ぴかりんの頭の中味

主に食べ歩きの記録。北海道室蘭市在住。

【本】新しい人よ眼ざめよ

2011年04月08日 19時00分15秒 | 読書記録
新しい人よ眼ざめよ, 大江健三郎, 講談社文庫 お-2-6, 1986年
・"僕" とウイリアム・ブレイクの詩と障害を持つ息子 "イーヨー" を中心とした家族との関係をテーマにした小説。連作短篇を七篇収録。大佛次郎賞受賞作。
・ブレイクの作品といえば画の方が印象が強く、その詩についてはまったく馴染みが無い。本書により多少詩の方にも興味がわいたが、小説自体としてはいまいちピンとこない内容だった。
・カバー絵はブレイク作「ジェルサレム」七四より。
・「免税売場で買ってきたウイスキーを飲んでいた僕は、とうとう食卓から立ちあがって、妻たちがビクリと緊張するなかを、息子がいまはナイフを斜めに刺しこんだふうに躰を延ばしてよりかかっている、ソファの前へ出かけて行った。息子はその恰好のまま、ハーモニカの片端に両手をかさねて握りしめ、笏のように顔の前に立てて、その両側から僕を見あげた。その眼が、僕を震撼したのである。発熱しているのかと疑われるほど充血しているが、黄色っぽいヤニのような光沢をあらわして生なましい。発情した獣が、衝動のまま荒淫のかぎりをつくして、なおその余波のうちにいる。すぐにもその荒あらしい過度の活動期に、沈滞期がとってかわるはずのものだが、まだ躰の奥には猛りたっているものがある。息子はいわばその情動の獣に内側から食いつくされて、自分としてはどうしようもないのだという眼つきで、しかも黒ぐろとした眉と立派に張った鼻、真赤な脣は、弛緩して無表情なままなのだ。」p.19
・「僕はいま旅の間に始った勢いにしたがって、ここしばらくブレイクを集中的に読みつづけようとしている。具体的にそれにかさねて、世界、社会、人間についての定義集を書いてゆくことはできないだろうか? それも今度は、息子やその仲間らに理解されうる文章でということは考えにいれず、まずいまの自分に切実な要素となっている定義が、どのような経験を介して自分のものとなったか――そしてそれをいかに強く、無垢な魂を持つ者らにつたえたいとねがっているかを、小説に書いてゆくことをつうじて……」p.27
・「もしこの下宿があのような「場所」に建っているとしたら、自分がこの娘を性器から喉もとまで竹串で刺すこともありえたのだと、頭がジンとするような恐怖感と、捩じ曲った、暗い情動の渇望をいだいたのである。僕はいかに森のなかの谷間へ、あらゆる「場所」の意味が自分の肉体と魂とに知りつくされているところへと、帰りたかったことだろう……」p.134
・「つまり僕は青春期のはじまりに大学の図書館でかいま見たブレイクの、その一ページに印刷されていた詩行から、自分の言葉にいいかえることでのみ、この二十五年近く小説を書いてきたようではないか?」p.145
・「たとえばイーヨーに障害がなく、いま大学の二年生で、僕にこう問いかけてくるとする。――お父さん、あなたの今現在のもっとも正直なところとして、死についてどう考えていますか? 僕に定義してください。あなたがこれまでに書いた死の定義をすべて読んでみたが、納得がいきませんから。僕が余裕を持っていながら、あなたを追いつめるためにだけこういっているのではありません。困っているのです。救けてください、あなたのいまの年齢であなたとしてかちとっている、死についての定義を示すことで…… このように問いかけられれば、僕は知能健全な息子に見つめられたまま、ただもの思いに沈んでいるというわけにゆかぬはずだ。」p.147
・「いまも現に僕が素人の独学としてブレイクの、それも予言詩(プロフェシー)の錯綜したシンボルの森に入りこむのである以上、さらに新しいあやまちをおかしてもいよう。むしろブレイクを読みかえしつつ、自分として喚起されることの強かった誤読を自覚しうるごとに、僕はそのように誤読した際の自分について、新しい発見をするはずのものであろう。僕はいまブレイクを死の時のいたるまで読みつづけてゆく詩人のように感じるが、それはつまり死へ向けての自分の生き方へのモデルを、ブレイクを媒介に想定しうるかもしれぬということだ。」p.160
