1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

5/12・クリシュナムルティの目

2013-05-12 | 思想
5月12日は、伝説の看護士、フローレンス・ナイチンゲールが生まれた日(1820年)だが、インド生まれの思想家、クリシュナムルティの誕生日でもある(異説あり)。
自分がクリシュナムルティをはじめて知ったのは学生時代で、米国作家のヘンリー・ミラーがエッセイ『わが読書』のなかで、彼について書いていたからだった。それからずいぶんたって、意外なところで「クリシュナムルティ」に再会した。
もう亡くなった友人だが、あるとき、米国ヴァージニア州で米国人の男と知り合い、意気投合した。彼と夜、話し込んでいる折、ふと思い当たって、自分は彼にこう言った。
「きみの言うことは、クリシュナムルティが言っているのに、すこし似ているね」
すると、彼はにっこり笑って立ち上がり、本棚から一冊の本をとりだしてきて見せた。クリシュナムルティの『生と覚醒のコメンタリー』だった。

ジッドゥ・クリシュナムルティは、1895年、南インドのチェンナイに近い町に生まれた。父親は宗主国、英国の下で働く徴税局の役人だった。
さて、1875年にニューヨークで創立された「神智学協会」という組織がある。これは、宗教や科学、哲学の研究を通して、人種、信条、性別、階級のちがいにとらわれない、人類愛の中核とならんとする神秘主義の結社だった。この「神智学協会」が、来るべき、世界の教師となる存在がこの世に降臨する際に備えて、その存在を受け入れる「器」として、適任者を世にさがし求め、吟味して一人の少年を選んだ。それが14歳のクリシュナムルティだった。彼は協会による英才教育を受け、彼が16歳のとき、クリシュナムルティを指導者とする「星の教団」が設立された。
1929年、34歳のとき、クリシュナムルティは団員が3000人あまりいた「星の教団」の解散を、みずから宣言した。
「真理の追求は組織によってはあり得ない。人は、何者にも追従しない、すべてから解放された自由な人間であるべきだ」
というのである。解散後、彼は、信奉者から差しだされた莫大な財産贈与をすべて断り、著述活動をしてすごした。
1986年2月、すい臓ガンのため、米国カリフォルニア州で没。90歳だった。

若いころのクリシュナムルティは、その昔、SMAPの一員だったころの森且行くんにちょっと似ている。ただし、クリシュナムルティは、年老いてからのほうがもっと美しい。彼の写真を見るたびに、
「なんて美しい目をした人だろう」
と、うっとりとしてしまう。
クリシュナムルティの言うことは、すべて真実である。ことばだけでなく、彼の人生も言行が一致していて美しい。
実際には、その言うところはもっともだとは思いつつ、彼の言う通りにはなかなか生きられないのが、またつらいところなのだけれど、それはおいても、クリシュナムルティには、大切なことをたくさん教わった。そのうちで、いちばんよく覚えているのは、正確ではないけれど、おおよそこういう意味のことばである。
「一瞬一瞬を死ぬべきだ。人は過去の記憶を思い出すから、気分が暗くなるのだ。一瞬一瞬に死んで、過去などきれいさっぱり忘れて、明るい気持ちで行きていくべきだ」
まったくその通りだと思う。自分も、あんなきれいな目を手に入れたい。
(2013年5月12日)


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5/11・ダリの茶目っ気

2013-05-11 | 美術
5月11日は、岐阜県長良川の鵜飼がはじまる「飼開き」の日だが、この日はスペインの画家、サルバドール・ダリの誕生日でもある。
自分は、若いころからダリが好きで、できるかぎりダリの作品を見るようにしてきた。映画も観た。時計がくにゃりと曲がり、キリンの首に引きだしがあって、松葉杖があてがわれたダリの超現実的な絵は、現実にはあり得ない絵なのだけれど、そこに描かれたひとつひとつのものは、写真のように現実的で、写真以上に美しい。そんな超現実的で現実的というアンバランスな彼の絵には、なんともいえない謎めいた魅力があって、その作品の前に立つと、なかなかそこから離れられない。

サルバドール・ダリは、1904年、スペイン、カタルーニャ地方のフィゲーラスで生まれた。本名は、サルバドー・ドメネク・ファリプ・ジャシン・ダリ・イ・ドメネク。父親は公証人で、比較的裕福な家庭だった。
ダリは18歳のとき、美術学校に入学し、そのころ、詩人のガルシア・ロルカ、映画監督のルイス・ブニュエルらと友だちになった。
23歳のとき、仏国パリへ行き、ピカソ、トリスタン・ツァラ、ポール・エリュアール、ルイ・アラゴン、アンドレ・ブルトンなどと知り合い、ダリもシュールレアリスムの画家とみなされるようになった。
24歳のとき、ブニュエルといっしょに映画「アンダルシアの犬」を発表。
25歳のとき、詩人のポール・エリュアールの妻だった女性、ガラ(ロシア人女性、エレナ・イヴァノヴナ・ディアコノワ)と、ダリは恋に落ち、後に結婚。ガラは、ダリのモデル兼、マネージャー兼、美の女神となった。
ダリは、ダリ自身が言うところの「偏執狂的批判的方法」で、夢を題材にした、美しいが奇妙な、不思議な絵をたくさん描き、世界的な名声を博した。
1989年1月、スペインのフィゲラスで、心不全のため没。84歳だった。

ニューヨークにある「記憶の固執」、サンフランシスコで見た「目覚めの直前、石榴のまわりを一匹の蜜蜂が飛んで生じた夢」、ワシントンDCにあった「最後の晩餐」、池田20世紀美術館の「キリン」など、ダリの作品はどれもよかった。ダリは描く技術が高く、意匠が凝っている。
ダリは、ラファエロや、フェルメールが大好きで、とても尊敬しているようだ。
「ラファエロにはすべてがあった」(同前『わが秘められた生涯』)
「私は気はふれていないが、それでも直ちに左手を切り落とすくらいのことはできる。ただし条件がある。イーゼルに向かって座り絵を描くフェルメールを、十分間そばで観察させてもらう、というのがその条件だが、納得できる条件ではいなか?」(同前『ダリ・私の50の秘伝』)

