タミアのおもしろ日記

食文化・食育のお役立ちの話題、トンデモ食育、都市伝説、フードファディズムなどを分析して解説します!(^.^)

「はしり」は旬ではありません。

2016年10月30日 | Weblog
最近の食育や食に関する雑誌記事等では「旬の始まりの食べものを『はしり』と呼びます。」という解説がよく聞かれます。先日は大変有名な経済誌が、これもまた有名なある有機農家を取材して、この解説を記事に載せていました。ところが、はしりを旬の始まりと解説するのは、実は間違いなのです。

私は中学~高校時代に、食育先進校(当時はそういう言葉がなかったので、家庭科教育モデル校という名前で呼ばれていましたが。)でみっちり食文化に関して教え込まれたという経歴があるのですが、その時も、はっきりと「『旬』と『はしり』は別物です。旬は、経済性と栄養とおいしさを兼ねた食品ですが、はしりはこれらのどの点をとっても劣る物です。はしりの食品を『はしりもの』といいますが、はしりものは買わないのが賢明です。」と指導されました。

 はしりが旬と異なるというは、昭和期の日本の様々な書籍・雑誌等でもはっきり指摘されています。一例を挙げるならば、1958年に発行された本山荻舟先生(当時の一流の料理研究家です。)の「飲食事典」(現在は平凡社ライブラリーで入手可能。)がわかりやすいでしょう。この本の「はしりもの」の項目では、もともとは「初物」と同じ語義の言葉だったのが、やがて、旬から極端に離れてしまった食品を指す言葉に変容したという趣旨が記載されています。

それでは「初物」とはなにか、というと、同書の「初物」の項目によると、所在地に出回る季節の食物を初めて口にすることだが、すでに江戸時代に初物は禁止された、と記載されています。なぜ禁止されたかというと、施山紀男先生の「食生活の中の野菜」(養賢堂)p10によると、江戸時代の人々は初物を非常にありがたがり、そのため、慶長年間(1596~1614年)には野菜の早出し栽培が始まり、次第に各地で広まり珍重されるようになったとあります。同p80によると、ナスを油紙で囲って炭火で暖房して早出ししていたそうです。2月にナスやウリの漬け物を提供する料亭もあったほどです。つまり、江戸時代の「初物」という概念でさえ、すでに自然の季節感とは全く異なる、不自然な食品だったのです。と同時に、江戸時代には「初物を食べれば75日長生きできる」という言葉があったほど、季節外れの食品である初物こそが健康的だと思われていました。

そして、話を本山先生の本に戻すと、昭和期には「はしり」は「初物」よりもさらに季節感が外れた食品を指すことばであり、「ことごとく不味で高価で反栄養的なものと思われ、心ある人々から指弾されるにいたった。(本山荻舟氏)」ということです。それが、平成の現代では「はしりは旬の始まりを示します。」と、180度説明が逆転してしまっているので、仰天するこの頃です。

ではなぜ、近年になって「はしり」という言葉は肯定的意味で用いられるようになったのでしょうか。その点については私の調査の範囲では、はっきりした結論は出なかったのですが、一つの仮説として浮上したのは、生産者側の経営上の問題です。野菜を栽培した経験のある方なら分かると思いますが、たとえ自然に任せた有機農業であっても、旬(最盛期。)よりも前に収穫できてしまう野菜があるのです。例えば、キュウリでもなすでも、他の個体より先に実が付いてしまうようなことがあります。それが「はしり」なのですが、家庭菜園レベルではなくて大面積を栽培していると、はしりでもそれなりに沢山の量が取れますので、それをどういうキャッチコピーで販売するかは、結構深刻な問題なのです。販売する側からいうと、「旬ではなくてはしりだから、味も悪くて価値が低い」と買いたたかれるよりは、「はしりは旬のさきがけです。」という話にしておいた方が、高く売れるという訳です。

時代とともに言葉の意味は変わるとは言いますが、その変遷は必ずしも、自然に消費者側から生じるとは限りません。業界側の都合によって、言葉の意味が変更させられることもあり得ます。「時代とともに言葉は変わるのだから仕方ない。」といってばかりもいられないのでは、と思います。食に携わる方々に、「はしり」の語義について、正確な知識や歴史を後世に伝えていただければと思うこの頃です。

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グルテンフリーで米消費アップ?

