1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

5/22・コナン・ドイルの偏向

2013-05-22 | 文学
5月22日は、演奏するのに4日間かかる楽劇「ニーベルンゲンの指環」を書いた大作曲家ワーグナー(1813年)が生まれた日だが、英国の作家、コナン・ドイルの誕生日でもある。
ドイルは「名探偵シャーロック・ホームズ」の生みの親である。
子どものころ、探偵小説好きの自分は「ルパン派」だった。出ていた児童向けのルパン全集はすべて読んだ。その一方で、ホームズものを敵対視し、避けていた。しかし、そんなルパン派の自分でさえ、『緋色の研究』『四つの署名』『バスカヴィル家の犬』『恐怖の谷』『シャーロック・ホームズの冒険』『シャーロック・ホームズの帰還』といった話はおもしろく読んだ覚えがあるので、変な言い方だけれど、子ども時代の自分にとって、作者コナン・ドイルは、敵ながらあっぱれな作家だった。

アーサー・コナン・ドイルは、1859年、英国スコットランドのエディンバラで生まれた。両親ともにアイルランド系で、父親はアルコール中毒だったが、母親は教養豊かな女性で、幼いアーサーにいろいろな話をおもしろおかしく語って聞かせたという。
アーサーは医学の道へ進み、22歳のときエディンバラ大学を卒業。船医などをへて、23歳のとき、ポーツマスに眼科の医院を開業した。しかし、患者が集まらない。ドイルはひまな時間を利用して、小説を書きはじめた。
小説を書いては、出版社に送り、ボツにされる、その繰り返しが続いたが、そんななかの一編が出版社に売れ、雑誌に掲載されて好評を博した。それが名探偵シャーロック・ホームズを主人公とする第一作『緋色の研究』で、ドイルが27歳のときだった。
ドイルは、もともと歴史小説か、SF小説の作家志望だったが、ホームズものが人気を博したため、医者をやめて作家業に専念した。そうして、長編4作、短編56作のホームズものを書き、ほかに『勇将ジェラールの冒険』『失われた世界』などを書いた。
1930年7月、ドイルはイーストサセックス州の自宅の玄関で、胸をつかんで亡くなっているところを発見された。死因は心臓発作とみられる。71歳だった。

ドイルが創造したホームズは、かなりの変人で、いつも暗い部屋に閉じこもって、アヘンを吸い、若い女性にはまったく興味がなく、博識だけれど、その教養は、植物、毒薬、化学などに偏っていて、文学、哲学、政治などにはまったく無知ということになっている。そんな変わり者の彼と、書き手である親友ワトソンがコンビを組んで、事件に挑む。
現代ならば「ゲイのオタク物語」「ヤオイ系探偵小説」などと分類されるだろうけれど、霧の都ロンドンでは、その変人ぶりがまたちょうどいい名探偵のアクセントになった。ホームズ以後、「ポアロ」から「ガリレオ」にいたるまで、世界の推理小説に登場する名探偵は、かならず偏向した個性があるように性格付けされる約束になっているけれど、それはドイルが発明し、道を開いた「名探偵の作り方」なのだと思う。そして、ホームズの偏向した性格はおそらく、作者ドイル自身がもっている性質のある部分をデフォルメしたものなのだろう。

自分は野暮ったい女嫌いの名探偵より、美しい女性と見ればすぐに恋に落ちてしまう泥棒のほうが好きである。ただし、拙著『名作英語の名文句2』で取り上げた『ボヘミア王のスキャンダル』は、魅力的な女性が登場する。ホームズものにはめずらしい華のある作品で、自分としても忘れがたい、おすすめの作品である。と、こうして思い出していると、世界中にたくさんいるシャーロッキアンの気持ちもなんだかわかるような気がしてくる。コナン・ドイルの腕に、自分もまたつかまれているのを感じる。
(2013年5月22日)


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5/21・サハロフの前向き

2013-05-21 | 科学
5月21日は、仏国の画家、アンリ・ルソーが生まれた日(1844年)だが、ロシアの物理学者、アンドレイ・サハロフ博士の誕生日でもある。
「水爆の父」サハロフ博士について、自分はあまりよく知らぬまま、いい印象をもっていなかった。頭脳はずば抜けていたにちがいないけれど、原爆製造プロジェクト「マンハッタン計画」を率いたオッペンハイマーと同様、やはり大量殺人兵器の制作に関わった科学者なので。
でも、近年になって、水爆を開発した後のサハロフ博士のことを知るようになり、だいぶ考えを改めるようになった。