ダリは、絵画以外に、文章もすごく上手である。彼の書く文章は読者へのサービス精神にあふれている。これは、彼の絵画にも通じる気がする。
ダリは37歳のとき、自分の来し方を振り返ってこう書いている。
「六歳のとき、私はコックになりたかった。七歳で、ナポレオンになりたいと思った。それ以来今日にいたるまで、私の野心はますます大きくなる一方である」(安達康訳、滝口修造監修『わが秘められた生涯』新潮社)
自分はダリの、快活で茶目っ気のあるところが好きだ。
(2013年5月11日)



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カラー絵本。ある日、降りはじめた雨は、いつまでもやまずに……。不思議な雨の世界。


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5/10・フレッド・アステアの優雅

2013-05-10 | 個性と生き方
5月10日は、語呂合わせで「コットンの日」。 コットンの入った夏物衣料販売は5月に最盛期を迎えるというが、この日は、「ザ・ダンサー」こと、フレッド・アステアの誕生日でもある。
自分は、子どものころ、アステアの優雅さにあこがれて、よく彼のダンスをまねしたものだった。

フレッド・アステアは1899年5月、米国ネブラスカ州オマハで生まれた。母親は米国生まれで、父親はオーストリアからのユダヤ系移民(カトリック教徒)だった。4歳からダンス学校に通っていたフレッドは、子どものころからダンサーとして米国内各地を巡業し、17歳でブロードウェイにデビュー。
20歳のときにはすでにブロードウェイのスターだった。
ハリウッド映画界の「キング」クラーク・ゲイブルの紹介で映画界入り。映画会社への自己紹介文には、つぎのような旨が書かれてあった。
「歌はだめ。演技もだめ。踊りなら少々」
34歳のとき、映画デビュー。ジンジャー・ロジャースと名コンビを組んで、数々のミュージカル映画に主演、洗練された華麗なダンスで人々を魅了した。アステアが最初に契約した映画会社は傾き、つぶれかかっていたが、アステアの映画があたり、一気に経営を持ち直したという。
「トップ・ハット」
「踊らん哉」
「踊るニューヨーク」
「晴れて今宵は」
「ブロードウェイのバークレー夫妻」
「ロイヤル・ウェディング」
「バンド・ワゴン」
「足ながおじさん」
「パリの恋人」
などに出演。ジンジャー・ロジャースのほか、エレノア・パウエル、リタ・ヘイワース、オードリー・ヘップバーンなどとも華やかに踊った。
75歳のとき、「ザッツ・エンタテインメント」「タワーリング・インフェルノ」に出演し、健在ぶりを見せつけた後、1987年6月に肺炎のため没。88歳だった。

かのマイケル・ジャクソンも、アステアの大ファンで、子どものころ、妹のジャネット・ジャクソンといしっょになって彼のまねをしていたという。太平洋の向こうにも、自分と同じようなことをしているやつがいたのである。
マイケル・ジャクソンが、1983年の「モータウン25周年コンサート」を放映したテレビ番組で、「ビリー・ジーン」を歌い、そのなかで伝説となったムーン・ウォークをはじめて披露し、世界をあっと言わせたとき、そのすぐ後で、84歳のアステアがマイケルに直接電話をかけてきたそうだ。あこがれの人にダンスを褒められ、マイケルはとても喜んだらしい。フレッド・アステアに踊りを褒められたら、それはもう、光栄とか名誉とか、そういう次元の話ではない。

自分はフレッド・アステアの映画はかなり観たし、DVDももっている。伝記も読んだ。彼のやわらかにしなるひざや、軽やかなステップは、まねしようとして、なかなかまねできないものだが、本を読んで、ようやくその秘密がわかった。アステアという人は完璧主義者で、踊りは練習に練習を重ねて、ついに、涼しい顔で、何かのついでに楽々と踊っているかのように見えるくらいまで練習する人なのだった。スクリーン上で観る、あの洗練と優雅は、そうした地道な訓練の上に成ったものなのである。
日々堕落していくばかりの自分の肉体をかえりみるにつれ、アステアのあの優雅なダンスへのあこがれはつのる。優雅さを得るためには、練習が必要である。その前に、まず準備体操が必要である。
(2013年5月10日)


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フレッド・アステア、マキャヴェリ、フロイト、クリシュナムルティ、ロバート・オーウェン、ホー・チ・ミン、バルザック、ドイル、中島敦、吉村昭、西東三鬼、美空ひばりなど、5月生まれ31人の人物論。ブログの元になった、より長く深いオリジナル原稿版。

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5/9・ビリー・ジョエルの永遠的な美

2013-05-09 | 音楽
5月9日は、『ピーター・パン』の作者、ジェームス・バリーが生まれた日(1860年)だが、米国のシンガーソングライター、ビリー・ジョエルの誕生日でもある。
自分がビリー・ジョエルの名をはじめて聞いたのは、彼のアルバム「ストレンジャー」が発売された1970年代後半だった。一編の映画を観たような気分にさせる、独特の雰囲気をもったタイトル曲「ストレンジャー」は巷で流れまくっていたし、アルバムも大ヒットしていた。外国のアーティストのレコードやCDは、日本ではたとえよく売れたとしても、日本人アーティストと比べれば、ぜんぜんすくないのが相場だけれど、「ストレンジャー」は例外で、当時レコード店へ行くと、「当店の売り上げ総合ランキング・トップ20」などと書いてあって、日本のアイドルや演歌歌手を抑えて、ビリー・ジョエルの「ストレンジャー」が堂々一位に君臨していて驚いたものだった。日本であんなに売れた外国人ミュージシャンは、ほかにノーランズくらいのもではないかと思う。

