タミアのおもしろ日記

食文化・食育のお役立ちの話題、トンデモ食育、都市伝説、フードファディズムなどを分析して解説します!(^.^)

「「健康食品」ウソ・ホント」をお勧め!

2016年06月25日 | Weblog
待ちに待っていた、髙橋久仁子先生の新著が出ました!上記のタイトルでブルーパックスから発売されています。一読して、「私は健康的な食事をしている」と自信を持っている人にこそ読んで欲しい本と思いました。なぜかというと、髙橋先生は「健康に良い」と言わていれる食品の多くに実は科学的根拠が乏しいこと、を綿密に調べ上げているからです。例えば特保や機能性表示食品であっても、論文と広告に乖離が有るという指摘ですから、告発本の一種とも読めます。食品業界だけではなく、広告会社やテレビ、雑誌などの今抱えている「困難な問題」が透けて見えてくる内容です。

しかも先生は、一般的に多くの人にお勧めできる食べ方を末尾の方で紹介しつつも、万人に適した「良い食品」は存在しないとも指摘しているのです。これは、よく考えれば当然のことなのですが、ついつい忘れがちな視点です。例えば、玄米などは胃腸の丈夫でない人には勧められない、という指摘などに頷きます。

群馬大学の教育学部で長年、食生活教育の視点からこの問題を指摘し続けていた先生ですが、定年退職なさってますます筆が冴えたと思います。歯に衣着せず、食品広告や現代の食の迷信にずばっと切り込んでいくので、読み進めつつ「え、ここまで書いていいの?」とドキドキハラハラします。なにしろ特定の商品名を次々挙げては、それぞれの「科学的根拠」を根底から覆すのですから。皆さんの愛飲しているあのドリンクも、皆さんが口にしているあの食品も、紹介されているかもしれませんよ。

どうしたらよりよい食品情報を消費者に提供できるのか。業界の末端に居る一人の人間として悩み苦しみながら、提案しては自滅する日々です。そして、それでも少しでも多くの消費者の方々もまた、目覚めて、声に出してくれる日が来ることを信じて模索し、いろいろな方にお話を伺い、勉強したことをブログに書き留める日々です。そうした苦しい日々の中で、この本は、心に火をともしてくれる本でもありました。


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正しい食生活とは。食の乱れとは。

2016年06月19日 | Weblog
「最近の食は乱れている。」という言葉をよく耳にします。でも、乱れているというからには当然、模範となる「正しい食」があるはずです。そこで、いろいろな人に会い、尋ね、本や論文などを調べ上げて、一つの回答がでました。
「正しい食」なんて、ない!

栄養学的に適切な食、というものがあります。でもそれは動物性食品を含むことがほとんどですので、ベジタリアンやビーガン(食はもちろんファッションでも羊毛や皮革を使用しないなど、徹底して動物由来の物を避ける人。)にとって受け入れがたいものだったりします。

一方、ベジタリアンやビーガン向けの食事は、トマトやジャガイモやミカンなどを含むのでマクロビオティックの人には受け入れがたいものです(マクロビには様々なパターンがありますが、基本的には、トマトやジャガイモやミカンは身土不二に反するので身体に悪い、とされています)。

ではマクロビは正しい食なのかというと、「古来からの日本の伝統食こそが正しいのだ」という人からの目線では、間違っている食と目されています。日本の伝統食では鰹だしや魚や鳥肉(江戸時代には野鳥などを食べていました)、鯨肉などを食べているからです。

そこで、「日本の伝統食が正しい」という人に 「伝統食ってどういうものですか?」と尋ねると、人や時代や地域によって千差万別であり、また、本膳料理だの精進料理だの会席料理だの懐石料理だのの中でも更にそれぞれ派閥があり、それぞれ違うことを言っているのだからたまりません。ちなみに、私のご先祖の伝統食は、麦飯に漬け物、たまに魚、というものでしたが、先祖が特別に貧しかったわけではなく、その地域は皆そういう食生活でした。ご先祖に「一汁三菜が和食の基本ですか?」とインタビューできたら、きっと「そんな馬鹿な。」と笑われることでしょう。

最近「昭和50年代の食生活が正しい」と唱える人が散見されますが、当時の食事はカレーライスやラーメンや餃子が頻繁に食卓に並んだので、江戸時代の人が見たら「なんだこりゃ!?これが日本の食べものか?」ですね。

「現代の食は乱れているので子ども達に正しい食育を!」と唱える方にインタビューしたり、「正しい食」を薦める本をいろいろと読みましたが、結局、多くの場合、自分の好きな食を「正しい食」と呼び、何となく嫌いな食を「乱れている」と呼ぶ傾向があるとわかりました。

