ぺんぺんぐいん

ぺんぎん歩きは卒業したよ。

授業開講

2005-10-06 05:34:53 | いろいろ
『文化人類学演習Ⅲ』

演技の人類学

演劇、ダンスなど、舞台上の演技(パフォーマンス)はどのように仕立て上げられるのかについて考える。
演劇やダンスの作品論、また、テキスト論ではない。
舞台や幕、化粧や衣装、音楽や照明、声や身体など、演技を成り立たせている時間や空間、要素について議論をする。
形式は開講時に説明する。成り行きによってはみなで、演劇やダンスを観に行く。
演技指導はしない。

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『特殊講義Ⅳ』

テーマ:「ジョングルール――地中海世界の楽師・芸人」
中世ヨーロッパではジョングルールと呼ばれた楽師・芸人たちが諸国や宮廷を渡り歩いていました。
彼らは、歌を歌い楽器を奏しダンスを踊り詩を語り芝居をし曲芸を見せご機嫌を伺いうわさを流し間者となり夜伽となり・・、
時代の遊芸者であったとともに、彼らは優れて人口に膾炙する音楽という技芸を用いて
さまざまな物語を広くそして攻勢に伝える存在でもあった。
しかし彼ら自身が残した足跡は少なく、そのために中世の単なるパフォーマーとして過小評価されていた感がありますが、
彼らの芸能は今日の芸術の諸相につながっていることはいうまでもありません。

この講義では彼らを扱った言説や図像そして音楽から、「物語」を創り伝え
そして自らが「伝説」にまでなった楽師・芸人(ジョングルール)たちを考察していきます。
これは同時に、彼らを受容し認容した社会とのかかわりを俯瞰していくことにもなるでしょう。
芸能とはあらゆる表現活動の複合的な実態であり表象であるばかりか、
人の五感に応じ、衣食住に侍り、聖と俗を遊び、神や王と戯れ、世界と異界と結び、
そして人と人とに介在するもので、その普遍的な在り様を時代と遊んだ芸能者から見ていくことになります。

Ⅰ「ジョングルール」と研究史
Ⅱ古代のミームス
Ⅲ中世のジョングルール
Ⅳジョングルールの芸能と楽師伝説
Ⅴ16世紀の変容――芸人・楽師の社会的地位

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これだよコレ。いやほんとコレ。もう今学期の授業、この二つだけでいいや。

自分がこれまでの人生でやったことは将棋とジャグリング(パフォーマンス)だけで、
それはなにをどうやっても結局のところ大学の授業と関わることはないんだ、って諦めてた。

だから大学の授業にまともに出席したことは基本的にないし、中身を聞いてまともに役にたったこともない。
学期を通じて全出席した授業って・・たぶん1つもない。

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それが、なに、授業と興味がかぶっちゃうってどういうこと?

しかも何、前者は議論とかしちゃっていいの?
聞きたいこと何でも聞いて、思ったことなんでも話して・・いいんだ?ほんとに?
うーん泣きそうに嬉しい。あーやっと、ほんとにやっと、大学とつながってくれそう。自分のやってきたことが。

ちなみにジョングルールはおそらくフランス語のjongleurで、英語ならjuggler。ジャグラー。
「ミームス」というのはmimes、つまりマイム。ちなみにこれの語源は古代ギリシャ語の「ミモス」=「まねる」。

こんな解説いくらでもできるよ。

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常に授業で熟睡していた」というのは中学・高校の同級生もしくは先生に聞けば間違いなく証言してくれる事実で、
この大学を選んだ理由は「中学時代からここの将棋部にお世話になってたから・ここの将棋部が強いから。」であって、
今の学科を選んだ理由は「フランスのサーカスに興味があるから。

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でも自分の正規の身分は学生であって、
学生としての本分である勉学と自分の活動とか結びつかないことに歯痒さを感じていたし、
興味をもってどんどん勉強していってる人が羨ましかったんです。
やりたいことと、実際の自分の立場上やるべきこととが重なるってやっぱいいじゃないですか。

いやー中学から大学まで、10年目にしてついにちゃんと授業を受ける日がきそうな気がします。

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やったー やったー 

動物

2005-10-06 01:46:51 | フランス旅行
と仲良くなれるようになった!

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いや、たいした話じゃないんです。

CNACにはショーのための馬がいて、練習してるのをちょろっと見学した。
丸い大きなテント(シャピトー)の中で、円形のベンチみたいな枠があって、その中には土が敷かれてる。
中心には人が立って、鞭を持ってる。ベンチみたいな枠の内側を這うようにして馬が歩いたり走ったり。
馬のそばにはもう一人、乗ったりして芸をする人がいて、訓練してた。

馬に対しては中心に立ってる精悍なおじさんが、鞭のちょっとした動きや囁くような声で合図。
それにあわせて、馬は歩みを止めたり、徐々に加速したり。円形に沿って走ってく。

生徒が、馬のそばを一緒に走って飛び乗ったり、乗った上で体勢を変化させたり練習してた。
競馬場行ったことないし、そんな間近で馬を見たのは初めてでした。

うまく行った時には馬の首筋を撫でてあげたり、
人間と馬とのコミュニケーションがダイレクトに行われているのが印象的でした。
通じ合ってるのかもしれない、じゃなくて確実に通じ合ってます。彼ら。

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休憩中の馬がシャピトーの外の柵に囲まれた原っぱにいたので、意識を向けてみた。スポットライトみたいなイメージ。
そしたら、ちゃんと振り向いてくれて。目が合った。またじーっと見つめる。

互いの意識のビームがぶつかって、ロックがかかる。もう二人の世界。笑

馬は少しずつ少しずつこっちに寄ってくる。僕も、柵のところまで近づく。
互いに顔をじーっと見合わせたまま、近づけるところまで近づいて、そっと鼻面を撫でてみたり。

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いや、それだけ。笑

その後農場で会った羊にも、同じ感じで接してみたら、やっぱり近づいてきてくれた。
でも羊の方はちょっと警戒心強かったなぁ。触ろうとしても、あんまり触らしてくれない。

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警戒心の強そうな羊には、掌も向けてみた。
勝手な考えなんだけど、意識って掌からも発されると思う。

例えば多くの文化に、挨拶に手を振る習慣があるわけだけれど、あれって絶対手の甲を向けないですよね。
手の平を向ける、という行為はすごく原始的なコミュニケーションの形の一つなんじゃないかと思う。

羊にも、手を・・ 振ったら、なんか意識がぶれるかなぁと思って、
そっとかざすように向けてみたら、遠くの羊もこっちを向いてくれて、こっちを向いたまま近寄ってきてくれた。

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うん、ほんとにそれだけです。笑

どう解釈していいのかわかんないけど 
うーん、経験からノンバーバルコミュニケーションをある程度意識的にできるようになってきたのかな?

言葉がなくても通じ合える手法を使うと、
動物とも仲良くなれる・・のかもしれないなぁ、と、ちょっと嬉しかった。

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ついでに今日はさっそくまらばりのお仕事でパフォーマンスしてましたが、
演者と観客の間でやりとりされる、
「両者の意識のベクトル(方向と絶対値)の流れ」
というのが見えるようになってきた。

人間って、相手に意識を向けたり、自分の世界に入り込んでたり。
「意識」という視点からその人の状態を捉えると見えてくるものもあるし、
そういう「意識」をコントロールすることによるコミュニケーションって、ある。

挨拶で抱き合ったりしてしまうラテン民族とは違って、
ちょっと人同士に距離感のある日本人は、
そういう空間を越えたやりとりが得意な民族な気がする。