アンドレイ・ドミトリエヴィッチ・サハロフは、1921年、ロシア(ソビエト連邦)のモスクワに生まれた。父親は私立学校の物理学の教師だった。
21歳の年に、モスクワ大学を卒業したサハロフは、ソ連科学アカデミー物理学研究所で、27歳ごろから、ソ連の国家プロジェクトである原子爆弾開発のチームに加わった。
1949年8月、彼が28歳のとき、原爆が完成。
1953年8月、32歳のとき、水爆が完成。この偉業によって、彼は「ソ連水爆の父」と呼ばれるようになったが、核実験による放射能汚染のひどさに驚き、あわてて当時の最高権力者、フルシチョフに、核実験の中止を進言した。ここがサハロフの転換点になった。
40歳のころから、民主化要求、人権擁護の発言か多くなり、1975年、54歳のとき、ノーベル平和賞を受賞。世界的な名声は高まったが、ソ連国内では批判も強かった。
1980年、59歳のとき、ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議。サハロフはすべての名誉を剥奪され、流刑罪に処せられた。
65歳のとき、流刑罪が解除され、モスクワにもどった。ソ連は「ペレストロイカ(改革)」の時代を迎えていた。
67歳のとき、サハロフは人民代議員に選ばれ、政治家として活動した後、1989年12月、心臓麻痺のため没。68歳だった。

カート・ヴォネガットの小説『タイムクエイク』には、こんな皮肉のくだりがある。
「彼(サハロフ)が一九七五年にノーベル平和賞をもらったのは、核実験に反対した功績によるものだ。もちろん、彼の核実験はすでに終わっていた。サハロフの妻は小児科医だった! 子供の病気を治す専門家と結婚しながら、水素爆弾を完成させることができるのは、どういう人間なのか? それほど頭のおかしい夫と連れそっていられるのは、どういう医者なのか?
『ねえ、あなた、きょうはなにかおもしろいことがあった?」
『ああ。わたしの爆弾はうまくいきそうだよ。ところで、きみのほうは? あの水ぼうそうの子はよくなったかい?』」(朝倉久志訳『タイムクエイク』早川書房)
じつはこのくだりには、時間のずれによるごまかしがある。
サハロフ博士が小児科の女医と結婚したのは、1972年、博士が51歳のときで、そのころ博士は、水爆を作っていた30代前半までとは、まったく考えがちがう別人になっていた。

サハロフ博士の人生は「人間は変わってもいいのだ」と教えてくれる。
自分のまちがいに気づいたら、さっさとやめて、その反対の行動をとるべきなのである。
人間は完璧ではない。まちがいもある。そのときどきで、いいと思われることをするべきで、もしも、後になって悪かったと気づいたら、沈黙したり、ざんげに熱中したりするのでなく、よかれと思う方向へ積極的に動き、前向きに生きていくべきだ、そういうことをサハロフ博士の人生は教えてくれている気がする。
(2013年5月21日)



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5/20・バルザックの熱い思い入れ

2013-05-20 | 文学
5月20日は、英国の経済学者、J・S・ミルが生まれた日(1806年)だが、仏国の大作家、バルザックの誕生日でもある。
自分は中学生のころから、バルザックがえらい作家だと知ってはいたが、ほとんど読んではこなかった。短編をいくつか読んだくらいで、長いものは読み出してはすぐに挫折してしまう繰り返しだった。
「小説」というものが完成されたのは、19世紀だと言われていて、その完成者として筆頭に名があがるのがバルザックである。科学の方法論を小説に取り入れた彼の作品は、トルストイやドストエフスキー、芥川龍之介、谷崎潤一郎など世界中の作家に影響を与えた。「バルザック」は、まちがいなく世界文学の最高峰のひとつである。
が、それでもなお、バルザックの傑作は、彼が書いた作品より、むしろ彼の人生だろう。それほどバルザックの生きざまは豪快だった。