ビリー・ジョエルは、1949年、米国ニューヨーク州で生まれた。両親はともにユダヤ系で、父親はドイツから越してきた移民だった。
小さいころから母親に言われてピアノを習わされたビリーは、十代の一時期はボクシングに熱中していて、かなり強かったらしい。
ビリーは、高校を中退して、音楽の道一本にしぼった。そうして、22歳のとき、レコード会社と契約し、アルバム「コールド・スプリング・ハーバー」でデビューした。しかし、このデビューアルバムは、レコード会社が元音源のテープの回転速度をまちがえて速くまわし、ビリーの声が本来より半音高い変なレコードになってしまった。そんなことも世の中にはあるのだ。
その後、レコード会社を移ったビリーは、24歳のとき、アルバム「ピアノ・マン」を発表。これが大ヒットとなり、以後、
「ストレンジャー」
「ニューヨーク52番街」
「グラス・ハウス」
「ナイロン・カーテン」
「イノセント・マン」
などの名盤を発表。世界的なシンガーソングライターとなった。

自分はビリー・ジョエルの曲は大好きで、おそらく全部聴いていると思う。そのうちの2曲をピアノで弾き語りできる。CDもたくさんもっている。
ビリー・ジョエルの曲の第一の特徴は、メロディーが美しいことである。とくに1970年代の「ピアノ・マン」「ストレンジャー」「素顔のままで」「オネスティ」など、とても美しい。当時の奥さんに捧げたグラミー賞受賞曲「素顔のままで」など、同時代に流行ったほかのアーティストの曲とあらためて聴き比べてみると、不思議なことにこの曲だけが、まったく古さを感じさせない。ビリーの楽曲は、何十年たっても古さを感じさせない、ある普遍的な「永遠的」とでも呼ぶべき美しさを備えていると思う。
ビリー・ジョエル。まったく、すばらしい才能に恵まれたメロディーメイカーだ。
(2013年5月9日)



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5/8・澁澤龍彦の夢遊感

2013-05-08 | 文学
5月8日は、赤十字の創始者、アンリ・デュナンが生まれた日(1828年)だが、日本の文学者、澁澤龍彦の誕生日でもある。
自分は澁澤龍彦をいちど見かけたことがある。東京、神田の三省堂書店でサイン会を開いていて、彼はテーブルにつき、並んだお客が差しだす自分の本にサインをしていた。黒いコートを着たまますわっていて、コートのなかに埋もれ、首にマフラーを巻いた、小さい、桜色の顔をした人だった。いかにも頭で仕事をしているインテリ風で、からだはひ弱そうに見えた。
「これがあの膨大な作品群を書いた人なんだ」
自分は感慨深かった。おそらく、彼が亡くなる前の年だったのではないかと思う。

澁澤龍彦は、1928年、東京で生まれた。父親は銀行員だった。
彼の家は、帝国ホテルや東京証券取引所などを創業させた、あの渋沢栄一の遠縁にあたり、龍彦は渋沢栄一に抱っこしてもらったこともあるという。
龍彦は、戦後、東大の文学部仏文科に進んだ。卒論は「サドの現代性」だった。
マスコミ志望だったが、結核にかかったこともあって就職に失敗した彼は、フランス文学の翻訳や、小説を書いて生計を立てる生活に入った。
マルキ・ド・サド作品のほか、ジャン・コクトー、ジョルジュ・バタイユの作品を翻訳し、そのほか、フランスの文学や文化を紹介する評論を多く書いた。
33歳のころには、翻訳出版したサドの『悪徳の栄え』が、わいせつ文書とされ、検察との長い法廷闘争を戦った。
1987年8月、喉頭ガンの療養中に頚動脈瘤の破裂により没。59歳だった。
小説に『エピクロスの肋骨』『唐草物語』『ねむり姫』『うつろ舟』『高丘親王航海記』などがある。

幻想、オカルト、猟奇を好むロマンの人、澁澤龍彦は、日本でも特異な地位を占める文学者で、自分は学生のころから好きで、彼の書いたものをずっと読んできた。彼の本はたくさん持っているが、翻訳ではとくにバタイユの『エロティシズム』、コクトーの『大胯びらき』に感心した。『エロティシズム』は、以前にほかの仏文の大学教授が訳したものを読んだことがあったけれど、そちらはおそらく訳者が原文の意味がわからぬまま、ただ対応しそうな日本語を並べてみたのだろう、というひどい出来で、澁澤龍彦訳が出て、はじめて意味の通じる日本語になったと思う。『大胯びらき』のほうは、もう何度読み返したか知れない。
小説では、泉鏡花賞を受賞した『唐草物語』や、読売文学賞受賞作の『高丘親王航海記』など、澁澤龍彦以外には書けない独特の妙味があって、すばらしいと思う。たとえば『唐草物語』の「空飛ぶ大納言」は、平安時代の蹴鞠の達人の話なのだけれど、「ひとたび蹴りはじめると、妖魔にでも取り憑かれたかのごとく病みつきに」なるという蹴鞠に、読んでいるうち、いつの間にか自分も魅了され、のめりこんでしまう。そして、つい、うっとりとなって、自分も鞠といっしょに舞い上がっていくかのような浮遊感を感じる。現実からふわりと飛び立ち、異次元へ迷い込んで、美しくも妖しい夢を見させてくれる、そんな「夢遊感」が彼の作品にはある。澁澤龍彦は、あの、およそ頑丈そうでない華奢なからだで、幻想の一大帝国を築き上げた、知力の巨人だったと思う。
(2013年5月8日)



