菜ということもある。飯と汁と漬けものだけ、という粗食の例もかつてはいろいろなところにあった。つまり和食の一つの特徴は要素だけそろえば、お菜の内容は自由度が高い。」
(下線はわたしが引きました)

要約すると、和食のおかずの数は本来は決まっていない。一汁三菜という言い回しを和食の構成要素の説明に使うとわかりやすいが、実は一汁三菜が決まりではないので、昔は二菜や一菜やおかずのない粗食もいろいろなところにあった。」という意味です。

和食が一汁三菜だと誤解された理由は、いろいろあるんでしょうが、おそらくこの熊倉先生の2012年の文章が劣化した要素も大きいと考えます。なぜなら、この文章からほんの3年後にはなだれを打つように、新聞記事や家庭科教科書などで「和食の基本は一汁三菜」という文章が膨大な数で登場するようになったからです。国民にろくすっぽ根拠もないくせに「和食の基本」と教え込むことで、いまや和食は一汁三菜が「伝統」と誤解する人まで登場する始末です。

実は、情報のコピー劣化はブログやSNSが広まるより前から大量に出回っているのです。
例えば昭和31年の経済白書の「もはや戦後ではない」という有名な台詞は、「資源と人材を灰にする戦争が終わったんだから、経済回復したのは当然のことだ。そんな自然な経済回復期はそろそろ終わりなので、これからの経済回復は困難かも。」と心配する文脈でした。しかし前後の文章が切り取られて、高度経済成長を目指すかっこいい言葉として広まりました(論文はこちら。https://ci.nii.ac.jp/naid/120005607336 )。
白書の実物を読めば心配する文章だと分かるのに、当時の日本人は実物をチェックしないで噂話を信じていたのです。わたしも、子ども時代にこの誤情報を学校で習った世代です。

そんな誤った教育を受けたからこそ、一汁三菜を押しつける食育について心配しているのです。今の子どもたちがあと30年後に「なんでこんな誤った教育を信じてしまったのだろう。おかげで和食の歴史が台無しだ。」と泣いてしまうのが目に浮かびます。そんな未来にならないように、私たちは日本の文化を正確に次世代に伝えなければと思います。

熊倉先生が農水省で配布した文章がはっきり示す通り、「一汁三菜が和食の基本」はコピー劣化で生じた言葉です。耳に心地よい言葉に流されずよく確かめることは大事です。このブログは常にファクトチェックをして書いています。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

栄養学のせいでレシピに頼るようになった説は、時代考証の誤り

2021年05月04日 | Weblog
最近こんなでたらめな噂を聞き、あきれてしまいました。
「昔の日本人は目分量で料理を作れたのに、今はレシピがないと料理が作れない日本人が増えて情けないね、これは栄養学が原因だぜ。女子栄養大の香川綾が昭和23年に計量カップと計量スプーンなんかを発明して広めたため、レシピに頼る風潮が生まれたのさ。栄養学がみんな悪いんだ。」こんな説は時代考証の誤りです。今日は、この説のどこが誤りか説明します。

まず結論を言うと、先に升などの伝統的計量道具があり、その後でレシピに頼る風潮が広まり、最後に計量カップと計量スプーンが誕生しました。

これらの順番を詳しくひもときましょう。
その前に一言。日本の伝統料理は、家庭料理と料理人料理(いわゆる日本料理)で全く文化が異なることを覚えておいてください。(※)
 (※ 明治・大正・昭和時代に活躍した石井泰次郎先生の著書「日本料理十二ヶ月」(大正3年)を読むと、家庭料理と日本料理が全く異なることが分かります。石井先生は、代々徳川家の料理長を務めていた四条流宗家9代です。先生が著書に記した日本料理は、一般庶民には作れない格式高い料理でした。「ヤマノイモを裏ごしして寒天と食紅を混ぜて花の形に細工した料理」「鰹をすりつぶして細工したどら焼き」など、作るだけで一日が終わりそうな贅沢な料理が次々登場します。この本は国会図書館が無料公開しています。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/951294  ・・・あるブログに、石井泰次郎が日本料理を広めた頃家庭料理と日本料理は同じものだったと書いてありますが、石井先生の本を読まずに書いているのでしょう。でなければ普通の家庭が宮中と同じものを食べていたと誤解しているのでしょう。)   

家庭料理は、手の込んだものは作らないというか作れませんでした。
日本の伝統文化ではハレとケをきっちり分けることが良しとされるので普段の食事は質素でした。だから、家庭料理は、飯(米の飯や雑穀飯、大根などとのごった煮)に、煮た野菜、漬物、少量の魚などで代わり映えのないものを年がら年中食べていました。年がら年中同じようなものを作ってレパートリーが少ないから、親の手伝いをすれば自然に覚えてしまう。だから伝統的家庭料理ではレシピがありませんでした。

お祝い・行事で、餅や菓子などを作るも、基本的には、材料を量らなくても目分量で作れてしまう料理でした。餅を例に考えてください。餅米をふかし終わったらペッタンペッタンつくわけで、餅を作る時にレシピという概念自体が存在できないですね。赤飯も、小豆の量が多少多くても少なくても失敗しないものです。家庭料理の菓子も、餅に砂糖を混ぜたりするのが多かったので、祖母や母が入れていただいたいの目分量をまねすれば、うまくいく訳ですよ。

レシピが必要な物と言えば、家で大量の漬物や味噌など保存食をまとめて造る場面などです。塩を升などで量っていました。おやおや、升で量ったからレシピ至上主義が生まれた可能性も考えなければなりませんね?