オノレ・ド・バルザックは、1799年、仏国の古都トゥールで生まれた。父親は軍隊の兵站部長で、かなり裕福な家庭だったらしい。
17歳のとき、パリの法科大学へ入学。両親は彼が公証人になるのを望んだが、バルザックはそれを嫌って、小説家を目指した。
32歳のとき『あら皮』で認められ、以後『ゴリオ爺さん』『谷間のゆり』など、生涯にわたって長短90編もの小説群を勢力に書きつづけた。
執筆の一方で、彼には強烈な事業欲もあって、さまざまな事業に手を染めた。借金をして出版社に出資したが、すぐに倒産。また新たに借金をして印刷会社を買収したが、これも倒産。その後、活字鋳造会社、銀山経営、鉄道会社への株式投資、と手を染めたのがすべて失敗し、借金はばくだいな額にふくれ上がった。
その借金を残したまま、1850年8月、バルザックは新たに借金して購入したパリの自宅で没した。残された借金は、亡くなる5カ月前に結婚した資産家の夫人が返済した。

バルザックは、執筆にとりかかると、ひと晩に40杯から60杯の濃いコーヒーを自分でいれて飲みながら、真夜中から翌朝の8時ごろまでぶっつづけで書いたという。

バルザックは、小説に「人物再登場法」という手法を用いた。ある小説に登場した人物が、べつの小説にも顔を出すというもので、これを思いついたとき、バルザックは妹に、
「ぼくに最敬礼しろ。ぼくは今、まさに天才となったところだ」
と言ったという。(小林信彦『小説世界のロビンソン』新潮文庫)
「人物再登場法」はすごいアイディアだが、実際に書く側にとっては、頭がおかしくなるような苦行である。バルザックの小説群「人間喜劇」に登場する人物はざっと二千人。こういう方法で書く人は、いずれ現実と虚構の区別がなくなってしまうだろう。
バルザックは、亡くなる間際、こう叫んだそうだ。
「ビアンション! ビアンションを呼んでくれ! あいつなら……」
「ビアンション」というのは、『ゴリオ爺さん』など数編のバルザック作品に登場する医者の名前である。

バルザックが小説を執筆中のこと。小説のなかで、ある場所に金が埋まっていることを書いていた。と、書いているうちに、本当にそこに金が埋まっているような気がしてきて、いても立ってもいられず、彼はそこの土を掘り返しに出かけていったらしい。
すごいと思う。自分はバルザックのこういうところが好きだ。
(2013年5月20日)


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5/19・「小さな巨人」ホー・チ・ミン

2013-05-19 | 歴史と人生
5月19日は、米国の黒人活動家、マルコム・X(1925年)、クメール・ルージュ(カンボジア共産党)の書記長、ポル・ポト(1928年)が生まれた日だが、ベトナム独立を率いた革命家、ホー・チ・ミンの誕生日でもある。
自分は、子どものころはあまりよくわからなかったのだけれど、アメリカについて勉強するにつれて、ベトナム戦争がいかにひどいものだったかを知り、また、ベトナムの人たちのなめた苦難の歴史を知るようになった。加害の責任の一端は日本も負っている。
「ホーおじさん」こと、ホー・チ・ミンは、ちょろっとしたあごひげを生やした、やせた老人である。この華奢な小男が、世界一の強国、米国の侵略を撃退した英雄なのだから痛快だ。

ホー・チ・ミンは、当時フランス領インドシナと呼ばれていたベトナムのゲアン省の貧しい家庭に生まれた。父親は儒学者だった。小さいころから『論語』で中国語を勉強していたホーは、フランス語を学び、21歳のとき、外国船に料理人見習いとして乗りこんだ。
船員として世界をまわり、宗主国の首都パリで共産主義に目覚めたホーは、ソ連、中国をへて、51歳のとき、いまだ植民地だった母国にようやく帰国した。時は、第二次世界大戦、ナチス・ドイツが宗主国フランスを占領し、ベトナムへは日本軍が侵攻してきているころだった。この混乱を、ホーはベトナム独立の好機とみて、帰ってきたのである。
独立運動はなかなかはかどらなかったが、1945年、ホーが55歳のとき、日本が敗北し、第二次世界大戦が終わった。すると、ベトナムは一時、無政府状態となった。ホーはただちに国内をまとめ、ベトナム独立を宣言した。ところが、フランスをはじめとする連合国はこれを認めない。ホーたちは、ふたたび長い独立闘争に入った。
ベトナムは、植民地支配を復活させようとするフランスとの戦争状態に入り、この第一次インドシナ戦争のゲリラ戦をへて、1954年、ホーが64歳のとき、ジュネーヴ協定が結ばれ、フランスはついにベトナムから排除された。
しかし、それに代わって米国が名乗りをあげた。米国が南ベトナムに傀儡政権を立てて、ベトナム進出を目論んできた。これによって、ベトナムは南北に分断され、ホーの側は「北ベトナム」ということになった。米国が操る南ベトナム政府は、選挙もおこなわず、反対派を弾圧する独裁政権だった。
1960年、これに反対して、南ベトナム内には南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)が結成され、政府軍との内戦がはじまった。政府軍側には、増派された米軍が味方して加わり、反政府側のベトコンを、ホー・チ・ミンの北ベトナムが後押しする、という構図だった。
1964年、米国は「トンキン湾事件」を自作自演し、これを口実にベトナムへ本格介入。ベトナム戦争は泥沼化し、1965年、ホーが75歳のとき、米軍はついに北ベトナムへの爆撃を開始し、戦線は南北ベトナム全土に拡大された。
世界最強の米軍は、B52爆撃機を飛ばし、ナパーム弾を落とし、枯葉剤をまき、と、核兵器以外のほとんどの兵器を投入して戦いながら、中国・ソ連の援助を受けた北ベトナム・ベトコン軍になかなか勝てなかった。
一方で、バートランド・ラッセルら各国の知識人たちからのはげしい国際的非難を米国は浴びつづけ、米国内でもベトナム戦争反対の運動が盛んになってきた。
米軍は、カンボジアなど周辺諸国まで爆撃を拡大した後、ついに撤退を開始した。そんな1969年9月、ベトナム国民の不屈の精神のシンボルだったホー・チ・ミンは心臓発作により没した。79歳だった。
1975年4月に、南ベトナムの首都サイゴンが陥落し、北ベトナム側が勝利し、ベトナム戦争は終わった。南北ベトナムは統一され、サイゴンは「ホーチミン市」となった。2013年の現在にいたるまで米国は、ベトナムへ与えた戦争被害を、いまだに謝罪していない。

ゲバラ、カストロと並び、ホー・チ・ミンは、世界一の軍事大国・合衆国に負けなかった英雄である。彼は日本の植民地主義とも戦い、苦労した人だが、同じアジア人として、日本人も誇っていいと思う。そういう意味では、日本人の立場というのはとても複雑である。

ホー・チ・ミンは、こう言ったそうだ。
「いいかい、嵐というのは、松や糸杉がいかに強く、安定しているかを見せる、いい機会なんだよ」
米国を相手にして、このゆったりとした構えはすごい。
(2013年5月19日)



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5/18・「天性の教師」バートランド・ラッセル

2013-05-18 | 思想
5月18日は、琵琶湖の環境を研究した学者兼政治家の嘉田由紀子が生まれた日(1950年)だが、英国の哲学者、バートランド・ラッセルの誕生日でもある。
自分は、バートランド・ラッセルの本は、若いころからときどき読んできた。『幸福論』『西洋哲学史』『怠惰への讃歌』といった、一般人向けの本ばかりだけれど、とても共感するところが多かった。この極東の島国の片田舎に生まれた自分が、大英帝国の貴族の哲学者と意見が合うというのは、不思議な気がするけれど。

バートランド・アーサー・ウィリアム・ラッセルは、1872年、英国ウェールズのモンマスシア州で生まれた。3人きょうだいの末っ子で、彼が誕生したとき、祖父は伯爵、父親は子爵だった。
バートランドが4歳のころまでに、父母が相次いで亡くなり、彼は父方の祖父母に引き取られ、育てられた。この祖父が、元英国首相のジョン・ラッセル伯爵である。
ケンブリッジ大学を卒業し、フェローとなった彼は、そのまま大学で教鞭をとった。
38歳のとき、ホワイトヘッドとの共著『プリンキピア・マテマティカ(数学原理)』の出版開始。この本は、ことばの論理を記号化して、数学のような計算によって処理しようとする記号論理学を画期的に発展させた記念碑的作品である。
第一次世界大戦がはじまると、平和運動に力を入れ、国防法違反の有罪判決を受け、大学をクビになり、46歳のときには、反戦の演説をおこなって6カ月間投獄された。
1950年、78歳のとき、ノーベル文学賞受賞。受賞理由は、人道的理想や思想の自由を尊重する著作に対してだった。
83歳のとき、核兵器廃絶を訴える「ラッセル=アインシュタイン宣言」を発表。
89歳のとき、英国の核政策への抗議行動をおこない、生涯で2度目の投獄を経験した。
94歳のときには、ベトナムでの米国の戦争犯罪を裁く国際法廷を呼びかけ、いわゆる「ラッセル法廷」が開かれた。そうして、亡くなる3日前にも、イスラエル軍のエジプト侵攻を非難するなど、最後まで国際平和への積極的な発言を続け、1970年2月、インフルエンザで、ウェールズのメリオネスシア州の自宅で没。98歳だった。

ザ・ビートルズが人気絶頂だった1964年前後に、ポール・マッカートニーが、バートランド・ラッセル卿に会いに行ったという話がある。ポールは、ラッセルをテレビで見かけ、その著書を読んで感銘を受けた。ラッセルの電話番号を手に入れたポールは、
「もしもし、ビートルズのポール・マッカートニーですが、すこしお話を……」
と、いきなり電話をかけたのだった。
訪問の意向は承諾され、ポールはラッセルの自宅に出向いていった。そうして、当時92歳のラッセルは、70歳年下のポールに、ベトナム戦争は帝国主義的な戦争で、これに反対すべきだと語ったという。ポールは帰って、聞いてきた話をジョン・レノンに話した。ジョンがその後、反戦映画を撮り、反戦運動に力を入れだしたのは、その影響だという。
会う人ごとに自説を説き、世界の人々に向けて平和を訴えつづたラッセルという人は「天性の教師」であり、「人類の教師」だったと思う。
(2013年5月18日)


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5/17・エンヤの癒し効果

2013-05-17 | 音楽
5月17日は、仏国の作曲家、エリック・サティが生まれた日(1866年)だが、アイルランドの音楽家、エンヤの誕生日でもある。
はじめて聴いたエンヤの曲は、自分にとってうれしい不意打ちだった。いままで聴いたことのない、こんな個性的な音楽がまだあり得たとは。しかも、それがこんなに美しい音楽だとは……。

エンヤは、1961年、アイルランドのドニゴール県で生まれた。アイルランド語の発音に近い英語表記で、英語名をEnya Brennan (エンニャ・ブレナン)という。
エンヤは19歳のころから、音楽一家のきょうだいや叔父たちが組んだ親族バンドに参加し、キーボードとバックコーラスを担当していた。
21歳のとき、マネージャーといっしょにバンドを離脱して、ソロ活動をはじめた。
エンヤは25歳のとき、テレビのドキュメンタリー番組「ケルツ」のサンウンドトラック用に曲を書いた。これが英国のレコード会社の社長の目にとまり、アルバムの制作依頼が彼女のもとに舞い込んだ。そうして作られ、1988年、27歳のとき発表された「ウォーターマーク」は、世界的な大ヒットとなった。シングル曲「オリノコ・フロウ」も世界中でヒットした。彼女はこうコメントしている。
「ウォーターマークの成功にはびっくりしました。音楽が商業的なものだと考えたことがなかったので。それまで音楽は、自分にとってごく個人的なものだったので」
以後、「シェパード・ムーン」「メモリー・オブ・トゥリーズ」「ア・デイ・ウィズアウト・レイン」「アマランタイン」と、1曲の録音に数カ月かけ、新しいアルバムを発表するまでに5年ほどかかるという、スローペースで彼女は作品を発表しつづけてきた。

天井の高い教会で録音したかのような彼女の独特の音楽は、144チャンネルの音声を同時録音できるデジタルマルチトラッカーを使って、楽器や声の音を百回以上も重ねて録音して作られている。

エンヤの楽曲を聴いていると、幻想の泉にからだを浮かべているような、ぼんやりとしたいい気持ちになって、とても癒される。
これは、エンヤというアーティスト自身には直接関係のないことだけれど、米国などでは、マリファナを吸いながら聴く音楽として、エンヤは好まれるらしい。エンヤとか、喜多郎とか、あるいはジョン・レノンもそうだと思うけれど、彼らはドラッグと相性のいい音質、声質をもっていて、それが、彼らの楽曲が世界中でよく売れた一因にちがいないと、自分はひそかに信じている。これは、彼らの音や声の質が、人間の精神のある部分を、根本的なところで癒すヒーリング効果をもっている、そういうことなのではないか、と自分は考える。
(2013年5月17日)


