Luna's " Tomorrow is a beautiful day "

こころは魔もの。暗い地下でとどろくマグマのような…。

放下著

2006年12月12日 | Weblog
 放下著 (ほうげじゃく)

 …(意)いっさいを棄て去るとすべてが生きかえる。


(解説)厳陽(ごんよう)という僧が趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん;唐代の名僧)に「すべてを捨てました。さらにどんな修行をすればよいでしょうか」とたずねたとき、趙州が即答したのがこの「放下著(捨ててしまえ!)」。「著」は強調のニュアンスを伝える助詞(「従容録」)。



(「禅の言葉」ふっと心がかるくなる/ 永井政之・著 )

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荷物をたくさんかついで、なかなか捨てられない人がいます。肩書き、地位、おカネや財産、別れた恋人の記憶…。捨ててしまえばラクになれるのに、年をとるほど荷物はふえてゆき、背中はどんどん重くなってゆきます。

せっかく手に入れたものを簡単には捨てられないのが人情ですが、捨てるべき転機というのが人生の節目にはありそうです。就職、転職、結婚、離婚、失恋、家族の自立など。そうした節目で進むべき道が見えなくなったり、自分とは何者なのかと不安になったとき、「放下」してみましょう。何もかも捨てた「素」の自分に戻ってみるのです。

たとえば定年で退職しても、前歴や肩書きを背負ったままの人がたくさんいます。地位も財産も、ひとときあなたにゆだねられた仮の持ち物にすぎません。せっかく荷をおろすときがきたのですから、きれいに捨て去って第二の人生を楽しみましょう。

趙州は厳陽に「捨てたという意識」さえ捨てろと言いました。執着を捨ててこそ、本来の自分に戻り、いっさいがありのままに見えてくるのです。

(上掲書)

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エホバの証人にはもうついていけない…。それがはっきりしているのに、いざ世に出るとなると怖ろしい。

世間の常識がよく分からない、人づき合いの方法が分からない、成功しないかもしれない…。

常識が分からないことの何が怖ろしいのでしょうか。年相応のことができないと笑われるからでしょうか。人づき合いの方法が分からないと何が怖ろしいのでしょうか。人から見くびられるかもしれない、傷つくかもしれない…。成功しないかもしれない。成功ってなんなんでしょう?

年相応の自分という意識、人づき合いでリードできなきゃならないという意識、成功者となろうとするのは、誰を見返すため? 人に抜きんでていなければならないという意識。こういったものを一切合切捨てたとき、自分の「素」が見えてくる、と著者は書きます。

おそらくそうでしょう。見栄、世間体、過剰な自意識、要するに人にどう見られているかという意識。こうしたものが自分に背伸びすることを強要し、やがてかかとを上げていることに疲れ、演技で出来上がった、世間が見るところの「自分」の重み-それはつくりものの、つまり偽りの自分、自分の虚像の重み-に耐え切れなくなる…。

「自分のための人生」を著したウェイン・W・ダイアーは禅僧ではありませんが、こう書きました。

1.人から認められたいと思うのは、『あなたが私をどう見るかということのほうが、私が自分自身をどう思うかということより重大だ』と言うのに等しい。

2.自分の価値を他人に証明してもらう必要性はまったくない。自分に価値があるのは自分がそう信じるからである。自分の価値基準を他人の目に置くなら、それは自分のではない、他人の価値である。

永井さんが「荷物」と称したもの、肩書き、地位、名声etc...は、なぜそんなに大事だったのでしょうか。それは人から認められるからではないでしょうか。人よりも違っている、とくに偉大さの点で抜きんでているということを、人に認めさせて、それによって自分を納得させる、「ほら、わたしはこれだけ価値のある人間だ」と。でもその荷物は「ひとときゆだねられた仮の持ちもの」だった事実を目の当たりにするときが来る、必ずね。

なぜなら、自分と同じく、自分をちやほやする人々もいつまでも存在しないからです。自分が会社を去れば、彼らはまた別の「主人」を戴くようになるのです。彼らは自分という人間のブランドを持ちたいのですから、それに役立つ人間につくからです。たとえ現役であっても、自分より才能のある人が現われれば、自分の名声は凋落してゆくでしょう。他人からの評価にもたれて生きていくことは、聖書でいう「滑りやすい地(詩篇73編のなかの一節)」で生きていることです。

そんなお荷物はいちど捨ててみましょうよ。わたしの価値はわたしが決める。わたしはまっとうに生きている。だからわたしの価値は揺るがない。こう信じるためには、「素」の自分をしっかり見つめなければなりません。だから、自分から、他人に認めさせるためのいっさいの荷物、装飾品を捨てよう、と趙州さんは言ったのでしょう。

