ぴかりんの頭の中味

主に食べ歩きの記録。北海道室蘭市在住。

【本】寺田寅彦随筆集 第一巻

2009年09月01日 22時10分09秒 | 読書記録2009
寺田寅彦随筆集 第一巻, (編)小宮豊隆, 岩波文庫 緑37-1, 1947年
・寺田寅彦が新聞や雑誌に寄稿した短編集。全五巻のうちの第一巻で、全24編収録。
・同著者の著作を手にするのは初。前々から気になる存在でしたが、その本がようやく日の目を見ることに。
・冒頭の『どんぐり』では、背負い投げで投げ飛ばされたような衝撃を受ける。寺田寅彦の文章のいろいろな要素が濃縮された名作だと思います。
★青空文庫『どんぐり』 http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/card827.html
・「甲板の寝台に仰向きにねて奏楽を聞いていると煙突からモクモクと引っ切りなしに出て来る黒い煙も、舷(ふなばた)に見える波も、みんな音楽に拍子を合わせて動いているような気がする。どうも西洋の音楽を聞いていると何物かが断えず一方へ進行しているように思われる。」p.36
・「市庁の前で馬車を降りてノートルダームまで渦巻の風の中を泳いで行きました。どこでも名高いお寺といえばみんな一ぺん煤でいぶしていぶし上げてそれからざっとささらで洗い流したような感じがしますが、このお寺もそうです。ほかの名高い伽藍にくらべて別に立派なとも思いませんが両側に相対してそびえた鐘楼がちょっと変わった感じを与えます。」p.79
・「国にいた時分「スチュディオ」か何かに載せたドガーの踊り子のパステル絵を見て、なんだかばかげたつまらないもののような気がしましたが、その後バレーというものも見、それからドガーの本物の絵も見てから考えてみると、とにかくこの人の絵はこういう一種の光景、運動、色彩、感じというようなものをかなり真実に現わしたものだと思いました。」p.84
・「芸術家にして科学を理解し愛好する人も無いではない。また科学者で芸術を鑑賞し享楽する者もずいぶんある。しかし芸術家の中には科学に対して無頓着であるか、あるいは場合によっては一種の反感をいだくものさえあるように見える。また多くの科学者の中には芸術に対して冷淡であるか、あるいはむしろ嫌忌の念をいだいているかのように見える人もある。(中略)科学者の天地と芸術家の世界とはそれほど相いれぬものであろうか、これは自分の年来の疑問である。  夏目漱石先生がかつて科学者と芸術家とは、その職業と嗜好を完全に一致させうるという点において共通なものであるという意味の講演をされた事があると記憶している。」p.86
・「また科学者には直感が必要である。古来第一流の科学者が大きな発見をし、すぐれた理論を立てているのは、多くは最初直感的にその結果を見透した後に、それに達する理論的の径路を組み立てたものである。(中略)この直感は芸術家のいわゆるインスピレーションと類似のものであって、これに関する科学者の逸話なども少なくない。」p.91
・「もし世界じゅうの人間が残らず盲目で聾唖であったらどうであろうか。このような触覚ばかりの世界でもこのような人間には一種の知識経験が成立しそれがだんだんに発達し系統が立ってそして一種の物理的科学が成立しうる事は疑いない事であろう。しかしその物理学の内容はちょっと吾人の想像し難いようなものに相違ない。」p.95
・「物理学者と素人と異なる所は普通人間にも存するこのような感覚をはなれた見方をどこまでも徹底させて行く点にある。」p.100
・「神社や寺院の前に立つ時に何かしら名状のできないある物が不信心な自分の胸に流れ込むと同じように、これらの書物の中から流れ出る一種の空気のようなものは知らぬ間に自分の頭にしみ込んで、ちょうど実際に読書する事によって得られる感じの中から具体的なすべてのものを除去したときに残るべきある物を感じさせるのであった。」p.119
・「ただその間に不断にいだいていた希望はいつか一度は「自分のかいた絵」を見たいという事であった。世界じゅうに名画の数がどれほどあってもそれはかまわない。どんなに拙劣でもいいから、生まれてまだ見た事のない自分の油絵というものに対してみたいというのであった。」p.140
・「そういうふうに考えてみると、単に早取り写真のようなものならば技巧の長い習練によって仕上げられうるものかもしれないが、ある一人の生きた人間の表現としての肖像は結局できあがるという事はないものだと思われた。」p.156
・「そうしてみるとわれわれが人の顔を見るときに頭の中へできる像は決してユークリッド幾何学的のものではないと思われる。ただある、割合に少数な項目の、多数な錯列(パーミュテーション)によっていろいろの顔の印象ができている。その中に若干「相似」を決定するために主要な項目の組み合わせがあってこれだけが具備すれば残りの排列などはどうでもいいのだろう。この主要の組み合わせを分析するという事はかなりおもしろいしむつかしい問題だろうと思ったりした。」p.160