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5/7・「エビータ」エバ・ペロンの有能

2013-05-07 | 歴史と人生
5月7日は、昭和天皇をして「美濃部博士の言う通りではないか」と言わせしめた天皇機関説の美濃部達吉が生まれた日(1873年)だが、アルゼンチン国民のヒロイン「エビータ」こと、エバ・ペロンの誕生日でもある。
自分がエビータの名前をはじめて知ったのは、彼女の生涯をモデルにしたミュージカル「エビータ」の劇中挿入歌「アルゼンチンよ、泣かないで (Don't Cry for Me, Argentina)」によってだった。とても美しいメロディで、耳に残った。
アルゼンチンの大統領夫人、エビータが、病気で死期が近づいた折、国民に向かって、
「アルゼンチン人よ、わたしのために泣かないで」
と歌いかける悲しい歌である。

「エビータ」の愛称で親しまれるマリア・エバ・ドゥアルテ・デ・ペロンは、1919年、アルゼンチンのロス・トルドスで生まれた。母親は25歳の未婚女性で、父親はべつに妻子のある家庭をもつ農場主だった。つまり、エバは、不倫の愛人が産んだ私生児だった。エバが7歳のとき、父親が亡くなり、未亡人となった正妻からうとんじられ、エバ母子は貧困の底へ突き落とされた。
エバは、15歳のとき、家出をして、首都ブエノスアイレスに出た。彼女は、水着のモデルなどをした後、しだいに仕事の幅を広げ、ラジオドラマの声優、映画女優として活躍しだした。
24歳のころ、出席したパーティーで、軍人のフアン・ドミンゴ・ペロン大佐に出会い、恋仲になった。ペロン大佐は、当時のアルゼンチン軍事政権の副大統領を務める大物で、最初の妻と死別し、独身だった。彼女はラジオを通じて、彼のために政治宣伝活動をおこない、二人は貧困層を中心に大きな支持を得るようになった。
第二次大戦集結の年である1945年の10月、米国の支援を受けた将軍によるクーデターが起きた。将軍はアルゼンチンの政権を奪取し、ペロンは逮捕、拘束された。このとき、エバはラジオを通じて、人々に抗議のデモを呼びかけ、その抗議運動の高まりに屈して、将軍は政権を放棄し、ペロンは拘束後4日目に釈放された。
釈放されるとすぐに、ペロンとエバは結婚。盛り上がる貧困層の圧倒的な人気を背景に、ペロンは翌年の大統領選挙で当選した。ここに、エバ大統領夫人が誕生。極貧の私生児だった、ろくに学校も出ていない娘が、26歳にしてファーストレディーの地位にのぼり詰めたのである。
夫のペロン大統領は、賃上げなど労働者の労働環境を改善し、女性に参政権を与え、外資企業を国有化する政策を打ちだす一方で、自分に反対する者に対してはきびしく取り締まり、逮捕して強制収容所に入れ、独裁者として君臨した。
一方、ファーストレディとなったエバは、慈善団体「エバ・ペロン財団」を設立し、労働者用の住宅、孤児院、養老院などの施設を整備し、ミシン、毛布、食料などの生活物資を配布して、貧しい労働者階級からのペロン政権と彼女自身の人気を圧倒的なものにした。
上流階級、知識人層、保守層などからは、彼女は「成り上がり者」「商売女」などと非難も浴びた。
28歳のときには、大統領夫人として、ヨーロッパを歴訪し、各国の元首と交流し、国家間の関係改善をはかった。
アルゼンチンは、経済状況がなかなか改善されないなか、「エビータ人気」だけは変わらず高かった。そんななか、彼女が子宮ガンにかかっていることが発覚し、1952年7月に没した。33歳の若さだった。首都ブエノスアイレスでおこなわれた葬儀には数十万の市民が参列した。

自分は、マドンナが主演した映画「エビータ」を観た。思えば、マドンナも、道ばたに落ちいてるフライドポテトの袋を拾って食べ、ヌードモデルなどをしてその日をしのぐ生活から、強烈な意志をもってはい上がり、世界的スターに成り上がった女性で、「エビータ」エバ・ペロンと似通っている部分がある。おそらくマドンナ自身もこの役を演じるにあたっては、そうとうな思い入れがあったにちがいない。マドンナ自身、美しく、脂の乗りきった勢いのあった時期で、演技に迫力があった。彼女の歌う「アルゼンチンよ、泣かないで」もよかった。
この映画を観て、自分ははじめて、「アルゼンチンよ、泣かないで」がどういう意味の歌なのかを知った。

エビータの一生をざっとながめて思うのは、たくましい、ガッツのある女性の立派な生きざまだったということで、若くして燃え尽きたのが、彼女の印象を美化している部分もあるだろうけれど、やはりもっと長生きしてほしかったと残念である。
「夫のペロンを大統領にしたのは、彼女だった」
そう言っていいと思う。彼女がいなかったら、ペロンは刑務所のなかで暗殺されていたかもしれない。
そして、晴れてファーストレディとなったエビータが、大統領職にある夫の援護射撃役をになったのはとうぜんのことで、女性の参政権獲得にもすくなからず彼女の関与があったろうし、セイフティーネットとなる貧民救済活動にしても、大統領夫人として模範的な活動だったと思う。一面、彼女は高級ブランドや高価なスポーツカーが好きで、ヨーロッパでもお金をけっこうつかったようだけれど、ファーストレディーなのだから、多少は大目に見るべきだと思う。貧しい生まれの彼女が、そこまでに成り上がり、派手なドレスを着て、外国の首脳と握手している。そういう彼女の存在自体が、なによりも、アルゼンチン国民の貧しい層に、大きな希望を与えたろう。彼女の人生のどの場面の対応を見ても、みごとで、すごく有能な人だったという印象がある。
肝心の夫のペロン大統領が独裁者となり、反対派の弾圧と、外資の没収、そして、ばらまき政策と、応急手当て的な経済政策を実行したのはよかったが、中長期的な経済力を発展させる展望に欠けたのは残念だった。しかし、これはエビータの責任ではない。
かくして、エビータというのは、困難な環境から身を起こし、たいした活躍をした、すばらしい女性だった、と自分は思っている。

