こんにちは~、マリーで~す。
うちのおばはん、今朝は腰の痛みも一昨日よりははるかに軽くなってきてるし、昔整形で教わった腰痛の改善体操も思い出して実行してるから今はもう動けないほどの痛みはないみたいよ。歩く時も意識してお尻をひいて、おへそを前に突き出すように歩いてるわよ。これってさあ、早い話がコルセットを付けたときと同じ形になるみたい。しまい込んだコルセットも一応出して使えるようにしとかなくちゃ。大体あの人、やっぱりまず減量が必要なんだわさ。おなかの周りの脂身の重さで腰や股関節に負担がかかるんだと思うわよ。そんなだから調子のよくないところに、気温が下がった時の冷えの直撃でたちまちダウンしちゃうんだわ。お医者さんだって顔を見れば減量。減量ってうるさく言ってるじゃないの。それなのにさ、まったくうちのおばはんときたらしょうがないったらないんだからまったく。
そういえば、あの人の妹のみいちゃんはお姉ちゃんとは正反対で、細くてスマートで何を着ても似合ってたのに、うちのおばはんと来たら若い時から歯がわるくて歯医者さんと本代にはお金をかけていたけど、お父さんと同じで、服なんて着られればなんでもいいってとこがあって、それも問題だったのよね。それでも更年期まではほどほどの体重だったのに、今はほんとに見る影もないじゃないの。着られる服を探すのだって苦労するし健康面にも響くし、もう大変よ。
でもそれはそうとして、あの人昨日、二コラ・バレの集まりが終わった後、なんとなく気が向いて聖三木図書館に行ったのよね。伊藤神父様のお話で、神父様の恩師の井上洋治神父様のことも思い出して、そのつながりで日本的な霊性ってのに考えが向いて、ずっと気になってる。いまはもう亡くなった昔の神父様たちのことをおもいだしたわけよ。あの人が、生前ぜひ会ってみたかったって思っているのはカルメル会の田中輝義神父様って方だったんだけど、もう手遅れだわ。ただちょっぴり分かるのは、この方の持っていらっしゃったものはただ頭で考えたものじゃなくてある種、天賦の才ってやつだったんじゃないかなあって、あたしは思うわ。ときどきたまに本当にいるのよ。
殆どは偽物だったり、浮世の塵やほこりまみれになって、見えない世界とのつながりを見失って浮世と妥協しちゃったり、堕ちてしまったり、なかなか本物はいないんだけど、たぶんこの方は本物っぽかった気がするんだわさ。だからこの方は死ぬまで表にはほとんど出なかったんだわ。世の中にはいろいろなタイプの人間が必要なのよね。考えて考えて考え抜いてそれをまとめてたくさんの人たちに役に立つようにしてくださる方も絶対必要だし、さらに一般の普通の人たちの心を動かして、この世的なこと以上のことにも心を向けさせてくれる、司祭、僧侶、小説家、作家っていう方たちも必要だわ。でも全く違うタイプの方たちもやっぱりおいでなのよね。押田神父様と、田中神父様はこのお二人は確固とした自分のものをもっておいでで、一生それぞれ違うけど、ご自分の持っているものを貫いたんだって思えるんだわさ。
そういえば、もう一つ思い出したわ。昔うちのおばはんがしばらくかかわっていたイエスの小さい姉妹の友愛会っていう修道会、あの人はこれは自分の心にあるものじゃないから嫌だって断っちゃったけど、日本じゃなくてフランスの方かな、最終誓願のときにどういう生活を望むのか尋ねられて、小さい姉妹のまま。隠遁者になりたいって申し出て受け入れられたという話を読んだことがあったけど、日本じゃ果たしてどうかしらねえ。そういうことが可能だったら話はまた違ってたかもね。とにかくトイレとお風呂以外一人になれない生活じゃ生きていけないタイプの人間だっているんだもん、そこんとこ間違ってもらっちゃ困るわ。
とにかくもうこの世にいない方が、何をどう考えていたのか知りたいと思ってももうそれは無理。今できることはそれに触発された当人が自分で、自分なりの考えをまとめていくしかないのよね。貧弱なつまらない答えしか出てこなくてもそれが自分なんだったらそれを受け入れるしかないわよ。自分を生きるってことはそう言うことなんじゃないのかなあ。
といったところで今日のはなしはおしまい。みいちゃんのことからずいぶん離れたとこに来ちゃったから来週はまたもどるわよ。ほんじゃまたね。