・「イーヨーが好んで見る番組だが、司会役のコメディアンの設問に、落語家たちがシャレによって解答する。良い解答と判定されると座蒲団があたえられる。その運び手の、鬚面、赤ら顔の巨漢を、毎回はじめに司会者が、グロテスクな飛躍のある滑稽なメタファーで紹介するのである。それを楽しみにしてきたイーヨーが、NHKのスポーツ・ニュースを担当している、童顔で眼のパッチリした、しかし禿げあがってもいるアナウンサーを、「スポーツにくわしいキューピーちゃん」と呼んだのだった。」p.178
・「僕は夕暮れから体育クラブのプールで千メートルをクロールで泳ぎ、帰って来て眠るための酒を飲みはじめる。もう七年ちかく日課としてそうしている。」p.248
・「障害を持つ長男との共生と、ブレイクの詩を読むことで喚起される思いをないあわせて、僕は一連の短篇を書いてきた。この六月の誕生日で二十歳になる息子に向けて、われわれの、妻と弟妹とを加えてわれわれの、これまでの日々と明日への、総体を展望することに動機はあった。この世界、社会、人間についての、自分の生とかさねての定義集ともしたいのであった。」p.255
・「したがって僕がいま書いているこの短篇は、ブレイクと息子についての小説であるとともに、「雨の木(レイン・ツリー)」小説のしめくくりをなすものとなりうるかもしれない。「雨の木」のなかへ、「雨の木」をとおりぬけて、「雨の木」の彼方へ。これらの言葉を書きつけながら、僕はほかならぬ自分とイーヨーの死について考えていたのだ。すでにひとつに合体したものでありながら、個としてもっとも自由であるわれわれが、帰還する…… 僕とイーヨーがそのようにして死の領域に歩みいり、時を越えてそこにとどまる。このヴィジョン自体からの返照がおよんでくるように、いま現在の僕とイーヨーの共生の意味があかるみに浮びあがる。」p.265
・「レインは「神なる人間性(ディヴァイン・ヒューマニティー)」の集団的な存在という概念が、『四つのゾア』にもあらわれているとして、《世界家族のすべてをひとりの人間として》あらわすイエス、という詩句をあげ、『最後の審判』はまさにそのブレイクの霊的な宇宙を――つまりひとりの人間によってなりたつ宇宙としてのイエスヲ――描きだしたものだと見ている。森のなかの分子模型の硝子球の――それを細胞といいかえてもよいのであるが――無数のむらがりと、同時にその総体としての壊す人をめぐって、僕が感じ考えてきたことを、レインの分析につきあわせれば、まことに多くの意味が明白になる。僕のヴィジョンに欠けていたところがあるとすれば、壊す人つまり救い主、イエスの肉体がもとどおりになる日こそが、「最後の審判」の日だという思想のみであっただろう。」p.279
・「大学に入ってすぐの僕が、まだブレイクのものともの知らぬまま深い衝撃を受けた一節、《人間は労役しなければならず、悲しまねばならず、そして習わねばならず、忘れねばならず、そして帰ってゆかねばならぬ/そこからやって来た暗い谷へと、労役をまた新しく始めるために》という詩句は、人間の肉体が織り出される洞窟で、繰りかえし地上に堕ちねばならぬ魂を悲嘆する歌だったのだ。」p.280
・「――イーヨーと生活していることは、ちょうど二人分生きているということだから、と妻は自分のこととして、それも明るく解放されている休暇中の人間の声で答えた。」p.302
・「イーヨーは地上の世界に生まれ出て、理性の力による多くを獲得したとはいえず、なにごとか現実世界の建設に力をつくすともいえない。しかしブレイクによれば、理性の力はむしろ人間を錯誤にみちびくのであり、この世界はそれ自体錯誤の産物である。その世界に生きながら、イーヨーは魂の力を経験によってむしばまれていない。イーヨーは無垢の力を持ちこたえている。」p.305
●以下、解説(鶴見俊輔)より
・「この小説は、主として主人公の家庭の内部をえがきながら、1980年代からさらに暗いふたしかな未来にむけて生きる新しい人にむけて書かれた社会小説である。  未来に生きる新しい人のわきに、もうひとりの若者として再生する自分を立たせる、その想像の中に、主人公はみずからの家庭をおき、世界をおく。」p.314

《関連記事》
【本】「雨の木(レイン・ツリー)」を聴く女たち(2006.11.28)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 【写】鷲別川河川敷桜並木(... | トップ | 【食】市立室蘭総合病院レス... »

コメントを投稿

読書記録」カテゴリの最新記事