エビータの経歴を見ていくなかで、とくに気になったのは、上流階級からおこった、彼女に対する「成り上がり者」「商売女」という非難中傷だった。自分は、くだらない、と思った。
「皇室が民間から嫁をもらうようでは、もう日の本も終わり」
というようなことを言った皇族となんら変わらない思考停止した頭からのナンセンスな批判である。
エビータがどんな出自で、以前にどういう商売をしていようと、関係のないことである。たとえ、彼女が以前にストリッパーをしていようが、売春をしていようが、AV女優をしていようが、それは貧しかったころに生活のためにしていた仕事なのであって、それをとやかく言うのは、卑劣だし、愚劣だと思う。
「あいつは昔、からだを売って稼いでいたんだよ」
「あいつは昔、力仕事をして働いて稼いでいたんだよ」
「あいつは昔、パソコンで仕事をしていたんだよ」
これらはいずれも、ものすごく恥ずかしいことのような気もするし、かつてはそういう苦労をしたのだと解釈すれば、ものすごく美しくも感じられる。
人生で問題なのはつねに、「いま」そして「これから」なのだと考えたい。
(2013年5月7日)



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『5月生まれについて』(ぱぴろう)
エビータ、エマーソン、マキャヴェリ、フロイト、クリシュナムルティ、ロバート・オーウェン、ホー・チ・ミン、バルザック、ドイル、中島敦、吉村昭、西東三鬼、美空ひばりなど、5月生まれ31人の人物論。ブログの元になった、より長く深いオリジナル原稿版。

『ツイン・オークス・コミュニティー建設記』(キャスリーン・キンケイド著、金原義明訳)
米国ヴァージニア州にあるコミュニティー「ツイン・オークス」の創成期を、創立者自身が語る苦闘と希望のドキュメント。彼女のたくましい生きざまが伝わってくる好著。


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5/6・文章家、フロイトの誠実

2013-05-06 | 科学
5月6日は、語呂合わせで「ゴムの日」。この日は『真知子』を書いた小説家、野上弥生子が生まれた日(1885年)だが、精神分析学者、フロイトの誕生日でもある。
フロイトの『夢判断』を、自分は若いころは文庫本でもっていて、ときどき読んでいた。
フロイトは、マルクス、ニーチェと並んで、20世紀の人類にもっとも大きな影響を与えた人物だと聞いていたし、この『夢判断』は発表当時、世界に一大センセーションを巻き起こした問題作だと聞いていたので、どんなものか、ひとつ読んでみようと思ったのだった。
実際に読んでみて、驚いたのは、学術書なのに、とてもおもしろく、読みやすいことだった。
「フロイトは、文章がうまい」
と感心した。

ジークムント・フロイトは、1856年、当時オーストリアだった、現在のチェコのプリボールに生まれた。両親はともにユダヤ系で、父親は毛織物の販売をしていた。ジークムントは、8人きょうだいのいちばん上の子だったが、厳密にはさらに上に年の離れた異母兄が2人いた。
ジークムントを産んだとき、母親は街ですれちがった見知らぬ老婦人から、こう言われたという。
「あなたはこの世に偉大な人物をもたらされた」
不景気と暴動のしわ寄せで、人々の敵意がユダヤ人に向けられだしたため、フロイト一家は、ジークムントが3歳のときライプチヒへ、4歳のときにウィーンへ引っ越した。
17歳でウィーン大学の医学部へ入学したフロイトは、24歳で大学を卒業。卒業後は、総合病院へ勤務しだしたフロイトは、28歳のとき、コカインに麻酔作用があることを発見した。
29歳のとき、パリの総合病院へ留学し、翌年、ウィーンにもどったフロイトは、この地で開業した。
神経科を専門とする開業医フロイトのもとへやってくる患者は、ほとんどがノイローゼの患者だった。当時おこなわれていた、電気や冷水による療法を試みた後、それらが効果がないとあきらめたフロイトは、催眠術による療法が試されていることを知り、それを試しだした。患者を催眠術にかけて治療しようというものだったが、やがてこれがうまくいかないことがわかると、次に彼は、患者に思いつくことを並べていってもらう自由連想による療法へと移っていった。
当時はヒステリーは、仮病か、または子宮が原因の病気で、男はかからないと考えられていた。これにフロイトは真摯に向かい合い、ヒステリーについて臨床研究を重ねた。そして、ヒステリーが起きる原因となったきっかけを患者が思いだし、そのときの感情をことばで表現すると、ヒステリー症状が解消されることを発見した。
フロイトはまた、ベルリンに住む開業医ヴィルヘルム・フリースと知り合い、彼と文通したり、ベルリンに会いに行ったりして、意見をぶつけ合い、自分たちの研究を育てていった。
フロイトは39歳のとき、自分の方法をはじめて「精神分析」と呼んだ。
1899年、43歳のとき、『夢判断』を出版。これは、それまで意味などないと考えられていた睡眠中の夢を、分析、解釈することによって、その人の精神のなかで起きていることを推察することができるとした画期的な書物だった。
50歳のころ、ユングとの交流がはじまった。が、58歳のころ、二人はたもとを分かった。
61歳のとき、『精神分析学入門』を出版。
1938年、82歳のとき、ナチス・ドイツ軍がオーストリアに進駐し、フロイトは英国ロンドンへ亡命。進行したガンのため、翌1939年9月、没。83歳だった。