10数年前に、「日本人の食生活が過去よりも乱れつつあることを証明した」と主張する社会学の本が大評判になりましたが、そこではパン食が悪い食とされていました。そもそも論として本当に「パン=食の乱れ」なのか、きちんとした議論のないまま、大勢の学者さんがこの本を受け入れてしまい、「現代の食が過去より乱れつつあることが証明された。」という話が定着してしまいましたので、群集心理というのは恐ろしいものです。その本についてある有名評論家が、"調査手法に重大な誤りがあるので学術的に信頼できる内容ではない"と書評で指摘したにもかかわらず!
なにしろその本で採用した調査法とは、毎日3食の写真を撮影して、頻繁に研究者と面談するという方法なので、そのような調査に協力したいと思う回答者には、メンタリティや職業など様々な面で偏りが生じるのです。だから、この本に登場した被験者の食事が、本当に日本人の平均的な食事サンプルだとは思われません。ましてや、同じ手法で昭和や平成初期にも調査して比較した訳ではないのですから、これではこのような主張を鵜呑みにする訳にはいきませんよね。

食育の本や講演会で、「栄養学的見地から」とか「〇〇県の伝統食を保存したい立場からは」等、著者(講演者)のスタンドポイントを明確にして「現代の食はこれこれの面で問題がある」と唱えるならば、伺う価値があると思います。しかし多くの食育の本や講演会では、自分のスタンドポイントを言わずに、ひたすら「現代の食は乱れている。本当に正しい食はコレコレです。」と消費者の不安を煽動して、「何か」を売り込もうとするケースが多く、しかもそういう話に限って一部の方々が熱狂的に支持するので、なんともやりきれません。煽られて「何か」を買わされているということにも気がつかず。

栄養学的に適切な食もあれば、ビーガンにとって正しい食もある、〇〇県の郷土料理として正しい料理もあるし、縄文時代の日本食というのもある、でも、ありとあらゆる面で万人にとって正しい食、というものは、現実には存在しないのです。それは、ファンタジーの世界の中にだけ存在するものなのです。

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かまどの歴史と「エンザロ村のかまど」感動秘話

2016年06月04日 | Weblog
6月1日の日経朝刊文化面で、日本人女性岸田袈裟さん(1943~2010)の功績が紹介されました。彼女はケニアのエンザロ村の暮らしを大幅に改善し、その活躍は福音館のドキュメンタリー絵本「エンザロ村のかまど」にも描かれました。実は、彼女の指導の背景には、多くの人に知られてない、更に大きな感動ストーリーがあるのです。本日は、その驚きの壮大な実話をご紹介します。

袈裟さんは、エンザロ村で様々な生活改善指導をしましたが、中でも特に地元の人に歓迎されたのが新しいかまどでした。それまで村では石を3つ並べて、その中で火をおこすことで煮炊きしていたのですが、袈裟さんはレンガと粘土で、熱効率の良いかまどを自作出来ることを教えました。そのレンガのかまどだと、たきぎも少なくて済むし、手早く調理できるし、腰をかがめなくて済むし、熱殺菌した安全な水が飲めるようになりました。

このかまど、袈裟さんは生前、自分の生まれ育った岩手県遠野のかまどを見てヒントを得たと述べたのですが、実は、彼女の子ども時代のかまどは、日本の伝統かまどに西洋式の「あるアイデア」を組み込んだ和洋折衷式かまど、「改良かまど」という物だったのです。しかもその改良かまどが日本に爆発的に広まった背景には、なんとアメリカのGHQ(詳しくは前回のブログをご覧下さい。)が関係しているのです。なんでGHQが?という説明は後半に置くとして、まずは「改良かまど」について簡単に説明させてください。

袈裟さんが7~12歳(昭和25~30年)の頃に、レンガ製の「改良かまど」は日本の農村で大ブームを巻き起こし、それまでの粘土製の伝統的かまどから置き換わりました。改良かまどは熱効率が良いのでたきぎが少なくて済む、つまり山林の自然保護に役立つ上に家計も大助かりです。しかも煙が少ないので女性の眼病予防に役立ち、煮炊きも早いし、それまでの立ったりしゃがんだりを繰り返す作業から女性達を解放し、家事を大幅に楽にしたのです。その結果、改良かまどは女性差別にあえいでいた農村女性の心にも希望の火をともし、多くの女性達が「暮らしを改善してよりよい家庭を、地域を作ろう」と心に誓い、女性の力が農村で発揮されるようになったのです。そう、ちょうどエンザロ村の人と同じようなことが、この日本でも昔、起こっていたのです!