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5/16・「クール」ロバート・フリップ

2013-05-16 | 音楽
5月16日は、「雨月物語」を撮った映画監督、溝口健二が生まれた日(1898年)だが、英国のミュージシャン、ロバート・フリップの誕生日でもある。
ロバート・フリップは、プログレッシブ・ロックの雄「キング・クリムゾン」のリーダーである。
自分は高校生のころからデヴィッド・ボウイのファンで、その延長線上でロバート・フリップの名を知った。ひじょうに頭が切れる人で、高度に知的に構成する音楽家という印象がある。

ロバート・フリップは、1946年、英国ドーセット州のウィンボーン・ミンスターで生まれた。
彼は21歳のとき、「歌えるオルガン奏者求む」というバンド・メンバーの募集広告を見て、自分は歌わないし、オルガン奏者でもないくせに、それに応募し、バンドに加入したのが、本格的な音楽活動のはじまりだった。そのバンドを解散した後、フリップは別のミュージシャンと新たにバンド「キング・クリムゾン」を結成。
1969年、フリップが23歳のときにファースト・アルバム「クリムゾン・キングの宮殿」を発表。まったく新しい衝撃と感動をもったロック・ミュージックを創造し、世界の音楽ファンに「プログレッシブ・ロック」という音楽ジャンルの誕生を強烈に印象づけた。
以後、「キング・クリムゾン」は、ロバート・フリップのみを唯一の存続メンバーとして、目まぐるしくメンバーを入れ替え、また長い休止期間をとりながら2011年まで続いた。
ロバート・フリップは、そのほかに、ブライアン・イーノ、デヴィッド・ボウイ、ピーター・ガブリエル、デヴィッド・シルヴィアンなどとアルバムを作り、さまざまな音楽の実験に参加し、マイクロソフト社のWindows Vistaの起動音を作曲するなど、幅広い活動をしてきた。
2012年、66歳のときのインタビューで、ロバート・フリップは、現役ミュージシャンとしての活動から引退する旨を宣言し、こう述べたという。
「音楽産業のなかで働くことは『喜びをともなわない無益な活動』になってしまった」

ロバート・フリップのCDは、たくさん持っている。彼の音楽は、すべて大好きで、LPレコードのジャケットいっぱいに赤ら顔の人の顔が描かれたアルバム「クリムゾン・キングの宮殿」をはじめて聴いたときの衝撃は忘れられないし、デヴィッド・シルヴィアンと彼が作った「ザ・ファースト・デイ」など何度聴いたか知れない。

ロバート・フリップが、キング・クリムゾンの一員として、ステージで演奏しているライブ映像を見たことがある。演奏していたのは、「太陽と戦慄パート2(原題の意味は『アスピック(だし汁を固めたゼリー)のなかのヒバリの舌・パート2』」という緊張感の持続する名曲だったが、これも衝撃的だった。
ロック・ギタリストといえば、首を振ったりして、なんらかのステージ・パフォーマンスをするのが常だけれど、ロバート・フリップは、椅子にすわって、無表情で淡々と演奏していた。観客に愛嬌のかけらもふりまかない。こんな人は、ほかにいない。クラシックのオーケストラの弦楽器奏者でさえ、もうすこしからだで感情を表現すると思う。
あれには、まいった。まったく、ロバート・フリップはクールだ。
(2013年5月16日)


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『12月生まれについて』
ゴダール、ディズニー、ハイネなど、12月誕生の31人の人物評論。ブログの元のオリジナル原稿収録。12月生まれの取扱説明書。


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5/15・西東三鬼の現代性

2013-05-15 | 文学
5月15日は、婦人参政権実現に奔走した婦人運動家、市川房枝が生まれた日(1893年)だが、俳人、西東三鬼の誕生日でもある。
自分には、好きな俳人、俳句はたくさんあるけれど、西東三鬼の詠む句ほど、個性が強く光っていて、それが時空を超えて、この胸に刺さってくるような俳句を作る人はあまりいない。三鬼は、大好きな俳人のひとりである。

西東三鬼は、1900年、岡山県の現在の津山市で生まれた。本名は、斎藤敬直といった。
歯科医の専門学校に進んだ彼は、学校を卒業後、25歳のとき、シンガポールにわたって歯科医を開業した。が、現地での反日運動が激しくなったため、帰国した。
以後、東京、神戸、大阪などに住んで、開業医、大学付属病院の勤務医などとして、医業をつづけた。
歯科医稼業のかたわら、彼は「西東三鬼」の名で、俳句の伝統や、しばしば季語を無視した斬新な俳句を発表しつづけた。
反戦の句も詠んだため、太平洋戦争開戦前の1940年には、特高警察につかまったが、そのときは、句作を中止する条件をのんで起訴をまぬがれた。
戦後は、総合誌「俳句」の編集長を務めた後、1962年4月、胃ガンのため没した。61歳だった。

はじめて、西東三鬼の俳句を、すごいっ、と思ったのは、つぎの句を見たときだった。

「機関銃眉間ニ赤キ花ガ咲ク」

このどぎつい、独特の感覚はすばらしい。脱帽した。
戦争の冷酷さを、冷徹に詠んだ句ということなのだろうけれど、当時の戦意高揚の風潮とはおよそ相いれない作風で、まあ、反戦句と言っていいと思う。こういう句が、特高警察ににらまれたのである。三鬼には、ほかにこういうものもある。

「パラシュウト天地ノ機銃フト黙ル」

「逆襲ノ女兵士ヲ狙ヒ撃テ」

西東三鬼は、戦争関係の句だけがすぐれているのでなく、その鋭い感覚は艶っぽい方面でもひらめきを見せている。

「おそるべき君等の乳房夏来る」

「滝の前処女青蜜柑吸ひ吸へという」

こういう俳句を見ると、自分など、背筋がぞくぞくする。とても、昔の人の句と思えない。現代にもってきても、まったく斬新で、みずみずしいと思う。
西東三鬼の鋭い感性、個性的な表現力を見習いたい。
(2013年5月15日)


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『出版の日本語幻想』
編集者が書いた日本語の本。編集現場、日本語の特質を浮き彫りにする出版界遍歴物語。「一級編集者日本語検定」付録。


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5/14・ロバート・オーウェンの理想

2013-05-14 | 歴史と人生
5月14日は、フィールズ賞を提唱したカナダ出身の数学者、ジョン・フィールズが生まれた日(1863年)だが、社会事業家、ロバート・オーウェンの誕生日でもある。
自分は学生時代からコミュニティーについて勉強していて、ロバート・オーウェンのことはよく知っていた。彼は、当時もいまも、自分がもっとも尊敬する人物のひとりである。

ロバート・オーウェンは、1771年、英国、北ウェールズのニュータウンで生まれた。父親は馬具・金物商だった。
彼は10歳のとき、スタンフォードの呉服屋へ丁稚奉公に出た。それをふりだしに、オーウェンは、服問屋勤め、紡績工場の共同経営者などをへて、28歳のころには、ニューラナークにある大工場の共同経営者となった。やがてそこの単独経営権を手にした。すると、彼は工場労働者の給料を上げ、職場の環境と住居環境を整備し、子どもたちのために学校を造り、修学前の幼児のための学校も用意した。そうして、彼のニューラナークは業績がよく、労働環境もよいという、世界の工場経営のお手本となった。無一文からスタートしたオーウェンは、大富豪となった。
オーウェンは、54歳のとき、資産を投じて、米国インディアナ州で「ニュー・ハーモニー」というコミュニティーをはじめた。適度な労働と余裕のある人間らしい暮らし、教育と娯楽、そして教養にあふれた人たちとの社交など、人間が理想とする生活の要素が、ひとつコミュニティーのなかにそろっている。そんなオーウェン流のユートピアの実現だった(金原義明『コミュニティー 世界の共同生活体』参照)。
オーウェンは、1858年11月、故郷のニュータウンで没した。87歳だった。

自分は、オーウェンについて書かれた日本語の本はだいたい読んでいるつもりである。
オーウェンの時代には、現代とは比べ物にならないくらい、労働者をすこしでも長く安くこき使おうとする経営者が多かった。経営者たちは、大人は言うに及ばず、子どもでも一日十時間以上働かせて平気でいた。国もそれを放置していた。また、企業を立ち上げたら、さっさと高く売って手を引く、そういう資本家も、現代同様に多かった。
けれども、オーウェンは、そうした金儲け主義を嫌い、労働者がよい環境で労働、生活してこそ、生産性は上がるし、生産性が上がれば、労働者の環境はもっとよくなる、という信念を曲げなかった。そうして、昨今の「ブラック企業」「派遣切り」「サービス残業」「社員使い捨て」など、採算のために人間を切り捨てる効率主義とは、まったく正反対をゆく経営で、みごと大成功を収めた。そうして得た富を、さらに社会のために使った。