フロイトの『夢判断』は、そのなかで、フロイト自身の夢を取り上げて分析しているために、彼自身がこれまでしでかしてきた失敗や、恥ずかしいこと、他人に言いたくないことまでを、自分で暴露する恰好になっている。もちろん患者のプライバシーは守るなどの配慮はされているが、それでも、フロイトとしては、そうとうな犠牲を払って書いたという意識があったろうと思う。フロイトはこの書のなかで、自分の夢の分析、解説をした後、こう書いている。
「非難を浴びせようとする者は、私以上に誠実になれるかどうか、ぜひ試してみてほしいものだ」(金関猛訳『夢解釈』中央公論社)
『夢判断』の魅力は、ひとつには、この「ほんとうのこと」を思い切って言ってのけた誠実さにあると思う。
そして、もうひとつは、フロイトの文才だと思う。
ユングの本も、自分はすこし読んだけれど、文章のおもしろさの差は歴然としていて、フロイトのほうが、一般読者にとっては、ぜんぜん読みやすいし、おもしろいという印象を自分はもっている。

「エディプスコンプレックス」「口唇期」「肛門期」……。
人間のさまざまな精神活動には、その底に、性的な衝動が原因となって横たわっている、とするフロイトの学説は、発表当時、ごうごうとした非難を浴びたり、無視されたりした。しかし、誰にも相手にされない孤独のなかで、彼は自分を曲げず、臨床例を積み重ね、考えを発展させて、それまで人類が目をそむけていた無意識の領域を、人類の前に広げて見せた。
人類のそれまでの常識を180度ひっくり返した科学者として、フロイトは、コペルニクスやダーウィンと並び称されるらしい。
自分としては、彼の業績もさることながら、周囲からの雑音にまどわされずに、自分の目に見えているの真実だけを追いつづけ、ぶれなかったそのタフな背骨がすごいと思う。
偉大な人物の人生とは、つらい、きびしいものだと、あらためて考えさせられる。
フロイトは、ヴィルヘルム・フリースへの手紙のなかでこう書いているそうだ。
「自分自身に正直でいることは、いい運動になる」 (SIGMUND FREUD, letter to Wilhelm Fliess, Oct. 15, 1897)
(2013年5月6日)


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5/5・中島敦の端正な美しさ

2013-05-05 | 文学
端午の節句、こどもの日の5月5日は、意欲・主体性が大事だと説いた『あれかこれか』の哲学者、キルケゴールの生まれた日(1813年)だが、作家、中島敦の誕生日でもある。
自分が、中島敦の文庫本をはじめて買って読んだのは、中学生か高校生のころだったと思う。いまでも、その本を持っているけれど、それは『李陵・弟子・名人伝』という角川文庫で、タイトルの作品のほかに、『山月記』『悟浄出世』『悟浄嘆異』が収録されている。
読んで、すぐに中島敦が大好きになった。
どの小説も、ある端正な美しさをたたえていて、その文章を読めばすぐに、
「ああ、中島敦だぁ」
とわかる。そしてなにより、おもしろい。同時に、ためになり、読後に心に重みをもって残るものがあり、さらに、読み終えるとなんだか読みはじめる前よりすこし賢くなったような気がする、という、「もう、小説にはこれ以上を望めない」といった作品ばかりなのだった。

中島敦は、1909年、東京で生まれた。おじいさんの代からの漢学者の家系で、祖父はお弟子さんが千数百人という漢学塾を開いていた人で、父親は漢文の教師だった。
敦が生まれて間もなく、彼が1歳になる前に、両親が離婚した。彼は祖母のもとに預けられたりしたが、その後、父親が再婚して、6歳のころには、父親のもとに引き取られた。ただし、父親は転勤が多く、敦は転校を繰り返した。
一高の生徒だった18歳のとき、肋膜炎にかかり入院。19歳のころ、喘息を発症。喘息の発作が起きるたび、はた目には、もうだめかと思われるほど苦悶するのが常だったが、この病気は彼が死ぬまで続いた。
21歳の年に、東京帝国大学の文学部国文科に入学。卒論は、荷風と谷崎を中心にすえた「耽美派の研究」だった。
24歳になる年に、大学卒業。卒業後は、高等女学校の教師になった。教師稼業のかたわら、小説を書いたが、喘息がいよいよひどくなり、転地療養の必要から、32歳の年に退職。南洋庁に就職して、フィリピンの東にあたるパラオ諸島に赴任し、植民地用の国語教科書作りにたずさわった。1941年の日米開戦のニュースは、サイパン島で聞いた。
太平洋戦争がはじまると、喘息の発作はいよいよひどくなり、彼は内地勤務を希望して、容れられ、日本へ帰国。
帰国後は猛烈な勢いで小説を執筆し、その作品が雑誌に載りだし、評判を集めつつあった1942年12月、没した。33歳だった。

中島敦の魅力は、ひとつには、その高い漢文の教養からくる、豊富なことばの正確さだと思う。彼の文章のなかでは、ひとつひとつのことばが由緒正しく、正確な位置におかれ、狂いがない。そういう的確な位置に配置されたことばによって文章が組み立てられているので、文章もすっきりと論理が通っていて、ぶれがない。だから、彼の代表作である『李陵』を読んだ後に、現代作家の文章などを読むと、現代のものは語彙がすくない上に、ことばの使い方も怪しく、なんだか、読んだ者の頭を悪くしてやろうとして書かれたのではないかと、悪意を勘ぐりたくなる。
二つ目には、中島敦の魅力は、作品の素材がとてもめずらしく、趣向が凝っていることだと思う。
『悟浄出世』『悟浄嘆異』は、孫悟空が活躍するあの『西遊記』から着想を得た思想劇で、『弟子』は孔子のお弟子さんの話。中国の古典に題材をとった『李陵』『名人伝』『山月記』のほか、くさび形文字のメソポタミア時代の学者が、文字に霊があるかどうか研究するという『文字禍』とか、南洋諸島を舞台にした『幸福』『夫婦』など、設定からしてバラエティーに富んでいる。

自分は中島敦の全集をもっていて、ときどき読み返す。
中島敦の小説は、けっして失望させられることのない、読んでおいて損はないという傑作ぞろいだけれど、ここでは一作品にしぼり、『光と風と夢』をおすすめしたい。
この作品は、『宝島』『ジキル博士とハイド氏』を書いた英国の作家、スティーブンソンを主人公にした伝記小説である。スティーブンソンは、中島敦と同様、からだを悪くして、南太平洋の南の島へ転地療養してきた人である。スティーブンソンの場合は、住みついたのがサモア諸島だったが、ここへやってきた彼は、現地の人々をいじめる本国英国のやり方を目の当たりにして怒った。スティーブンソンは本国の植民地主義を糾弾する投書をロンドンの新聞に寄せて論陣を張り、なにかにつけて、現地の人々の味方になった。彼は、現地の人々から「ツシタラ(語り部)」と慕われるようになった。という内容の小説である。
小説の冒頭、いきなりスティーブンソンが血を吐く場面からはじまる。
そういう小説なのだけれど、全編まるでスティーブンソン本人が書いたかのような臨場感あふれる筆致で、スティーブンソンの霊が中島敦に乗り移ったかのような迫力がある。
『光と風と夢』は、第十五回芥川賞の候補になった。が、最終選考で落選し、その回の芥川賞はたしか該当作なしだったと思う。選考委員のひとり、川端康成は推していたが、たしか彼は選考会に欠席していたと記憶する。
後世の文学者は、
「こんな傑作を落とすとは、戦時中で、選考委員はみんな頭がどうかなっていたのだ」
みたいなことを言っているが、さて、われこそはと思われる方は、『光と風と夢』を一読され、どちらの評価が適当か、ご自分の鑑賞眼でご判断されてみるのも一興、と考えるのである。
(2013年5月5日)



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5/4・オードリー・ヘップバーンが開いた道

2013-05-04 | 映画
みどりの日の5月4日は、日本の政治家、田中角栄が生まれた日(1918年)だが、映画女優、オードリー・ヘップバーンの誕生日でもある。
世界をあっと言わせた、オードリー・ヘップバーンの初主演映画「ローマの休日」を自分がはじめて観たのは、中学生のときだった。以前から、名作だとうわさには聞いていたけれど、実際に観てみて、驚いた。これは、とんでもない名作だ、と。

オードリー・ヘップバーンは、1929年、ベルギーの首都ブリュッセルで生まれた。オードリーは、英語、ネーデルランド(オランダ)語、フランス語、スペイン語、イタリア語ができ、5歳のときからバレエを習っていた。
オードリーの父親は、ナチスの支持者だったが、ベビーシッターとベッドにいるところを妻に見つかり、家を出ていった。オードリーが6歳のときのことだった。
ヨーロッパに戦雲がきざすと、オードリーの母親は子どもたちを連れて、ネーデルランドのアルンヘムへ引っ越した。ネーデルランドが中立を保ち、ナチス・ドイツの侵略をまぬがれると考えたためだった。が、ドイツは中立など無視して侵攻し、ネーデルランドは占領された。
戦争中は、オードリーの親族はレジスタンス活動に従事し、叔父がナチによって処刑された。オードリーの異父兄たちも、ベルリンの強制労働キャンプへ送られたり、地下にもぐったりした。オードリー自身も、レジスタンス支援のための募金活動をした。
戦争末期になると、ナチス・ドイツは、レジスタンス活動への報復として、ネーデルランド市民への燃料と食料の配給を止め、飢え死にしたり、凍死したりする市民が続出した。
オードリーの家庭でも食料に窮し、彼女は栄養失調になり、死にかけたこともあった。その反動で、戦争が終わり国連などの食料援助が届いたとき、オードリーは砂糖や缶入りのコンデンスミルクをかき込みすぎて、かえって病気になったという。
16歳の年に終戦を迎えたオードリーは、バレエの道を進み、レッスンのためにアムステルダムへ行き、後に英国のロンドンへ移り住んだ。やがてオードリーは、バレエダンサーとして舞台に出るよりも、コーラスガールとして出演したほうが3ポンドだけギャラがいいからという理由で、ミュージカルに出演するようになった。
その延長で、映画にも端役として出演するようになった。ある映画撮影のとき、たまたまロケのセットに来ていたフランス人女性作家のコレットが、オードリーを見て気に入った。それで彼女は、コレットの小説が原作の、ブロードウェイ・ミュージカル「ジジ(邦題「恋の手ほどき」)」の主役に大抜擢されることが決まった。
オードリーは米国ニューヨークへ渡った。そして22歳のとき、ブロードウェイ・ミュージカル「ジジ」は開演され、大ヒット・ロングランとなった。
彼女が、映画界の巨匠、ウィリアム・ワイラー監督のフィルムテストを受けたのは、そのころだった。ワイラー監督はそのとき、新作映画「ローマの休日」を撮ろうとしていて、その映画の主役である、ヨーロッパの小国の王女さま役を演じる女優をさがしていた。当初、主演には大女優のジーン・シモンズが 想定されていたが、ワイラーは新人女優、オードリー・ヘップバーンを気に入り、大抜擢した。フィルムテスト撮影のとき、ワイラーは、カットがかかった後もカメラをまわしつづけ、オードリーの素の表情を撮らせた。
オードリー・ヘップバーンはこの大ヒット映画「ローマの休日」一作で、世界中の映画ファンを魅了し、アカデミー賞の主演女優賞をとり、トップスターとなった。そして、彼女は、ハリウッドの美意識を一変させた革命的な女優でもあった。
大スターとなったオードリー・ヘップバーンはその後、「ティファニーで朝食を」「噂の二人」「暗くなるまで待って」「ロビンとマリアン」などに出演し、60歳のときに、女優業から引退した。
引退後は、国際連合児童基金(ユニセフ)の親善大使となり、エチオピア、ベネズエラ、エクアドル、ホンジュラス、スーダン、バングラデシュ、ベトナム、ソマリアなど、戦争や貧困の深刻な地域を訪ね、食料、薬品などの支援やその広報活動に励んだ。
かつて栄養失調で死にかけ、国際的な食料支援によって命を救われた彼女は、今度は支援する側にまわった。
彼女は、1993年1月、スイスで虫垂ガンにより没した。63歳だった。

自分は、オードリー・ヘップバーンのファンである。彼女の映画は、ハリウッド・デビュー以降のものは、1、2本を除いてすべて観ている。彼女の出演作品はたくさんあるが、傑作を一本挙げるなら、やはり「ローマの休日」だと思う。あんな映画はめったにない。もしも、この映画を観られる環境にありながら、観ずに一生を終えるような人があったとしたら、その人は人生にとんでもない欠陥を残したことになるだろう。

引退後の女優の生き方に、新しい道を切り開き、模範を示した人としても、オードリー・ヘップバーンという女優は、特筆されるべき人だと思う。
それまでのハリウッドでトップを張っていた女優たちは、年をとって美貌が衰えはじめると、薬漬け、アルコール漬けになって不慮の死を死んでしまう、といった例がすくなくなかったが、オードリー・ヘップバーンは、女優としての国際的な知名度を、人々を救う方向へ生かす道があることを、身をもって示した。彼女がそういう女優の最初でもなかったのかもしれないが、彼女が示した行動が、彼女の後輩たちへの大きな見本になったと思う。

映画「ローマの休日」では、オードリー・ヘップバーン演じる王女さまが、イタリアの通りに面したカフェにすわり、新聞記者のグレゴリー・ペックたちにすすめられてたばこを吸ってみる場面がある。はじめて吸ってみた王女さまは、感想を聞かれ、
「ぜんぜん平気(Nothing t it.)」
と答えるのだが、素顔のヘップバーンは、ケントという銘柄のたばを手離さないヘビー・スモーカーだったそうで、「ローマの休日」を観ると、そんな微笑ましい裏話も思い出され、懐かしい。
(2013年5月4日)



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5/3・マキャヴェリのクールな発言

2013-05-03 | 思想
憲法記念日の5月3日は、「ホワイト・クリスマス」を歌ったビング・クロスビーが生まれた日(1904年)だが、イタリア、フィレンツェの外交官、マキャヴェリの誕生日でもある。
冷徹な権力の方法論を説く『君主論』の著者マキャヴェリのことばは、新聞や雑誌、学術論文など、いろいろなところで引用される。マキャヴェリのことばは、つねにクールである。

ニッコロ・マキャヴェリは、1469年、現在のイタリア、フィレンツェに生まれた。父親は法律家だった。
ミケランジェロより六つ年上にあたるマキャヴェリが生きた時代のフィレンツェは、政変、戦乱の多い激動の時代だった。
マキャヴェリが25歳のとき、フィレンツェに事実上の独裁を敷いていたメディチ家が糾弾され、追放された。
その後は、糾弾の急先鋒だった修道士、サヴォナローラがフィレンツェの政治をリードしたが、彼も数年で失脚し、処刑されてしまう。それがマキャヴェリ29歳の年。
サヴォナローラが処刑されたすぐ後に、マキャヴェリはフィレンツェ共和国の第二書記局長に就任した。内政と、軍政を管轄する高級官僚で、外国との交渉にあたることも多い役職だった。
当時のイタリアは小国乱立の状態で、フィレンツェがピサを攻めたり、イタリアのなかで戦争があるかと思えば、フランスとスペインが、イタリアを舞台にして戦争をはじめるといったひどい状況だった。そんな時代に外交官、軍顧問などとして働いたマキャヴェリの生活は多忙をきわめた。
43歳のとき、メディチ家がフィレンツェにもどってきて権力を復活させると、マキャヴェリは職を失った。さらに、メディチ家に対する陰謀の疑いをかけられ、逮捕され、拷問を受けたりした。彼は、後ろ手にしばられた手首を吊るされ、肩の関節を脱臼させようとする責めを受けたが、陰謀への関与を否定しつづけ、結局釈放された。
マキャヴェリは山荘へ引っ込み、政治の表舞台から姿を消して、執筆に専念した。そうして書き上げたのが、『君主論』をはじめとする著作の数々だった。
『君主論』は、一国を統治するの君主が権力を維持し、安定して政治をおこなう方法を述べた書である。この本が画期的だったのは、それまでこの種の本に書かれがちだった、君主たる者が守るべき道徳や倫理といったものをきれいさっぱり捨て去ったことで、マキャヴェリはこの本で、民衆を支配し、権力を維持するためには手段を選ばない、という立場を明確にした。
47歳のとき、彼はこの本を、復活したメディチ家の権力者に献上し、ふたたびフィレンツェの政治権力に近づくことに成功した。そうしてメディチ家の依頼を受け、『フィレンツェ史』を書き、1527年6月に没した。58歳だった。

マキャヴェリがすごいのは、表向きの正義をとっぱらった、本音の部分を露骨に書いたところで、その勇気には、まったく恐れ入る。

「結果さえよければ、手段はつねに正当化される」

「民衆というものは頭を撫でるか、消してしまうか、そのどちらかにしなければならない」

こうして並んだマキャヴェリのことばは、読む者をぞっとさせる魅力をもって光っているようだ。500年の時を超えて、現代に燦然と光を投げてきているのである。
(2013年5月3日)



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