2016年10月23日 | Weblog
米国での「グルテンフリー」ブームが日本でも雑誌で取り上げられて、「日本でもグルテンフリー対応食を増やすべきだ。日本でもブームになれば、米や米粉パン・米粉菓子消費が増えるだろう。」という話がささやかれます。が、それって本当なのでしょうか。

その理由をいうまえに、グルテンフリーについてざっとおさらい。
小麦の中には色々なタンパク質が含まれます。その代表格が「グルテン」というタンパク質なのですが、米国では一部のセレブなどが「グルテンは身体に悪い」という説を信じてしまい、その説をすっかり広めてしまいました。

でも、実はこの説は現在の医学的知見と、「何千年にも及ぶ人類の小麦食経験」から考えると、つじつまが合わないのです。 セリアック病という希な病気の方や、腎臓病でタンパク質を制限している方を除けば、グルテンは格別に身体に悪くもない、この世にあまたに存在する食品成分の一つに過ぎないそうです。「グルテンフリーにするために小麦を食べるのを止めたら体調が良くなった」と主張する人も、実はグルテン以外のタンパク質へのアレルギーが体調不良の原因だったという人や、オリゴ糖不耐症など別の病気だった人、そしておそらく一番多いのがプラセボ効果(ようするに気分。)の影響と考えられます。

それはそうとして、日本でグルテンフリーブームが起こればお米の粉の消費が増大するのではないか、具体的には米粉パン・ケーキ・クッキー等が増えるのではないか、との予測ですが、残念なことですが、この予想はあまり当たらないのではと想像されます。

というのも、多くの米粉パンや米粉菓子は、グルテンを添加しています。したがって、現在市販されてるこれら食品の大部分はグルテンフリー対応食品では有りません。グルテンを含まない米粉100%パンや米粉菓子は普通のパンや菓子よりも製造が難しいのです。
現在の米粉パンや米粉菓子でさえも原料価格と技術料の高さが相まって、小売り価格が高いのですが、グルテンフリー米粉パン・菓子となるとますます高価格になりますし、販路もかなり限られてしまいます。そのため、グルテンフリーが日本で流行すれば、かなりの割合の人が、安くてどのスーパーでも手軽に手に入る、トウモロコシを主原料としたシリアルやトウモロコシ系スナックなどに流れると予想されます。

しかも、日本でグルテンフリーが広まれば、日本人の心の友であるラーメン・うどん・そば(市販の通常のそばは小麦が添加されています。)・たこ焼きなども断たなければなりません。これらの食品は、パンやケーキよりもさらにグルテンフリー代用食が手に入りにくいので、グルテンフリーをするぐらいならいっそ低炭水化物ダイエットへと移行する人が多いことでしょう。それは、お米さえ食べない生活を意味します。

以上をまとめると、日本ではグルテンフリーの流行によって、一部の人はかえってお米離れする可能性があるのです。
お米の消費を増やしたいなら、やっぱり、安くて美味しいお米、という消費者ニーズを忠実に守るのが王道ではないでしょうか。

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「若者の米離れ」調査のずさん。

2016年10月19日 | Weblog
今回はかなり問題だと思います。某業界紙が一面トップで「若者の米離れが浮き彫りになった」と主張する自社街頭調査を掲載したのですが、その手法が非常にアレなので、信頼できる調査結果ではないのです。もちろん、若者の米離れがある程度起こっている可能性は否定しませんが、こういう重要な問題については、新聞社は正確な統計調査を行って議論すべきと考えます。

この街頭調査のどこが問題なのか。
まず、調査は4日間、JR新宿駅とJR渋谷駅前で20歳代男女各50人に聞いたというものですが、この時点で天を仰ぎたくなります。そもそも論として、新宿駅と渋谷駅に集まる若者って、日本の若者の平均像では有りません。食品業界では、東京の人は平均日本人とは食に関する考え方が違うとされており、平均的日本人のデータを推計したい時は、経験的に購買行動や意識が平均値に近いことが知られている札幌や静岡で調査を行います。

それに、新宿駅や渋谷駅は両方とも朝は通勤ラッシュで殺気立ってて、とても街頭調査できる状況じゃありませんので、おそらく調査したのは昼食以降の時間だったと思われます。そんな時間にここを歩いている若者の大多数は、近隣のオフィスの勤務者(つまり多忙なので普通は街頭調査に非協力的です。)、大学生、そしてヒマな人や遊び人などです。最近、平日の日中に渋谷駅を歩いた経験のある私が断言して言うのですから。仕事または遊びに忙しすぎて食事どころではない人の多そうな場所であえて調査している・・・もしかして、答えが先にありきの調査ではありませんか?