・「たとえば人間が始まって以来今日までかつて断えた事のないあらゆる闘争の歴史に関するいろいろの学者の解説は、一つも私のふに落ちないように思われた。……私には牛肉を食っていながら生体解剖(ヴィヴィセクション)に反対している人たちの心持ちがわからなかった。……人間の平等を論じる人たちがその平等を猿や蝙蝠以下におしひろめない理由がはっきりわからなかった。……普通選挙を主張している友人に、なぜ家畜にも同じ権利を認めないかと聞いて怒りを買った事もあった。」p.172
・「近ごろ、アインシュタインの研究によってニュートンの力学が根底から打ちこわされた、というような話が世界じゅうで持てはやされている。これがこういう場合にお定まりであるようにいろいろに誤解され訛伝されている。(中略)力やエネルギーの概念がどうなったところで、建築や土木工事の設計書に変更を要するような心配はない。  アインシュタインおよびミンコフスキーの理論のすぐれた点と貴重なゆえんはそんな安直なことではないらしい。時と空間に関する吾人の狭いとらわれたごまかしの考えを改造し、過去未来を通ずる大千世界の万象を四元の座標軸の内に整然と排列し刻み込んだ事でなかればならない。夢幻的な間に合わせの仮象を放逐して永遠な実在の中核を把握したと思われる事でなければならない。複雑な因果の網目を枠に張って掌上に指摘しうるものとした事でなければならない。」p.194
・「生命の物理的説明とは生命を抹殺する事ではなくて、逆に「物質の中に瀰漫する生命」を発見する事でなければならない。」p.200
・「現代の多くの人間に都会と田舎とどちらが好きかという問いを出すのは、蛙に水と陸とどっちがいいかと聞くようなものかもしれない。」p.208
・「それには都会の「人間の砂漠」の中がいちばん都合がいい。田舎では草も木も石も人間くさい呼吸をして四方から私に話しかけ私に取りすがるが、都会ではぎっしり詰まった満員電車の乗客でも川原の石ころどうしのように黙ってめいめいが自分の事を考えている。そのおかげで私は電車の中で難解の書物をゆっくり落ち付いて読みふける事ができる。宅にいれば子供や老人という代表的な田舎者がいるので困るが、電車の中ばかりは全く閑静である。このような静かさは到底田舎では得られない静かさである。静か過ぎてあまりにもさびしいくらいである。  これで都会に入り込んでいる「田舎の人」がいなければどんなに静かな事であろう。」p.209
・「今の自分から見るとこれらの画家は実にうらやましい裕福な身分だと思う。世の中に何がぜいたくだと言って、このような美しく貴重な自然を勝手自在にわが物同様に使用し時には濫費してもいいという、これほどのぜいたくは少ないと思う。これに匹敵するぜいたくはおそらくただ読書ぐらいのものかもしれない。」p.242
・「ところがある心理学者の説を敷衍して考えるとそういう作用が起こるので始めて「笑い」が成立する。笑うからおかしいのでおかしいから笑うのではないという事になる。  私が始めてこの説を見いだした時には、多年熱心に捜し回っていたものが突然手に入ったような気がしてうれしかった。」p.269
・「以上にあげた特殊な「笑い」の実例を見ると、いずれも精神ならびに肉体に一種の緊張を感じるべき場合である。もし充分気力が強くて、いわゆる腹がしっかりしていて、その緊張状態を一様に保持し得られる場合にはなんでもない。しかしからだの病弱、気力の薄弱なためにその緊張の持続に堪え得ない時には知らず知らず緊張がゆるもうとする。これを引き締めようとする努力が無意識の間に断続する。たとえばやっと歩き始めた子ねこが、足を踏みしめて立とうとする時に全身がゆらゆら揺れ動くのもこれと似たところがある。そういう断続的の緊張弛緩の交代が、生理的に「笑い」の現象と密接な類似をもっている。従って笑いによく似た心持ちを誘発し、それがほんとうの笑いを引き出す。とこういうような事ではないだろうか。」p.269
・「それで案内記ばかりにたよっていてはいつまでも自分の目はあかないが、そうかと言ってまるで案内記を無視していると、時々道に迷ったり、事によると滝つぼや火口に落ちる恐れがある。これはわかりきった事であるが。それにかかわらず教科書とノートばかりをたよりにする学生がかなり多数である一方には、また現代既成の科学を無視したために、せっかくいい考えはもちながら結局失敗する発明家や発見者も時々出て来る。」p.280
●以下、『後語』小宮豊隆 より。
・「寅彦の書くものには、寅彦の芸術感覚と科学感覚とが至るところに光彩を放っている奥に、真に芸術家であるとともに真に科学者である高い「人間」が座を占め、人生批評であるにしても社会批評であるにしても、世界的に自由であり、現実的に剴切でありながら、常にそれが大きな愛で包まれているところに、大きな魅力があるという事も、恐らくだれでも知っている。ただ私に不思議に思われる事は、寅彦の書くものの中の、峻厳な批評的精神が、科学的精神がとかく見落とされ勝ちである事である。これは寅彦の書くものは、いわば筋金の通った柔らかな手といった感じを持っているところから、読者はその柔らかな肌ざわりを味わう事だけで満足してしまうためではないかと思われるが、しかしこれは真に寅彦の書くものを味わうゆえんではない。寅彦の真骨頂はむしろその筋金にあると言っても、決して過言ではないのである。寅彦は科学も芸術もともに人生の記録であり予言であるところに、その本質を同じくすると言っている。」p.304