さて、一方の料理人料理(明治時代に日本料理と呼ばれるようになった。)の方は食材を美しく切り、おいしく作り、風情あるように盛り付けた料理です。こういう料理はお金を取るプロの仕事なので、先輩の背中をみて必死に覚えました。こうして訓練したプロはちょっと手にしただけで量が即座に分かります。体が覚えているからです。だから職人の世界にも原則としてレシピはありませんでした。しかし一部の料理は正確な量を量る必要があり、升などを使って材料を量りました。また、江戸時代にレシピ本も販売され、「豆腐百珍」などのベストセラーも出るほど人気になりました。現在のレシピ本と比べると、分量はあまりきっちり書いてありませんが、例えば食材を煮る時の水と酒の比率などが記されていますので、レシピ本と言って良いでしょう。

つまり江戸時代の職人の計量道具が江戸時代にレシピ本を成立させ、本がベストセラーになり、レシピに頼る風潮の土台になったと考えられます。栄養学を悪人にしたい人は、こういう都合の悪い話は黙してますね。

さて、紙に書いたレシピがさらに切実になったのは、明治時代です。
まず、西洋料理を必要とする人が急速に増えたため、西洋人から教わった料理の指南本が出版されました。カレーにしろスープにしろ見たことも聞いたこともない品なのだから、何をどれくらいの量混ぜればいいのかレシピが必要でした。直に欧米人から学べる人はまれで、本で作り方を学ぶ人の方が多いから、レシピが重宝されました。

次に、明治半ばから後半に、日本料理を家庭で作れる女性は良い女性だという考えが広まり、それまで自分で料理していなかった良家の娘たちも、日本料理の知識を身につける必要に迫られました。ここで貢献したのも日本料理のレシピでした。レシピがなければ家庭では日本料理は作れなかったからです。

続き、大正時代には中産階級の女性も女学校で料理を学べるようになりました。彼女らの母や祖母は、江戸時代以来の単純な家庭料理しか知らない人ですし、当の本人たちはおいしいものは外食で食べていました。そんな彼女ら中産階級の女性が日本料理や洋食を女学校で学ぶときも、当然レシピ本が必要。卒業後も本や雑誌で、日本料理や洋食を学びました。おばあさんもお母さんも家庭料理の作り方は知っていても、日本料理の作り方を知らないのだから仕方ありません。

というわけで日本人がレシピに頼るようになったのは、江戸時代以降の出版文化が原因です。

この問題を別の角度から。
「戦前の日本人は高い能力を持っていたが戦後の日本人は能力を失った」というパターンの説は昔からありますが、この説を信じる人とって「明治・大正時代の女性はレシピ本を見なければ日本料理を作れなかった」事実は都合悪いですね。だから、第二次世界大戦後に計量スプーンが発明されたことをこじつけたり、欧米発祥の学問の栄養学を悪者にして、話をごまかしたいのですね。

でも、レシピを大切にして何が悪いの?レシピが必要なシチュエーションもあるし、必要じゃないシチュエーションもあるってだけの話ですよね?
なんでレシピを使う人が「レシピ至上主義」なんてたたかれるのか、その理由が分からないですよね。
料理が好きで様々な新しい料理に挑戦したい人がいてもいいし、料理を作るのがつらくてお惣菜を買う人がいてもいいし。それぞれの暮らしや価値観を尊重しあえばいいのではと思います。

 また、香川綾先生がなぜこのような道具を開発したのか知れば、「栄養学犯人説」は無知ゆえの恥ずかしい説と分かります。香川先生は昭和2年、病人に栄養のある料理を食べさせて健康を回復させたいと願い、そのためにまず赤堀割烹塾で料理を勉強しました。医療関係者が料理の研究をするとは、当時としては先駆的な取り組みでした。病人に適切な塩分やカロリーやビタミンを含む料理を食べてもらうには、誰が作っても失敗しないレシピを開発する必要があります。香川先生は長年の研究の末、21年後に計量カップと計量スプーンを発明しました。
 今もコロナの患者さんたちを助けようと大勢の医療関係者が汗と涙を流しています。患者には栄養の良い料理を届けなければなりません。その仕事を陰でささえているのが香川先生の発明した計量カップや計量スプーンです。医用従者の皆様へ感謝するとともに、医療の向上に向けて研究した先人たちにも感謝します。

(香川先生が計量カップ等を発明した経緯については、次の記事を参考にしました。「料理を“数字”で表現した栄養学の母 変わるキッチン(第21回)~はかる(前篇)2016.03.25(金)澁川 祐子」((https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/46415?page=3 )

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする