重症筋無力症に負けてたまるか!

写真の無断転載禁止です カメラ抱えてスタコラサッサ
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ある日、突然一人旅。与那国島の思い出(その2)

2007-04-10 23:02:40 | 旅行
翌日から、サトウキビ畑で収穫とかしてたよ。

基本的に、雨が降ったら仕事はしないで泡盛を飲む。

晴れたら8時くらいから、夕方までちゃんと仕事。

でも、お昼休みは泡盛を飲む。

夜は当然泡盛を飲む。

とにかく、この島のTさんとその仕事仲間は泡盛を飲んでたなぁ。


当時、車の免許を持ってなかったけど、

どうしても軽トラックの運転をしなきゃならず、運転しちゃってた。

だって、軽トラを運転するかトラクターの運転するか、

どっちかすれって言われたら、軽トラの運転を取るよ。

トラクターはギアが多すぎてわからないもん。


居候での食事は、主にカジキマグロ。

とってもおいしい。刺身が飽きたら油で揚げる。

庭に生えてるンジャナという草と一緒に食べてた。

味はヨモギのような感じだったかな。



朝起きると、だいたい虫刺されになってて。

今までの生活では考えられないような腫れ方をしてた。

雨戸も閉めずに寝てたら、そりゃ虫刺されになるよと、

扇風機回しっぱなしで寝てた。


Tさんの家にはお風呂はなく、ずっと水浴びですませてた。

毎日35℃くらいあるから、水浴びで十分。

でも、困ったことが。

どうしても、Tさんの家にトイレが見つからない。

あるのかどうか聞くのもマズイかなと思ってて。

しばらくは、町役場と最初に泊まってた民宿でトイレを借りてたよ。

男なんで、小さい方はそこらへんですれと言われてたし。


与那国言葉に苦悩しつつも、ジェスチャーとかで半分くらいは通じていたかな。

この方言の難しさ、山形弁と同じくらい難しかった。

共通して言えるのは、名詞がわからないのは当然として、

それに付随する接続語もわからない。

ほんとに日本か!と思っちゃう。

ちなみにラジオからは台湾の放送が聞こえるよ。

考えてみれば、沖縄本島よりも台湾の方が近いんだよね。


居候のおかげで、いろいろと島の人と交流があり。

勉強になることが沢山あった。

沖縄の抱えている問題や、与那国の伝統的な行事、泡盛の飲み方。


それからしばらく、サトウキビ畑と泡盛とカジキの生活が続き。

Tさんに島の中をいろいろ連れてってもらっていた。

闘牛の牛さんや、与那国島のフェリー会社のピラミッド型のお墓、

亀甲岩、伝説の女性の住処などなど。


この島で初めてみたんだけど、沖縄の伝統的なお墓って、

女性器の形をしてるんだね。

んで、女性器があるべき場所に遺骨を入れる。

母から生まれてきた人間が帰る場所って、母の胎内なのねと、

いたく感心しちゃった。


お墓の大きさも、大きいのはとんでもなく大きいし、

小さいのだと、3メートル四平あるかないかくらいだったかな。

お墓で宴会ができるようにと、女性器の手前にそういうスペースがあったよ。

墓地とかそういう場所は特になく、畑の中にあったり草むらの中にあったり。

最初はお墓だなんて思わなくて、

この同じ形をしたコンクリートの物体は、なんなんだろ、たくさんあるし。

と思ったよ。


まあ、いろいろ生活をしてたんだけど、夏休みが終わっちゃう!

帰らなきゃどうしよう、というのが明日に続きます。



ある日、突然一人旅。与那国島の思い出(その1)

2007-04-10 00:40:32 | 旅行
こないだ、美容室に行ってきたんだけど。

担当の人が休みだったから、違う人に切ってもらったんだ。

その人と話をしていて、旅行の会話になって。

沖縄に行きたいと、美容師さんが言っていた。

ポンスケは迷わず与那国島を勧めたよ。


与那国島って、最近では『Drコトー』の撮影した島で有名ですよね。

ポンスケがその島に行ったのは、かれこれ10年前くらいでしょうか。


当時、神戸のローソンで深夜のバイトをしていて。

明け方、店に雑誌が到着して陳列してたんだけど、

そのとき、沖縄の本があったんだよ。

『あ、沖縄に行こう』と突然思って。

んで、朝バイトが終わってそのまま関西空港に行っちゃった。

ちょうど石垣島行きの飛行機があり、飛び乗った

石垣に着き、日本で一番西の島である与那国島行きの飛行機に乗り換え



そして、与那国について街まで歩いてみることにした。

地図すら持っていなかったから、空港から車の行く方向にとりあえず歩いてみた。


しばらく歩いていると、一台のワンボックスカーが停まり、

『兄ちゃんどこまで行くの?』

と運転していたおばちゃんが言っているから、

『街までですけど』
『今日泊まるとこ決まっているの?』
『決めてないです』
『じゃあうちに泊まりなさいよ』

そのおばちゃんは民宿の方でした。

実にラッキー。

泊まることを即断。

いったん民宿に荷物を置き、

おばちゃんの運転で『西岬(いりさき)』に連れてってもらったよ。

天候の関係で日本の一番西であるその岬から、台湾は見れなかったけど、

とりあえず、日本で一番西にいるのはポンスケなんだなぁと感慨深かった


翌日、『東岬(あがりさき)』のほうにでかけ。

馬やら牛やらが放牧してあって、危なくないかと心配したけど、

無事、東岬に到着。その後、近くの崖の下にあるビーチに行ったんだ。

今は危ないから行っては駄目なのかもしれないけど、

当時は別になにも言われなかったなぁ。

崖をかきわけ、またもや馬やら牛やらを刺激しないように、

そっと歩き、ビーチに到着

誰もいない砂浜は貝殻のように白く、一面に広がる海はどこまでも

透き通っていて、感激

誰もいないってのが、実にいい。

砂浜には漂流物が流れ着いていて、ハングルや中国語が書いてあって、

ここはもう外国に限りなく近いんだと感じたなぁ。

もちろん、誰もいないのでお決まりの真っ裸

泳いでみると、海がぬるい。これには驚き。

1人で泳いでいると、だんだん切なくなってきたよ

彼女ができたら、是非この景色を見せたいとつくづく思った。
(残念ながら、そのときからずっと現在にいたるまで彼女はできず)


いい加減疲れたので民宿に戻ろうとしたら、

荷台に2人乗った軽トラとすれ違って、そして軽トラが停まり、

運転していたおじさんが、

『兄ちゃん旅行か?』
『そうです』
『暇か?』
『暇です』
『働かないか?』

と、働くことになったんだ。

大学の夏休みはまだあったし、当時はなんにも考えちゃいないし

民宿に戻り、おばちゃんに、

『Tさんという人が僕に働かないかと言ってて、働くことにしました』
『さっきTさんから電話きて、話は聞いたよ』

ちなみに、民宿のおばちゃんと○○さんは親戚だったよ。

翌日から、Tさんの家で居候することになり、

荷物をまとめて、民宿のおばちゃんとお別れ。

Tさんの家は、築100年を超える伝統的な沖縄の住宅

玄関らしきとこからあがると、目の前には仏壇。


Tさん家族は、おばあちゃんとTさん、そして息子さんの三人家族。

Tさんは大阪に出稼ぎに行ったことがあるので標準語を話してくれるけど、

おばあちゃんは、まったくの与那国言葉。半分もわからない。

息子さんはまだ2歳くらいだったので、十分な意思疎通はできず。

とりあえず、与那国島の泡盛で乾杯となりました(まだ昼前だったんだけどね)。

それから与那国で居候して働く話は、また明日。