うちのおばはん、今朝は腰の痛みも一昨日よりははるかに軽くなってきてるし、昔整形で教わった腰痛の改善体操も思い出して実行してるから今はもう動けないほどの痛みはないみたいよ。歩く時も意識してお尻をひいて、おへそを前に突き出すように歩いてるわよ。これってさあ、早い話がコルセットを付けたときと同じ形になるみたい。しまい込んだコルセットも一応出して使えるようにしとかなくちゃ。大体あの人、やっぱりまず減量が必要なんだわさ。おなかの周りの脂身の重さで腰や股関節に負担がかかるんだと思うわよ。そんなだから調子のよくないところに、気温が下がった時の冷えの直撃でたちまちダウンしちゃうんだわ。お医者さんだって顔を見れば減量。減量ってうるさく言ってるじゃないの。それなのにさ、まったくうちのおばはんときたらしょうがないったらないんだからまったく。
そういえば、あの人の妹のみいちゃんはお姉ちゃんとは正反対で、細くてスマートで何を着ても似合ってたのに、うちのおばはんと来たら若い時から歯がわるくて歯医者さんと本代にはお金をかけていたけど、お父さんと同じで、服なんて着られればなんでもいいってとこがあって、それも問題だったのよね。それでも更年期まではほどほどの体重だったのに、今はほんとに見る影もないじゃないの。着られる服を探すのだって苦労するし健康面にも響くし、もう大変よ。
でもそれはそうとして、あの人昨日、二コラ・バレの集まりが終わった後、なんとなく気が向いて聖三木図書館に行ったのよね。伊藤神父様のお話で、神父様の恩師の井上洋治神父様のことも思い出して、そのつながりで日本的な霊性ってのに考えが向いて、ずっと気になってる。いまはもう亡くなった昔の神父様たちのことをおもいだしたわけよ。あの人が、生前ぜひ会ってみたかったって思っているのはカルメル会の田中輝義神父様って方だったんだけど、もう手遅れだわ。ただちょっぴり分かるのは、この方の持っていらっしゃったものはただ頭で考えたものじゃなくてある種、天賦の才ってやつだったんじゃないかなあって、あたしは思うわ。ときどきたまに本当にいるのよ。
殆どは偽物だったり、浮世の塵やほこりまみれになって、見えない世界とのつながりを見失って浮世と妥協しちゃったり、堕ちてしまったり、なかなか本物はいないんだけど、たぶんこの方は本物っぽかった気がするんだわさ。だからこの方は死ぬまで表にはほとんど出なかったんだわ。世の中にはいろいろなタイプの人間が必要なのよね。考えて考えて考え抜いてそれをまとめてたくさんの人たちに役に立つようにしてくださる方も絶対必要だし、さらに一般の普通の人たちの心を動かして、この世的なこと以上のことにも心を向けさせてくれる、司祭、僧侶、小説家、作家っていう方たちも必要だわ。でも全く違うタイプの方たちもやっぱりおいでなのよね。押田神父様と、田中神父様はこのお二人は確固とした自分のものをもっておいでで、一生それぞれ違うけど、ご自分の持っているものを貫いたんだって思えるんだわさ。
そういえば、もう一つ思い出したわ。昔うちのおばはんがしばらくかかわっていたイエスの小さい姉妹の友愛会っていう修道会、あの人はこれは自分の心にあるものじゃないから嫌だって断っちゃったけど、日本じゃなくてフランスの方かな、最終誓願のときにどういう生活を望むのか尋ねられて、小さい姉妹のまま。隠遁者になりたいって申し出て受け入れられたという話を読んだことがあったけど、日本じゃ果たしてどうかしらねえ。そういうことが可能だったら話はまた違ってたかもね。とにかくトイレとお風呂以外一人になれない生活じゃ生きていけないタイプの人間だっているんだもん、そこんとこ間違ってもらっちゃ困るわ。
とにかくもうこの世にいない方が、何をどう考えていたのか知りたいと思ってももうそれは無理。今できることはそれに触発された当人が自分で、自分なりの考えをまとめていくしかないのよね。貧弱なつまらない答えしか出てこなくてもそれが自分なんだったらそれを受け入れるしかないわよ。自分を生きるってことはそう言うことなんじゃないのかなあ。
といったところで今日のはなしはおしまい。みいちゃんのことからずいぶん離れたとこに来ちゃったから来週はまたもどるわよ。ほんじゃまたね。