わたしは「なるほど」とうなりました。もう人からの称賛や畏敬を求めるまい。自分の価値をどうして他人に決めてもらわなければならないのでしょう。わたしはわたしが楽しむために生きるんです。価値基準を他人、宗教、国家に教えてもらう必要なんかない。自分が本当は何をしたいのかをよく見きわめよう。そうするときに自分の価値が見えてくる、価値がわかれば自分に自信を持つことができるようになる。

放下著。さあ、よけいな荷物、装飾品は捨ててしまおう。人からの評価には耳をふさごう。それは彼の言い分であって、わたしの望むことではないからだ。重要なのは、わたしはもう、エホバの証人にはついて行けないというこの気持ちであって、やめたあとの生きざまを、かつての「仲間」からどう見られるかということではないからだ。わたしはこうして生きており、新しい人生の展開に期待を持っている。人からこそこそ言われる筋合いなんてないんだから。




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4 コメント

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こんばんは。 (take5)
2006-12-13 22:56:50
Lunaさん、こんばんは。

たしかに、わが道をゆくgoing my way であれば楽に生きられるかもしれません。

人からの価値なんて、どうでもいいと割り切れればの
話です。

悲しいことに私は両者を求めています。

わが道を行くタイプかと思いきや、人からの価値を気
にしてしまう。

難しいもんですね。
返信する
take5さんへ (ルナ)
2006-12-14 04:06:02
おはようございます、take5さん。

> わが道を行くタイプかと思いきや、人からの価値を気にしてしまう…。

それであたりまえなんですよー(^^)
人間はみな、自分が認められることを必要とします。だから、わたしたちは男と女、結びつこうとするんじゃないでしょうか。人間の男女が結びつこうとするのは、ぜったいに生殖のためだけではありません。

ただ、今の時代、というか歴史を通して、社会が高度に組織化されるにつれ、わたしたちは競争を強いられるようになって、それでお互いに素直に誉めあったり、愛情を言葉にして伝えあったり、そういう「自然な情愛」の表現を出せなくなってきたんじゃないでしょうか。

人からの称賛を貪欲に求めたり、そのために人の粗探しをしたり、人を貶めようとして挑発したり、というような言動に出る人っていうのは、必要な愛情や認められることを十分に受けてこなかったんだと思います。また今現在も、愛や受容、承認を満足のゆくほど受けれていないんでしょうね。だから自分から、愛・承認を、「称賛」という形で他人に強要するようになるんだと思います。

take5さんはご結婚されているのかどうかわかりませんが、もしご結婚されているんなら、まずtake5さんのほうから奥さまを言葉や態度で、誉めたり、認めたりすることを根気強く行われてみるのはいかがでしょう。おべっかや義理じゃなくて、ね。男と女の愛っていうのは、ほんとうはそういうところにあるんだと、わたしは考えています。

人間って、男でも女でも、自分を認めてくれる人を愛するものですし(境界性人格障害、自己愛性人格障害、反社会性人格障害などのケースは例外)、そういう人に色気を感じるものです。とくに女は、ね。そうしているとやがて相手のほうも、take5さんを積極的に誉めてくれるようになるし、認めてくれるようになるし、愛を具体的に表現して与えてくれるようになります。

そうやって、愛を満腹させてもらえるようになると、もう他人を支配・攻撃・競争してまで称賛を得ようなどとは思わなくなります。これは精神科医が書いた図書に書かれていることをそのまま言うことですから、信じてくださいね。

本物の愛って、そういうすごく具体的で、ずっと日常的で、ずっと身近で、ずっと自然なことだと、わたしは思います。
返信する
こんばんは。 (take5)
2006-12-15 20:27:17
私は孤独な独身です。

anyway!

本物の愛、追求できれば良いですね。

昔、長瀬正敏がカクテルバーのCMかなんかで

愛だろ愛。

っていうCMがありましたね。

聖書の愛が真の意味で実践できているエホバの証人が
果たして何人いるのやら。
聖書を学んでいながら、人を排除したり、誤解したことをいいことに誹謗し、弾劾するクリスチャンが
いまだに許せません。

返信する
take5さんへ (ルナ)
2006-12-18 21:40:32
こんばんは。

わたしも孤独な独身女です
でも恋をあきらめない女です
根性と執念で必ず結婚してやるッ…と意気込んでいます。

人生って、毎日が新しい日。
昨日の失敗はさておき、今日は今日でまた失敗の上に上書きしてイコー!

> いまだに許せません

わたしはエホバの証人の偽善だけは、絶対に許しません。いいですか、許さないというのは許す意志を持たないということです。エホバの証人の独善的な愛は、あらゆる人間を不幸にするものだからです。

聖書は命令して言います、「悪を憎め」と。エホバの証人の言う「愛」は、人間の自然な情愛という感覚に照らし合わせると、「悪」です。人間を、ただひたすら消耗させる種類の「愛」だから。

これはこれでいいとわたしは確信しています。
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