本によって人を読む ビジネス・エリートの読書学, 佐高信, 現代教養文庫 1481, 1993年
・書名より「本の紹介本」的内容を想像したが、実際は著者の知る財界の主だった人物の本に関わるエピソード集といった内容。見知らぬ名が次から次へと出てくることと、余所からの書き抜きの連続で読むのが少々疲れます。
・「私は日々、「人間を読む旅」をつづけているような気がする。手がかりは本であり、その人の読む本によってその人を読む旅である。」p.3
・「相変わらず、経営書が氾濫している。 多くの経営者たちも、さまざまなアンケートで、ビジネス書や精神訓話もの(儒教等に依拠する)を挙げているが、こうした本を推している経営者を見ると私には何となく、彼らの「知的貧困さ」が感じられてならない。経営者が経営書を読むのは、ある意味で当然であり、敢えてそれを挙げるのは、たとえて言えば、「食べものでは何が好きか」と尋ねられて「コメ」と答えるようなものではないだろうか。(中略)そうした経営者と違って、ここに登場する人たちは、みな、ビジネス以外の話のできるゆたかなふくらみをもっている。」p.4
・「「本友だち(ブック・フレンド)」というのがある。会ってもいないのに、「好きな本」をつうじて、何か親近感を抱いている人だ。」p.9
・「人はさまざまな "刺激" によって本を読む。しかし、自分の知っている人、あるいは信頼している人がどういう本を読んでいるかほど、刺激になるものはないだろう。 その人を知れば知るほど、私は、その人の書棚をのぞきこみたい誘惑に駆られる。いわば「本によって人を読む」のであり、「人によって本を読む」のである。」p.10
・「図書館を利用するのも、「読書ノート」をつけるのも、やはり、読書への刺激としてはカラメ手であり、本道は、何と言っても、「本によって人を読む」あるいは「人によって本を読む」といった、人を "触媒" にするところにある。」p.19
・「では、なぜ安岡師が「日本のパワー・エリートたち」に、こうも、もてはやされるのか。 私は、それは、日本のエリートたちが知を中心とする西欧的教養で育ち、「決断」等の東洋的処世法に飢餓感を感じているからだと思う。」」p.30
・「知性偏重の近代西洋の学問が、何か人間の悪ばかりを強調するので、違和感を持ち、一時は神経衰弱になったが、子供の時から学んだ論語や孟子、あるいは王陽明や吉田松陰のものに触れて落ち着きを取り戻したのである。」p.38
・「『忘却は黒いページで、その上に記憶はその輝く文字を記して、そして読み易くする。もし、それ悉く光明であったら、何も読めはしない』とカーライルはうまいことを言ってゐる。我々の人生を輝く文字で記すためには確かに忘却の黒いページを作るがよい。いかに忘れるか、何を忘れるかの修養は、非情に好ましいものである。」p.39
・「ところで、歴戦の勇士ほど、退却を頭の中に入れておくという。坂田さんは、小隊長の時、そうした部下から、事前に懇々と注意を受けた。 「実際の戦争は、強い敵が来たら、相手にせんことですわ。そうしたら、何とはなしにすみますわ」」p.131
・「「余技は会社に役立たないものほどいいんです。人間開発がそれ自身でなされるから。ゴルフやマージャンは、接待用とかで会社の役に立つから、仕事になってしまって趣味になりません」」p.140
・「『日経ビジネス』誌の1981年9月21日号に「読者が選んだ戦後の名経営者」が載っている。(中略)戦後の最も優れた経営者は松下幸之助で断然トップ。ただし、「現役に限れば」。中内功ダイエー社長がトップである。 選ばれた者の言として、中内氏は、 「私が選ばれたのは、フレキシビリティをもっているからでしょう。世の中は変化するものです。だからこそチャンスがあり、チャレンジが生まれる。経営者とは変化適応業だと思っています」 と語っている。」p.146
・「「革命を追う人間は理想的であると同時に、基盤は現実的でなければならない。むだなことは避けようとする人間に革命はできない」という中内氏の挑戦が、 "既成の現実" という大きな壁の一角に穴をあけたのである。」p.151
・「佐橋さんの大学での勉強ぶりはまさにモーレツなものだった。 専門の法律の本以外にも岩波文庫を全巻読破しているが、この文庫の読み方は白帯を全部読んだら緑帯、それが終わったら赤帯を読むというユニークなものである。」p.184
・「技術者が宗教に興味をもつのはなぜ進歩なのか、と尋ねると、 「科学と宗教というのは同じ世界なんですよ。システム工学も仏教も同じなんです。日本の科学技術者もやっと宗教心を持つようになったな、という感じですね」 と素野さんは答えてくれた。」p.208
・「読書は読書だけで終わっては何の意味もない。それを契機に、あるいは刺激剤として、自分の頭で考えることに意義があるのであり、石井さんは、読書家におわらない読書家と言えるだろう。 「読書孝行」というコトバも示すように、読書は、考え、行為するための手段にすぎない。」p.219
《チェック本》
・メリメ『マテオ・ファルコーネ』