?がいせつ【剴切】(「剴」は斧(おの)や鎌(かま)、また、それをものに近づけて切ること)よくあてはまること。非常に適切なこと。「剴切な格言」
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【鉄】JR釧路湿原駅(釧路町)

2009年09月01日 08時00分20秒 | 鉄道記録
●JR釧路湿原駅(釧路町) 撮影日 2009.5.2(土) [Yahoo!地図]

・前出の細岡展望台より車道を200mほど下ると、駅へ続く散策路が伸びています。
 
・散策路は間もなく、急斜面を降りるジグザグの道に。坂の下には駅舎が見えます。
 
・坂を降りる途中で見つけたコガラ(またはハシブトガラ)。

・坂を降りた所に立っていた案内図。上の車道からここまで220mとありますが、坂がきついので、その距離以上に疲れます。
 
・釧路湿原駅の駅舎。丸太作りのちょっと洒落たデザインです。
  
・駅舎に入ってみる。こちらは冬期間は閉鎖されるようです。
 
・プラットホームへ。
 
・釧路(南)方向。鏡の中に怪しい人影が。

・標茶~網走(北)方向。

・駅前から伸びる道路。どうもこちらへは車でも来れるようです。

・駅舎のそばに咲いていたミズバショウ。
 
・もときた道を引き返し、車道の向かいに見える建物へ行ってみる。こちらは『細岡ビジターズラウンジ』という観光施設で、軽食や土産品も置いていました。

・建物前からの眺め。

>>> 【旅】北海道東部半周旅行 まとめ

[Canon EOS 50D + EF-S18-200IS]
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