それに4日間かかってやっと100人のデータが集まったというのも謎です。あの、世界でも有数の殺人的に人間のごった返す駅前で、たった100人集めるのになんで4日掛かるのか?これはですね、つまり保守的で危機管理意識のある人ほど「あのー、調査に協力してくれませんかー?」と尋ねられると、キャッチか宗教かなんかだと思って逃げる傾向があるのですよ。特に渋谷はキャッチで有名ですから。

だから、新宿や渋谷で声をかけられて立ち止まって話を聞く時点で、その人は、キャラ的に平均的な人とは少し違うのですよ。例えば、危機管理意識の低いおっとりした人。このタイプの人は誘導的な質問をされるとその通りに答えやすい傾向があります。あるいは逆に極端な話、腹の中で「調査?暇つぶしに、適当に答えて大人をからかっちゃえ!」と考えている人が混じる可能性もあるのです。

次にこの調査の致命的問題を述べましょう。
それは「若者が米離れをしてる」と証明したいなら、同じ手法で数年ないし十数年前に調査をしておいて、それと比較しなければならないのです。ところがこの新聞の調査ではそういう比較が全くないのです!! 今回の結果だけから判断して、米離れをしていると断言しているのです。数年前やバブル期の新宿・渋谷の若者の方が、今よりも「お米なんて食べてませんよ~」と答えていたのかも知れません。

付け足しですが、調査文面にもかなり問題が。「1ヶ月どのくらいの頻度で米を自分で炊いたか」という設問がありました。繰り返しますよ、「自分で」です。で、この調査では100人中65人が家族と同居または寮住まい等だったのです。
要するに、家族や寮母さんが代わりにご飯を炊いてくれているのですから、「「ほぼ毎日」はわずか6%にとどまり、「炊かない」が62%に上った。」って記述、読者が誤解しませんか?独身の一人住まいの人にしても、コンビニおにぎりとかホカ弁とかを食べるから「自分で」炊かなくていいのです。自分で炊いたかどうかという設問は、米離れの証拠としては何ら採用出来ないデータです。

数字だけ見ているのは危ない物ですね。
なんで今、こんな調査をやったんでしょうね?
コメント (1)
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西日本では昔から納豆を食べている?

2016年10月16日 | Weblog

ある雑誌に「よく聞かれる『西日本の人は昔は納豆を食べてなかった』なんて通説はうそ。ちゃんと記録に、西日本でも古くから納豆を食べていたと書いてあります。」という趣旨の記事が載っていました。その記録というのがいつ頃のなんという文献なのか一切書いてないので、なんともモゾモゾした気持ちになるのですが、この記事、糸引き納豆と別の納豆を混同している可能性が高いのです。

今日納豆と言えば、多くの読者が想像するのは「健康に良い」と盛んに宣伝されている糸引き納豆です。確かに西日本の熊本には糸引き納豆を食べる文化があるのですが、他の西日本各県では糸引き納豆はめったに食べませんでした。例えば、1987年に発行された山口米子先生の「日本の東西「食」気質」という研究書でも、このことは指摘されています。同書p60~63によると、関西では糸引き納豆は第二次世界大戦後に広まったそうです。ちなみにこの本によると、熊本で例外的に糸引き納豆を食べていた理由については、加藤清正の逸話にちなむと伝承されているそうです。

熊本以外の西日本では、糸引き納豆は戦後広まった「新しい食品」ですが、その代わり、大徳寺納豆などの糸を引かないしょっぱい納豆や、砂糖で煮込んで作る甘納豆などが古くから存在しました。そして、ここが重要なのですが、西日本では納豆というと暗黙の内に、こうした糸を引かない納豆のことを指すことがしばしばあったのです。

私が子どもの時、テレビのバラエティ番組で、ある人気タレントさんのしくじり談が放送されていましたが、確かこの様な内容です。そのタレントさんが駆け出しだった昭和40年代ごろ、ロケで四国のある県の旅館に泊まり、「僕は朝ご飯に納豆がないと食が進まないので、納豆を必ずかけてください。」と仲居さんに頼んだら、仲居さんは「本当に納豆をかけてよろしいのですか?」と怪訝な様子になりました。翌朝、朝食に出たのは甘納豆がけの白いご飯。ショックを受けたタレントさんが「どうして甘納豆?」と仲居さんに尋ねると、逆に仲居さんの方が不思議がって「当地では納豆といえばこれのことです。これを食べたいのでしょう?」と答えたのでした。

というわけで、冒頭の雑誌の話題に戻るのですが、原稿執筆者が西日本のどの地方の文献を読んだのかは定かでないのですが、熊本の記録を読んで西日本全体がそうだったと勘違いしたのか、そうでなければおそらくその文献での納豆とは、大徳寺納豆や甘納豆などだったのでしょう。

まあ、現代人が古い文献を読む時にはこの手のミスはよくあるのです。いつかそのうち、有名な和食研究者の同じパターンの失敗談もご紹介したいと思いますが、和食文化を研究する際には細心の注意が必要だと痛感し、自戒を込めて書きました。

コメント (6)
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水伝と江戸しぐさと身土不二とツタンカーメンの豆は同根。

2016年10月09日 | Weblog
今回は変なタイトルですが、疑似科学の一種「水からの伝言」(通称「水伝」)と、歴史のねつ造である「江戸しぐさ」と、一部の食育指導者によって広められている疑似科学の「身土不二」説と、このブログで8月11日に紹介した「ツタンカーメンの豆」という都市伝説は、ある共通点が有る、ということをこれからご説明したいと思います。