オーウェンほどえらい人はなかなかいない、という気がする。
彼が目指した社会的理想、要するに、
「人間が人間を使い捨てにしない、みんなが人間らしい暮らしをする社会」
その実現のために、自分もなんらかの形で、わずかでも力になりたいと思う。
(2013年5月14日)



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5/13・マリア・テレジアの恋愛結婚

2013-05-13 | 歴史と人生
5月13日は、米国のミュージシャン、スティーヴィー・ワンダーが生まれた日(1950年)だが、女帝、マリア・テレジアの誕生日でもある。
マリア・テレジアは神聖ローマ帝国に君臨したハプスブルク家の女丈夫で、フランス革命で処刑されたあのマリー・アントワネットの母親である。
高校時代、世界史で勉強して、この偉大な女性のことは知ってはいたが、あらためてその生涯をたどってみると、大変な時代に生きた、強い自己を持った女性だとわかる。

マリア・テレジアは、1717年、神聖ローマ帝国(現在のオーストリア)のウィーンで生まれた。父親は、神聖ローマ皇帝カール6世。
ところで、当時のヨーロッパの様子は、おおよそこんな具合だった。
現在のドイツ、オーストリアのあたりは、当時、神聖ローマ帝国の領土だった。その帝国の皇帝を代々務めていたのが、彼女の生まれたハプスブルク家で、ハプスブルク家は、スペインの王室と婚姻関係を結んで、一族でもってスペインとドイツ、オーストリアを支配する恰好になっていた。
マリアには兄がいたが、早く死んでしまい、ほかに男の兄弟がいなかった。父親が亡くなると、彼女が家督を継ぐことになった。ところが、いざ家督を継ごうとすると、たちまちあちこちから反対の声があがった。
「女が継ぐのは認めない。うちもハプスブルク家とは血がつながっている。うちのところは、うちの男子が継いで独立させてもらう」
そう言って、ザクセン公、バイエルン公、スペイン王が反旗をひるがえし、彼らの後ろには、フランスのブルボン家(ルイ王朝)がひかえ、プロイセン王が混乱に乗じて乗りこんできた。
マリア・テレジアは譲歩せず、戦争に踏み切った。これがオーストリア継承戦争である。彼女は子どもを身ごもっていたが、よく国民の士気を鼓舞し、財政面、外交面でも手腕を発揮して、よく戦時体制を支えた。
内政面では、国内に小学校を作り、義務教育とし、全国民に兵役義務を課し、兵隊に給料を出した。これによって、国民の知的水準が上がり、軍隊の士気が上がった。
政治に奔走しながら、彼女は男子5人を含む、16人の子を産んで育てた。男の子は各地の領地の王となり、娘たちは各国の大公や王のもとへ政略結婚で嫁にやられたが、そのなかで、フランスのルイ16世のもとへ嫁したのがマリー・アントワネットだった。長らく対抗関係にあったブルボン家とハプスブルク家とが婚姻関係で結ばれる歴史的結婚だったが、それも、フランス革命という時代に立ち上がった大波に呑みこまれてしまう。
マリア・テレジアは、 1780年11月に没している。63歳だった。

子女はすべて政略結婚、というのが常識の王室内にあって、マリア・テレジアは例外で、彼女は恋愛結婚だった。小さいときから従兄のフランツに夢中になり、ついに19歳のときに彼と結婚。夫のフランツは、神聖ローマ皇帝に即位し、フランツ1世となった。が、実際の政治は、妻のマリア・テレジアが仕切り、フランツはかやの外だった。妻がハンガリー女王として戴冠式に望んだ際には、夫の彼は式場へさえ入れてもらえなかった。観劇に出かけても、格下の席にすわらされた。宮廷内での無礼や、いやがらせは日常のことだった。
やり手の女房をもつと、いかに夫の存在がかすむかという見本だが、フランツは冷たい仕打ちに耐えて生き、1765年に没した。享年56歳。マリアが48歳のときだった。
夫の死を悲しんだマリアは、自分の衣裳をすべて宮廷の女官たちに分け、自分は以後、亡くなるまで喪服しか着なかったという。彼女は、すぐれた指導力を発揮した政治家であるとともに、愛した夫と添い遂げた、まさに自己を貫いた女性でもあったと思う。
(2013年5月13日)


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