しかし、この「改良かまど」がブームになるまでには、大変な苦難の連続があったのです。しかも、そこには米国から日本に伝わった「女性の地位向上」という新しい思想が関係しているのです。その解説のため、まず、かまどの簡単な歴史からお話しします。

一説によれば、かまどは石器時代からあったとも言われています。火の上に鍋を置く(つるす)のが「いろり」ですが、これだと早く煮えず、強風で火が消えるなどの欠点もあり、そこから、三方を石や泥で囲う「かまど」が誕生したと考えられています(昭和33年、居関久男著「農家向き改良かまど」より)。その後、煙が眼病や肺病の原因になるためか、一時的に煙突がつけられます。地下に設置して、家の外に排煙する仕組みでした。しかし、なぜか煙突は衰退し、その後中世から昭和半ばまでの日本のかまどは煙突がなかったのです。そして原始的な形、つまり、
(1)地べたにしゃがんで火をくべる。
(2)一つの焚き口(たきぐち)で一つの釜(または鍋)しか温められない。
(3)煙突やロストル(火格子)がない。
という基本的構造のまま、外側の粘土の覆い部分が立方体だったり丸かったりという外見の差だけの違いで明治を迎えます。ちなみに、江戸では四角いコンパクトタイプの「へっつい」というかまどが、関西では大型の「くど」というかまどが広まりましたが、基本構造は一緒です。唯一の例外として、江戸時代(文化14年、1817年)に発刊された「農具便利論」の中で、畿内で「一つの焚き口で二つの釜を炊ける」かまどが用いられた事例が紹介されていますが、このアイデアは広域に広まらなかったようです。

さて、明治時代になると、海外の文物が日本に大量に紹介され、だいたい1900年ごろ(明治30年代ごろ)までには中部以西で「西洋くど」というかまどが広まりました。これらは西洋式にロストルと煙突を持ち、一つの焚き口で炊けば、煙がとなりの釜をあたためる構造でした。高さについては、私が調べた限り2つしか文献がなかったのですが、どちらもかがみ込んで使う高さでしたので、西洋のかまどをそのまま日本に持ち込んだのではなく、洋風の「立って使う」発想だけは棄却したと考えられます。西洋くどは栃木県の1村の例外を除けば関東以北には広まりませんでしたし、西日本でも農村部は古いかまどのままでした。なお、群馬県の船津伝次平氏は明治22年にかまどの改良を思い立ち案を提示しましたが、これも広く普及するには至らなかったようです。

その後日本は第二次世界大戦、そして終戦を迎えます。ここから、話は思いがけない方向に展開するのです。

日本に来たGHQは、農村の暮らしの悲惨さ、特に女性の地位の低さに驚きました。戦前には「嫁は角のない牛」という言葉まであったように、お嫁さんは乏しい食料に冷たい布団で寝かされ、窓もない北向きの真っ暗な台所でススまみれになって働いていました。衛生面でも厳しい状況で、田畑で働きつつ育児もして、その上自由に自分の考えを言うことも出来なかったのです。うかつに物を言えば「女のくせに」という激しい叱責が待っていました。GHQは農林省に対して、農村の民主化(この言葉は、当時は女性の地位向上の意味も込められた表現です。)のために生活改善をすべきだが、その方法は日本政府の考えにゆだねると伝えました。

早速農林省は昭和23年に生活改善課を設置し、有識者懇談会を開きました。その中に居たのが、考現学で有名な今和次郎氏らです。今氏は戦前から東北地方の農村生活の厳しさを見つめ、生活改善に尽力した人物です。また、農林省は各都道府県に生活改良普及員(当時は「生改さん」という愛称で呼ばれたので、ここでもこの愛称を使います。)を置きました。
生改さんたちは家政学科などを出た、当時としてはエリート女性達です。そして農家を一軒一軒回って、女性達から暮らしの悩みなどを聞き取ったのです。農林省職員は今氏ら有識者および生改さんらと話し合い、衣食住の様々な面で農村女性を手助けしなければならないことを確認します。でも、あまりに問題がありすぎて、どこから手をつければいいのか分からないほどでした。生改さんは手探りで農村女性達と問題解決に当たりましたが1,2年もするうちに、「かまどの改善」が女性はもちろんのこと、家族全員に喜ばれることが分かって来ました。それはなぜか?

