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著書『芸術家たちの生涯』
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『ねむりの町』ほか

5/21・サハロフの前向き

2013-05-21 | 科学
5月21日は、仏国の画家、アンリ・ルソーが生まれた日(1844年)だが、ロシアの物理学者、アンドレイ・サハロフ博士の誕生日でもある。
「水爆の父」サハロフ博士について、自分はあまりよく知らぬまま、いい印象をもっていなかった。頭脳はずば抜けていたにちがいないけれど、原爆製造プロジェクト「マンハッタン計画」を率いたオッペンハイマーと同様、やはり大量殺人兵器の制作に関わった科学者なので。
でも、近年になって、水爆を開発した後のサハロフ博士のことを知るようになり、だいぶ考えを改めるようになった。

アンドレイ・ドミトリエヴィッチ・サハロフは、1921年、ロシア(ソビエト連邦)のモスクワに生まれた。父親は私立学校の物理学の教師だった。
21歳の年に、モスクワ大学を卒業したサハロフは、ソ連科学アカデミー物理学研究所で、27歳ごろから、ソ連の国家プロジェクトである原子爆弾開発のチームに加わった。
1949年8月、彼が28歳のとき、原爆が完成。
1953年8月、32歳のとき、水爆が完成。この偉業によって、彼は「ソ連水爆の父」と呼ばれるようになったが、核実験による放射能汚染のひどさに驚き、あわてて当時の最高権力者、フルシチョフに、核実験の中止を進言した。ここがサハロフの転換点になった。
40歳のころから、民主化要求、人権擁護の発言か多くなり、1975年、54歳のとき、ノーベル平和賞を受賞。世界的な名声は高まったが、ソ連国内では批判も強かった。
1980年、59歳のとき、ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議。サハロフはすべての名誉を剥奪され、流刑罪に処せられた。
65歳のとき、流刑罪が解除され、モスクワにもどった。ソ連は「ペレストロイカ(改革)」の時代を迎えていた。
67歳のとき、サハロフは人民代議員に選ばれ、政治家として活動した後、1989年12月、心臓麻痺のため没。68歳だった。

カート・ヴォネガットの小説『タイムクエイク』には、こんな皮肉のくだりがある。
「彼(サハロフ)が一九七五年にノーベル平和賞をもらったのは、核実験に反対した功績によるものだ。もちろん、彼の核実験はすでに終わっていた。サハロフの妻は小児科医だった! 子供の病気を治す専門家と結婚しながら、水素爆弾を完成させることができるのは、どういう人間なのか? それほど頭のおかしい夫と連れそっていられるのは、どういう医者なのか?
『ねえ、あなた、きょうはなにかおもしろいことがあった?」
『ああ。わたしの爆弾はうまくいきそうだよ。ところで、きみのほうは? あの水ぼうそうの子はよくなったかい?』」(朝倉久志訳『タイムクエイク』早川書房)
じつはこのくだりには、時間のずれによるごまかしがある。
サハロフ博士が小児科の女医と結婚したのは、1972年、博士が51歳のときで、そのころ博士は、水爆を作っていた30代前半までとは、まったく考えがちがう別人になっていた。

サハロフ博士の人生は「人間は変わってもいいのだ」と教えてくれる。
自分のまちがいに気づいたら、さっさとやめて、その反対の行動をとるべきなのである。
人間は完璧ではない。まちがいもある。そのときどきで、いいと思われることをするべきで、もしも、後になって悪かったと気づいたら、沈黙したり、ざんげに熱中したりするのでなく、よかれと思う方向へ積極的に動き、前向きに生きていくべきだ、そういうことをサハロフ博士の人生は教えてくれている気がする。
(2013年5月21日)



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