その前にツタンカーメンの豆の話について第二報をお伝えします。
8月11日のブログに書いた通り、世界各地で「ツタンカーメン王墓から発見された豆の子孫」として栽培されている観賞用スイートピー(欧米ではこちらが主に栽培されている。)もしくは食用エンドウ豆(日本ではほとんどこちらが栽培されている。)は、どちらもツタンカーメン王の墓から出た豆ではないのですが、このことについて、著名な作物学者の前田和美高知大学名誉教授が2003年に「農耕の技術と文化」26号においてすでに指摘されていたのだそうです。

にも関わらず、その後この問題提起について学術的に論考した方が他にいなかったので、前田先生は2015年11月発行の著書「豆」(法政大学出版局)において、さらに詳しくこの問題をお書きになられ、「読者の批判と教示が得られれば幸い」とお書きになっているのです。日本人がいかに作り話に対して甘いかを示すエピソードと思います。

この「豆」という本に書かれた研究成果によると、カーター氏がツタンカーメン王墓で発見してイギリスに持ち帰った豆は、ヒヨコマメ、ヒラマメ、野生のメスキート、野生のエンドウ(1粒のみ)、ガラスマメ、野生のレンリソウだったということです。

一方8月11日のブログに書いたのですが、Heraldnet社がRoyal Botanic Gardens at Kew のスポークスマンRajveer Sihota氏に尋ねた所、peaに関しては"Only seven pea seeds"がツタンカーメン王墓から出たとの回答だったそうです。英語では豆をbean(楕円形や腎臓型の豆)、lentil(平たい豆)、pea(それ以外の丸い豆)等に分類するのですが、先述の前田先生の記した豆の中で英語でpeaと呼ばれるのは、ヒヨコマメ、野生のエンドウ、ガラスマメ、野生のレンリソウのみです(メスキートはbean、ヒラマメはlentilです)。

つまり、これらの情報をまとめると、王墓から見つかった7粒のpeaの中には、食用エンドウ豆は一粒もなかったのです。しかも、先のヘラルドネット社のニュースによると、この見つかった7粒の豆はキューガーデンに保管された(つまり蒔かれなかった)ので、観賞用スイートピーの方にしても食用エンドウ豆の方にしても、ツタンカーメンの王墓由来という説はあり得ないのです。

更に、日本で広まった食用エンドウ豆の方の「ツタンカーメンの豆」については、苦笑いせざるを得ないニュースがあるのです。この豆は前のブログに書いた通り、米国人のAさんが日本のある方に寄贈して、「善意の輪」で広がったのですが、この寄贈時の英語の手紙も前田先生は判読して、とんでもない事実を発見しているのです。

それはなんと・・・手紙には、寄贈した豆がツタンカーメン王墓から発見された豆だとは、書かれてなかったのです。書いてあったのは、「ツタンカーメン王墓の近く(beside)で」見つかったとの文章でした。

1980~90年代頃の日本で、「消防署の方から来ました。」といって消火器を法外な値段で売りつける悪質商法が広まり、捕まった犯人は「私は消防署から来たなんて一言も言ってませんよ。消防署の方角にある一会社から来たんです。」といいわけをしたという有名なエピソードがあります。Aさんも日本の関係者も悪気はなかったのだと思いますが、結果的には「ツタンカーメン王墓の方から来た豆です。」という、なんだか消防署の話と似ている話だったという訳です。

さて、水伝と江戸しぐさと身土不二とツタンカーメンの豆の共通点、それは、どれも全て、権威の有りそうな人々の会話や書物を通じて感動と共感の輪を広め、教育の場を介して広まったということです。どんなに感動しても、それらは全て作り話なのです。子ども達の道徳心を養ったり、科学への関心を広げたり、健康な身体を養うという目的で、嘘やでたらめを教えていいのでしょうか。サンタクロースのお話の例があるからいいではないか、と思う人も居るかもしれませんが、サンタさんは、子どもが成長する過程で、「サンタさんは人々の暖かい心の中にこそ居る物で、心の外には存在できないものだ」と悟るものです。一方水伝等は信じ込んでしまったら最後、いつまでも「事実である」として修正されない蟻地獄に陥るのです。私達は後世の人達に、嘘を事実として伝承していいのでしょうか。

嘘やでたらめを使わなくても、私たち人類には、人の心の美しさを学べる様々な歴史上のエピソードがあります。科学の不思議さを学べる様々な自然現象があります。健康を養うのに役立つ科学的な栄養バランスという概念があります。
教育の場で、嘘やでたらめを少しでも減らせるように、教育に関わる方々に、心よりお願いいたします。そのためにこのブログが少しでもお役に立つことを願っています。

10月13日追記:脱字の訂正と、文章の意図が正確に伝わるように一部修正しました。

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