戦争と敗戦後の混乱で日本中が物資不足になっており、山の木はたきぎにするため、山が丸裸になることも多く、たきぎが高騰していたのです。かまどを改善すれば、たきぎの消費量が抑えられるので家計が大助かりという訳です。伐採を放置すれば山崩れや洪水にもなりかねず、国策としてもたきぎ消費の抑制は緊急課題でした。
また、かまどに煙突がなかったので煙で眼病を患う女性が多く居ました、更に、火にたきぎをくべるにも、食材を切って鍋に入れるにも、いちいち立ったりしゃがんだりの繰り返しで身体が疲れるのです。そのうえ、伝統かまどは壊れやすい粘土製でした。

西洋式に
(1)立って使える高さにする(できればそばに調理台を作ってそれも同じ高さにする)。
(2)一つの焚き口で複数の釜を温められる。
(3)煙突やロストルなどをつける。
(4)壊れやすい粘土ではなく、レンガを用いる。
などのアイデアを取り入れたかまどを導入すれば、これらすべての問題が解決されるのです。とはいえ、西洋のかまどをそのまま日本に持ち込んでも、うまくいくとは限りません。

そこで、早速農林省と生改さんは、西洋式のアイデアをとり入れつつ日本人に適した「自分で作れるかまど」の研究と普及に力を入れ始めました。農林省では今和次郎氏の弟子の竹内芳太郎氏が研究に当たりましたが、民間でもこの問題に関心を持ち、独自に改良かまどを考案する人達が現れたので、農林省と生改さん達はそうした方々ともネットワークを築き、科学的根拠に基づき熱効率が良く農家女性が本当に助かるかまどを広めようとしたのです。
最初はいやがる農家さんもいました。かまどには神様が付いているので、改修すると罰が当たるというのです。例えば家族全員が呪われて死ぬと信じている村もあったほどです。それでも、改善してみた家では、罰が当たるどころか、家計も大助かり、眼病が治って病院代も減り、料理の手間も減りました。
これがだんだん噂となって、昭和28.9年頃にかまど改善は空前の大ブームとなりました。「隣がやるならウチも」という気持ちに火が付いたのです。ブームは昭和30年代初頭まで続きました。あまりに人気になったので、「うちの嫁さんは今までは、いじめられても煙に隠れて泣いていたが、煙の出ないかまどじゃ、こっそり涙を流せる場所がなくなってかわいそうだ。」という、いいがかりのような文句が生じたと言われますが、言うまでも無く、お嫁さんが煙に隠れてこっそり泣かなければならなかった農村の女性差別の方が、よっぽど問題があります。

それに、生改さんの仕事は単に便利な道具を教えるだけが目的ではなかったのです。迷信や因習に囚われて「かまどは立ったりしゃがんだりの繰り返しで、疲れるのが当然なんだ。」と思い込んでいた女性達に、設計図を見せて、科学的思考に基づけば手作りでかまどが作れることを教えることで、因習に囚われずに自分たちで考えて力を合わせて行動すれば、辛い問題も乗り越えられる、女性の地位も向上して農村が民主化する、と伝えるのが真の目的だったと言われます。このような尊い願いが改良かまどには込められていたのです。

袈裟さんの育った岩手県で生改さんが活動を開始したのは昭和25年です。したがって、袈裟さんの家のかまどが改良かまどに置き換わったのは、袈裟さんの7歳から12,3歳ごろの間と考えられます。古いかまどが新しいかまどに置き換わり、お母さん達の仕事が楽になって感激する姿を、袈裟さんもきっと目を輝かして見ていたことでしょう。おそらくこの時の経験が、その後のケニアでの指導の原動力になったのではないかと思われます。

なお、日本ではかまど改善の重要点とされた「煙突」の導入ですが、袈裟さんがエンザロ村で指導したかまどは煙突が付いていません。おそらく日本とエンザロ村では気候が違うことが関係しているのでしょう。日本は湿気が多くて、たきぎが完全にには乾燥しにくいので煙が目に染みるのですが、エンザロ村はサバンナ気候なのでたきぎが自然乾燥しやすく、煙が苦になりにくいと考えられます。このように、生活改善は地域地域に合わせた柔軟な指導が必要です。

日本の文化に西洋のアイデアを組み合わせた「改良かまど」、それをさらにケニアに合うように改良した袈裟さん。GHQが日本の女性の幸せのために生活改善を薦めたことが、めぐりめぐって袈裟さんに影響を与え、ケニアへの貢献につながった、その奇跡のような真心の連鎖に思いをはせずには居られません。

注:文中に示した以外の参考文献として、農林省農業改良局生活改善課編集竹内芳太郎執筆「かまど改善の手引き」昭和29年、協同農業普及事業五十周年記念会,「普及事業の五十年」平成10年、農林省「図説農家の生活改善」昭和29年、「クロスロード増刊号 途上国ニッポンの知恵」平成22年、黒石いずみ「東北の震災復興と今和次郎」平成27年、そのほか関係者から直接お伺いしたお話などを参考にしました。

修正のご案内:6月5日、第4段落の「伝統的かまどに」を「伝統的かまどから」に修正いたしました。

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