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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

5/13・マリア・テレジアの恋愛結婚

2013-05-13 | 歴史と人生
5月13日は、米国のミュージシャン、スティーヴィー・ワンダーが生まれた日(1950年)だが、女帝、マリア・テレジアの誕生日でもある。
マリア・テレジアは神聖ローマ帝国に君臨したハプスブルク家の女丈夫で、フランス革命で処刑されたあのマリー・アントワネットの母親である。
高校時代、世界史で勉強して、この偉大な女性のことは知ってはいたが、あらためてその生涯をたどってみると、大変な時代に生きた、強い自己を持った女性だとわかる。

マリア・テレジアは、1717年、神聖ローマ帝国(現在のオーストリア)のウィーンで生まれた。父親は、神聖ローマ皇帝カール6世。
ところで、当時のヨーロッパの様子は、おおよそこんな具合だった。
現在のドイツ、オーストリアのあたりは、当時、神聖ローマ帝国の領土だった。その帝国の皇帝を代々務めていたのが、彼女の生まれたハプスブルク家で、ハプスブルク家は、スペインの王室と婚姻関係を結んで、一族でもってスペインとドイツ、オーストリアを支配する恰好になっていた。
マリアには兄がいたが、早く死んでしまい、ほかに男の兄弟がいなかった。父親が亡くなると、彼女が家督を継ぐことになった。ところが、いざ家督を継ごうとすると、たちまちあちこちから反対の声があがった。
「女が継ぐのは認めない。うちもハプスブルク家とは血がつながっている。うちのところは、うちの男子が継いで独立させてもらう」
そう言って、ザクセン公、バイエルン公、スペイン王が反旗をひるがえし、彼らの後ろには、フランスのブルボン家(ルイ王朝)がひかえ、プロイセン王が混乱に乗じて乗りこんできた。
マリア・テレジアは譲歩せず、戦争に踏み切った。これがオーストリア継承戦争である。彼女は子どもを身ごもっていたが、よく国民の士気を鼓舞し、財政面、外交面でも手腕を発揮して、よく戦時体制を支えた。
内政面では、国内に小学校を作り、義務教育とし、全国民に兵役義務を課し、兵隊に給料を出した。これによって、国民の知的水準が上がり、軍隊の士気が上がった。
政治に奔走しながら、彼女は男子5人を含む、16人の子を産んで育てた。男の子は各地の領地の王となり、娘たちは各国の大公や王のもとへ政略結婚で嫁にやられたが、そのなかで、フランスのルイ16世のもとへ嫁したのがマリー・アントワネットだった。長らく対抗関係にあったブルボン家とハプスブルク家とが婚姻関係で結ばれる歴史的結婚だったが、それも、フランス革命という時代に立ち上がった大波に呑みこまれてしまう。
マリア・テレジアは、 1780年11月に没している。63歳だった。

子女はすべて政略結婚、というのが常識の王室内にあって、マリア・テレジアは例外で、彼女は恋愛結婚だった。小さいときから従兄のフランツに夢中になり、ついに19歳のときに彼と結婚。夫のフランツは、神聖ローマ皇帝に即位し、フランツ1世となった。が、実際の政治は、妻のマリア・テレジアが仕切り、フランツはかやの外だった。妻がハンガリー女王として戴冠式に望んだ際には、夫の彼は式場へさえ入れてもらえなかった。観劇に出かけても、格下の席にすわらされた。宮廷内での無礼や、いやがらせは日常のことだった。
やり手の女房をもつと、いかに夫の存在がかすむかという見本だが、フランツは冷たい仕打ちに耐えて生き、1765年に没した。享年56歳。マリアが48歳のときだった。
夫の死を悲しんだマリアは、自分の衣裳をすべて宮廷の女官たちに分け、自分は以後、亡くなるまで喪服しか着なかったという。彼女は、すぐれた指導力を発揮した政治家であるとともに、愛した夫と添い遂げた、まさに自己を貫いた女性でもあったと思う。
(2013年5月13日)


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