・トロワイヤ『女帝エカテリーナ』中公文庫
・伊藤肇『現代の帝王学』
・書名より「本の紹介本」的内容を想像したが、実際は著者の知る財界の主だった人物の本に関わるエピソード集といった内容。見知らぬ名が次から次へと出てくることと、余所からの書き抜きの連続で読むのが少々疲れます。
・「私は日々、「人間を読む旅」をつづけているような気がする。手がかりは本であり、その人の読む本によってその人を読む旅である。」p.3
・「相変わらず、経営書が氾濫している。 多くの経営者たちも、さまざまなアンケートで、ビジネス書や精神訓話もの(儒教等に依拠する)を挙げているが、こうした本を推している経営者を見ると私には何となく、彼らの「知的貧困さ」が感じられてならない。経営者が経営書を読むのは、ある意味で当然であり、敢えてそれを挙げるのは、たとえて言えば、「食べものでは何が好きか」と尋ねられて「コメ」と答えるようなものではないだろうか。(中略)そうした経営者と違って、ここに登場する人たちは、みな、ビジネス以外の話のできるゆたかなふくらみをもっている。」p.4
・「「本友だち(ブック・フレンド)」というのがある。会ってもいないのに、「好きな本」をつうじて、何か親近感を抱いている人だ。」p.9
・「人はさまざまな "刺激" によって本を読む。しかし、自分の知っている人、あるいは信頼している人がどういう本を読んでいるかほど、刺激になるものはないだろう。 その人を知れば知るほど、私は、その人の書棚をのぞきこみたい誘惑に駆られる。いわば「本によって人を読む」のであり、「人によって本を読む」のである。」p.10
・「図書館を利用するのも、「読書ノート」をつけるのも、やはり、読書への刺激としてはカラメ手であり、本道は、何と言っても、「本によって人を読む」あるいは「人によって本を読む」といった、人を "触媒" にするところにある。」p.19
・「では、なぜ安岡師が「日本のパワー・エリートたち」に、こうも、もてはやされるのか。 私は、それは、日本のエリートたちが知を中心とする西欧的教養で育ち、「決断」等の東洋的処世法に飢餓感を感じているからだと思う。」」p.30
・「知性偏重の近代西洋の学問が、何か人間の悪ばかりを強調するので、違和感を持ち、一時は神経衰弱になったが、子供の時から学んだ論語や孟子、あるいは王陽明や吉田松陰のものに触れて落ち着きを取り戻したのである。」p.38
・「『忘却は黒いページで、その上に記憶はその輝く文字を記して、そして読み易くする。もし、それ悉く光明であったら、何も読めはしない』とカーライルはうまいことを言ってゐる。我々の人生を輝く文字で記すためには確かに忘却の黒いページを作るがよい。いかに忘れるか、何を忘れるかの修養は、非情に好ましいものである。」p.39
・「ところで、歴戦の勇士ほど、退却を頭の中に入れておくという。坂田さんは、小隊長の時、そうした部下から、事前に懇々と注意を受けた。 「実際の戦争は、強い敵が来たら、相手にせんことですわ。そうしたら、何とはなしにすみますわ」」p.131
・「「余技は会社に役立たないものほどいいんです。人間開発がそれ自身でなされるから。ゴルフやマージャンは、接待用とかで会社の役に立つから、仕事になってしまって趣味になりません」」p.140
・「『日経ビジネス』誌の1981年9月21日号に「読者が選んだ戦後の名経営者」が載っている。(中略)戦後の最も優れた経営者は松下幸之助で断然トップ。ただし、「現役に限れば」。中内功ダイエー社長がトップである。 選ばれた者の言として、中内氏は、 「私が選ばれたのは、フレキシビリティをもっているからでしょう。世の中は変化するものです。だからこそチャンスがあり、チャレンジが生まれる。経営者とは変化適応業だと思っています」 と語っている。」p.146
・「「革命を追う人間は理想的であると同時に、基盤は現実的でなければならない。むだなことは避けようとする人間に革命はできない」という中内氏の挑戦が、 "既成の現実" という大きな壁の一角に穴をあけたのである。」p.151
・「佐橋さんの大学での勉強ぶりはまさにモーレツなものだった。 専門の法律の本以外にも岩波文庫を全巻読破しているが、この文庫の読み方は白帯を全部読んだら緑帯、それが終わったら赤帯を読むというユニークなものである。」p.184
・「技術者が宗教に興味をもつのはなぜ進歩なのか、と尋ねると、 「科学と宗教というのは同じ世界なんですよ。システム工学も仏教も同じなんです。日本の科学技術者もやっと宗教心を持つようになったな、という感じですね」 と素野さんは答えてくれた。」p.208
・「読書は読書だけで終わっては何の意味もない。それを契機に、あるいは刺激剤として、自分の頭で考えることに意義があるのであり、石井さんは、読書家におわらない読書家と言えるだろう。 「読書孝行」というコトバも示すように、読書は、考え、行為するための手段にすぎない。」p.219
《チェック本》
・メリメ『マテオ・ファルコーネ』
・トロワイヤ『女帝エカテリーナ』中公文庫
・伊藤肇『現代の帝王学』